メインストリートから一本入った道に、「Caffe Crepuscule」は開いている。知る人ぞ知る店、といった佇まいが入るのを躊躇させるこの店は来年で創業40年を迎える老舗である。といっても、大きいチェーンになることもなく、今も個人経営で街の人たちに親しまれてきた。昼間はカフェとして人を集め、宵闇が街に迫る頃にはそこは簡単なバーとなる。
アナベル・ガトーはいつからかここの常連となり、毎日昼間は昼食を取りに、夜になるとたまに一人静かに酒を嗜みにくるのだった。
彼は今日もカウンターで一人グラスを傾ける。今日は人が少なく、カウンターの中の店主とアルバイトは揃って煙草をふかすほどだった。店主の名は、モーラ・バシット、26歳。大柄な彼女は前店主の娘であり、健康的な肌色と親しみやすい性格があらゆる客から好まれている。彼女は機械いじりも好きなようで、たまにドライブと言っては店を閉めて自慢のカスタム車で出かけたりする。
アルバイト店員のジェーン・バーキンは20歳。元々美術系の学校に通っていたため、気まぐれに描く絵が店内に、これまた店主であるモーラの気まぐれで飾られたりする。意外に人気のある彼女の絵は、買い手がつくこともある。以前に、絵描きにならないのかと聞かれた彼女は、これで食べていこうとは思わない、と笑って言った。趣味で思いつくままに描いているだけらしい。
今、カウンター横に飾られている絵も彼女が描いたもので、『青い炎』と題されている。元々抽象的な絵しか描かないジェーンなので、「今回の絵、どう思う?」と尋ねられても毎回「普段聴かないアーティストのアルバムジャケットみたいだ」のような感想しか、ガトーにはいえなかった。
そして今回も、「この絵、どうかな?」とカウンター越しにジェーンが聞いてくる。
「うん、いいと思う」
珍しく彼が気に入った絵だった。アクリル絵の具で派手な原色使いの絵だが、そこまで存在感を主張するわけでもない。相変わらず何が言いたいのかイマイチ伝わらない絵だが、不思議に心が惹かれた。
「ほんとう?気にいったならあげるよ?」
あまりの珍しさにか、ジェーンが身を乗り出してきた。ガトーはネクタイを緩め、ワイングラスをカウンターに差し出した。ジェーンがそれを受け取る。乗り出していた彼女の体がひっこんでから、彼はこう言った。
「あと一週間待って貰い手がなかったら買おう」
「そんなこと言ってたら明日なくなっちゃうよ」
むっとした表情でジェーンが赤ワインの入った新しいグラスを差し出す。少し微笑みながら、ガトーはグラスを受け取った。やり取りを見ていたモーラが「つまみはいらないのかい?」と聞いてくるので、マリネを作ってもらうことにした。モーラは煙草を潰してから厨房へと入っていった。
「今日はよく飲むね」
「ん……そうか?」
「普段は2杯ぐらいで帰るでしょ?」
今日はもう4杯目、言いかけたところで新しい客が入ってきたのでジェーンは客のほうへパタパタと走っていった。
ここのところ、疲れている。新しい契約、プロジェクトも来週から始まるのでその準備と通常業務で忙しかった。明日から3日休暇を取っているから、その間に疲れを取ってしまいたい。今日ぐらいは、いつもより多めに飲んでも構いはしないだろう。そう考えて、ガトーはグラスの中身を見つめた。暗めの照明の所為で、赤いワインが濃い色合いを出している。
「やっぱりつぶれちゃった。てゆうか、寝てる……」
12時、客もどんどん減っていき、残されたのはモーラとジェーンとガトーのみとなった。ジェーンは床のモップがけの手を止めてカウンターに突っ伏しているガトーを呆れた顔で見つめた。モーラは、疲れてる上に飲みすぎたんだね、と言いながらも店じまいの手を止めない。バーとしてはかなり早めの店じまいだが、翌日も昼前に開店するので早く帰ってしまいたいところだ。
「モーラ、どうするの?ガトーさん背が高いし、私じゃ運べないよ」
「私はもっとどうしようもないよ。今日はキースが来てるからね」
「えー……しかたないなあ」
モップがけを終えて、ジェーンはガトーを揺さぶった。モーラは残されたグラス類を運んで洗っている。
「起きてーガトーさーん」
「……ん?」
軽く目が覚めたのかガトーは返事を返そうとするが、本人の頭は上手く働いていなかった。
「あ、起きた。ね、帰れる?」
「帰る……?どこに……?」
「だめだこりゃ」
モーラはまるで他人事のように笑った。ガトーはうつろな瞳のままその銀髪の頭をかきあげる。ジェーンは泣きそうな目でモーラに助けを求める。
「ああ、家にか」
そのとき、ガトーが瞳はうつろなものの自宅へ帰る意思を見せたため、店員二人はほっと安心した。モーラは、会計は今度でいい、ジェーンも店じまいは私一人でやるからガトーをタクシーに乗せて送って来いといった。
「お……重……」
ひいひい言いながら、ジェーンは路地裏からガトーをなんとか支えてメインストリートに出た。肩にのしかかってくる、とまでは言わないが、ガトーの重みが容赦ない。立っているだけでもきついので、タクシーが通るのを待ったが中々通らない。通ってもすでに乗客が乗っている。立ったまま眠ろうとするガトーに声をかけながら、石畳の歩道の上で少しよろけながらジェーンは道路を見つめていた。
「あ!止まって!」
もう限界か、というときに一台のタクシーを拾うことができた。さっさと押し込んで帰ろうとしたときに、
「うえぇ!?」
やっとタクシーを拾ったと思ったらガトーに掴まれてジェーンもタクシーに乗り込んでしまった。当の本人は行き先を告げてジェーンの肩にもたれるようにうなだれた。財布は持ってきたし、どのみちこれじゃガトーはタクシーを降りるのもままならないだろうと思い、おとなしくタクシーの窓から、すれ違う車のヘッドライトを見つめていた。ガトーの銀髪が顔にかかってくすぐったかったが、コロンか何かの香りが心地よかった。
「お客さん、着いたよ」
ジェーンは運転手の声で浅い眠りから覚めた。いつの間にかガトーのマンションについていたが、ガトーはまだ眠っている。慌てて運賃を支払い、ガトーをたたき起こしてタクシーから降りる。再び大きな体を華奢な肩に抱えて、マンションの前に立った。
「でっか……高そー」
物理的な高さではなく、家賃の高さをジェーンは言った。オートロック付きのエントランスを見ただけでそこが最近立てられたばかりのマンションであることがわかる。新しいだけではなく、デザインも洗練されている。ちなみにジェーンのアパルトマンは昔の映画に出てくるようなレトロなもので、オートロックなどもちろん付いていない。かと言ってさしたる不満もなく、むしろその古めかしい雰囲気も込みで気に入っている物件だった。
ここであってるのか不安になり、ガトーから鍵を半ばふんだくるように受け取り、確認してみたがあっているし、オートロックの鍵も差し込んだら開いた。実は金持ちなんだなーと妙に感心したジェーンだったが、肩の重みが増す一方なので、急いでエレベーターに乗り込んだ。
幸い、渡された鍵の束に「803」の番号がふってあったので重たい人間を背負う以外はさしたる苦労をせずに部屋に入ることができた。ジェーンは手探りで灯りを点け、とりあえずその重たい人間をベッドに横たえることに成功した。ガトーが苦しそうだったのでネクタイを抜き、Yシャツのボタンを一つ外した。ガトーはスーツを着ているが、脱がすまでできるほどの間柄でもないし、そうだったとしてもしてやる気力もなかった。文字通り肩の荷が下りたジェーンはとりあえずその場に座り込んで一息つこうとしたが、煙草がないことに気づく。いらだたしいが、しょうがない。それに非喫煙者の部屋で煙草を吸うのも気が引けるので、ポケットに入れた手で自分のアパルトマンの鍵を探した。
「あれ……?」
右のポケットに入れたと思った鍵がない。慌てて左のポケットと、ジーンズのポケットをまさぐるが、どこにも入っていない。店に置き忘れたようだった。幸い、携帯電話は持っていたのでモーラに連絡しようとするが、ディスプレイに表示された時間を見て、やめた。
「恋人との時間なんて邪魔されたくないよね……」
すでにモーラは家にたどり着いている頃だろう。ジェーンは諦めて明日、電話をかけることにした。
ソファーがあったのでそこに腰をおろして部屋を見回す。綺麗に整頓された部屋で、頭上を見るとシーリングファンがまわっている。近代的でセンスのいい部屋だと思った。家具は黒とシルバーで統一されており、ガトーらしいと思った。ふと、電気をつけっぱなしだったことに気づいて、眠っているガトーに気を遣い、灯りを消した。開いていたカーテンから外を見ると、他のマンションの明かりや、道路を走る車やバイクのライトで意外に明るいので、それも閉めた。
暗闇に閉ざされるとジェーンは自分も眠たくなり、そのまま布張りのソファーに身を沈め、眠りについた。
20080226