Crepuscule



10

一日、寝込んでしまった。

目を覚ましたときすでに外が暗くなっているのに気づいて、ジェーンはそう思った。携帯電話のディスプレイの光で照らされたベッドサイドのテーブルには、スポーツドリンクとミネラルウォーターと風邪薬の箱、それから体温計が置いてある。とりあえず部屋の電気をつけようと立ち上がったが、足元が覚束ない。風邪で寝込んでいる間に何も口にした記憶がないから、きっとその所為だろう。
寝起きということもあって、蛍光灯の光がやたらまぶしい。眉をしかめながらスポーツドリンクを喉に流すと、急に空腹感に見舞われた。起き抜けに食事を作る気にはなれないので、ベッドに腰掛けて体温を測ろうとした。自分の感覚ではもう寒気はしないし熱は下がっているように思えるが、念のため。

「あれ?」

体温計を手に取ろうとして、その下のメモに気がついた。ガトーが書いたらしい。

『仕事に行ってくる。熱は下がっているようだけど、どうしても具合が悪くなったら電話するように。番号は―』

仕事?ガトーは今日まで休みだったはず。まさかと思い、慌てて携帯電話で日付を確認すれば、何のことはない。ジェーンが丸二日寝ていただけだった。体がフラフラしているのも納得できる。

「あーあ……」

両手で頭を抱え込んで情けなさに打ちひしがれた。まず風邪をひいてしまったこと。丸二日も寝込んでしまったこと。その間おそらくガトーに迷惑をかけてしまったこと(大体、家に転がり込んでいる時点で大迷惑だろうが)。食事係としての責務を全うできなかったこと。情けなさに追い討ちをかけるように、おなかが鳴る音が耳につく。

「ご飯作らないと……」

ガトーがいつ帰って来るかわからないけれど。頼りない足取りでダイニングの方へ向かい、部屋の明かりをつけた。自分ひとりだけのこの部屋は、静まり返っていて妙に寂しく感じる。窓の外から通りを走る車の音がかすかに聞こえてくるだけの空間が嫌だったので、テレビをつけた。静寂に突如響くその音が、頭痛を呼び起こす。
音量を下げ、夕食のために冷蔵庫の中身を確認しようとドアを開けたジェーンの目に、おかしなものが目に入った。

「……りんご?」

白い陶器の皿に、皮を剥いてくし型に切られたりんごがおそらく1個分盛られていた。ラップでカバーされているけれど、時間が経ちすぎているためにところどころ茶色く変色している。
ガトーが切ってくれたのだろうか。
自分がやった覚えがないので、考えるまでもなくそうなのだが。手を伸ばして大き目のその皿に触れると、冷たさが指先から伝わる。けれど、皮が剥かれた面のデコボコを見ていると、暖かい気持ちになって目頭も熱くなってきた。りんごよりずっと大きな手で、慣れない手つきで切ってくれたんだろう、想像してみれば少し微笑ましい。あの人がりんごを剥くなんて似合わないなあ、なんて、気恥ずかしさで悪態をつきながら、皿だけを取り出して冷蔵庫のドアを閉めた。

ジェーンはソファーに両膝を抱え込んで、歌番組をぼんやり眺めながらりんごを食べた。起きぬけ、病み上がりかつ丸二日何も食べていない胃にちょうど良かった。甘酸っぱくて、少し表面がやわらかくなってしまっていたけれどおいしくて、全部食べた。少し胃も膨らんで、さあ夕食を作ろうというときに、電話が鳴った。

壁にかけるタイプの白い電話を取るべきか、取らざるべきか。一度受話器に手をかけようとして、その手をひっこめたジェーンは思案した。ここはガトーの家で、彼は一人暮らし。もし彼の知り合いだったら、自分が電話を取ることを不思議に思うだろうし、ガトーの迷惑になるかもしれない。それに、もし緊急の事態であれば携帯電話にかけるだろうし、ジェーンは鳴り響く音を無視して冷蔵庫のドアを開けた。

「……もー!」

一度鳴り止んだ電話が再び大きな音を立てる。取る気はないけれど、電話がずっと鳴っているのはあんまりいい気分ではない。ブロックのベーコンを取り出してシンク横に置いた瞬間、ジェーンはある可能性に気がついた。

「……ガトーさん?かな……?」

見つめたところで相手がわかるわけではないけれど、首を回して白い電話機のほうを見た。彼は自分の携帯電話の番号を知らないから、連絡を取るために家に電話をかける可能性だってある。立ち上がって電話機の方に歩き、再び受話器に手を伸ばしたジェーンは、同じく再び手をひっこめた。

「(ガトーさんって確定したわけじゃないし……他の人だったらいけないし……)」

鳴り響く電話から離れて、ジェーンは寝室に向かった。サイドテーブルから自分の携帯電話とガトーの残したメモを取って、書かれている番号を押した。もし、今ガトーが家の電話にかけているのなら、こちらからかけてもつながるはずがないから、念のためコール音が途切れてから通話ボタンを押した。

『―はい』
「あ、も、もしもし?ジェーンです。ガトーさん?」

何故敬語を使っているのだろう。緊張しているのだろうかとおかしくなった。

『ああ、今家に電話をかけたんだが』
「うん、ごめんなさい。あの、ほら、もし知らない人だったら迷惑かなって思って取らなかったの」
『何が迷惑なんだ?』

声の後ろから色々な音が聞こえる。雑踏の中にでもいるのだろうか。ジェーンがベッドに腰掛けると、スプリングがギシ、と音を立てた。説明しても、聞き返されたくらいだから伝わらないかもしれない。なんでもない、とごまかして携帯電話を左手に持ち替える。

『具合はもういいのか?』
「うん。あれだけ眠れば、ね。迷惑かけちゃってごめんなさい」
『いや、良くなったのならそれでいい』
「今、帰り?」
『ああ、何か食べたいものあるか?買って帰るんだが』
「え?食事なら作るよ?」

問い返したジェーンの耳に、かすかにガトーが笑ったのが聞こえた気がした。

『病み上がりの人間にそこまでさせるほど、俺は冷たくない。つもりだ』
「もう平気だよ、カルボナーラ作ろうとしてたけど……」
『寝込んでる間にろくなもの食べてないんだから胃に悪いぞ……』

半ば無理矢理切られた電話の最後のガトーの台詞が気になった。ジェーンは丸二日眠り続けていたと思い込んでいたけれど、『ろくなもの食べていない』と『何も食べていない』とでは意味が全く違う。携帯電話を折りたたみながら必死で記憶をたどってみる。何か食べたっけ?そもそも目を覚ました記憶は――

「ああっ!」

思い出した。まず、今腰掛けているベッドまでガトーに抱き上げられて運ばれた。熱で意識が朦朧としていてはっきり覚えているわけではないが。それから、大きくて暖かい手を握っていたような気がする。
もうその時点でジェーンは恥ずかしさと申し訳なさで布団の中にもぐりこんでしまった。別に、誰も見ていないけれど。
自分の醜態の心当たりはまだある。それで、その後は眠った気がするけれど、「熱が上がってる」とか病院がどうのこうのガトーが言っていた気がする。さすがに病院に運ばれれば意識もそれなりに覚醒し、記憶も残っているはずだから、ずっとこの部屋にいたことは確かだろう。それはいい。

「食べた……食べさせられた……」

熱が下がらず食欲もない自分に、ガトーがオレンジを剥いて食べさせてくれた。ちょうど、このベッドの横で、ダイニングから椅子を持ってきて座っていた。「傍にいて欲しい」、そんな意味の言葉を発した気がする。自分の我侭に付き合ってくれていたのだろうか。今はそこにはない椅子、大きな手、瑞々しいオレンジの酸味。だんだん記憶がはっきりしてきた。

「は……恥ずかしすぎる…………」

布団の中で体を小さく丸めてジェーンは悶絶した。顔が熱いけれど、風邪の熱ではない。傍にいて、なんて、今の自分は口が裂けても言えやしない。ガトーはどう思っただろうか、迷惑に感じたに違いない。「あああ」とか「もうだめだ」とか、声にならない叫びと後悔の思いをぶつぶつ口にしながらどれくらい布団に包まっていただろうか。

玄関のドアが開く音がした。




ジェーン?」

ガトーの呼びかけに応じる声が無い。テレビはつけっぱなし、なぜかシンクの横にはベーコンと卵。おそらくというか、確実にジェーンの仕業なのだが、当の本人が見当たらない。買ってきたものをダイニングのテーブルに置いて、寝室のほうを窺ってみると電気もついているし、布団が不自然に盛り上がっていた。

「どうした?まだ体調が悪いのか?」

返事は返ってこない。電話で話していたときは確かに声もしっかりしていたのに。ネクタイを解きながらよくよく見てみると、この布団の盛り上がり方はどこかおかしい。寝ているというより、叱られた子供が小さくなって隠れているような……。

「こら、出てきなさい」

ガトーは自分で言っておきながらその言い方が父親じみていて可笑しかった。そんな自分だけでなくて、布団の中に隠れているジェーンのことも可笑しかったのだが。噴出しそうになりながら、そのまま「父親ごっこ」を続けた。

ジェーン、怒らないから出ておいで」

身をかがめて、布団の塊と化したジェーンを揺り動かす。ゆっくりと布団からジェーンの頭が出てきた。表情は明るくない、むしろ泣きそうな顔でガトーを見つめている。

「……怒らない?」
「怒られるようなことをしたのか?」

何がなんだかわからない。ジェーンはむくりと体を起こしたが、口元まで布団を引っ張って顔を隠そうとしている。ガトーはベッドサイドに腰を下ろして続きを促した。

「怒られる……っていうか、迷惑かけた、から……」
「寝込んだことが?」
「それもあるけど……」

ジェーンが顔を布団にうずめてしまったので、続きが聞き取れなかった。

「聞こえない。なんだ?」

思い切ったように勢い良く顔を上げたジェーンは真っ赤になって捲し立てた。何度も言わせるなと言わんばかりの気迫だ。

「だからっ!……ベッドに運ばせちゃったこととかっ、オレンジ食べさせてくれたこととかっ……あと……」

顔を更に赤くして、ジェーンはうつむいた。

「そ、傍にいてって言った……こと……ごめんなさい……」

言い終わると両手で顔を覆い、ジェーンはベッドの上に立てた自分の膝の上につっぷしてしまった。
しばらく目を丸くして呆気に取られていたが、ガトーはこみあげてくる笑いをこらえきれなかった。

「なんで笑うの……」
「あ?ああ、すまない。……意外だったんだ」
「意外?」
「お前、そういうこと気にしてたのか、と思って」

3日前にバスタオル一枚で部屋をうろついていたかと思えば、こんなうぶなことも言う。少し驚いたけれど、これが彼女の「普通の顔」なのかもしれない。今まで強気に振舞ってきたのか、ガトーがそう思い込んでいたのか判断できないが。

「なによ……馬鹿にして……」
「そんなつもりじゃない」
「どーせ、ガトーさんはお姫様抱っこも、傍にいてとか言われることも慣れてるんだろーけどさ!…………笑われるくらいなら言わなきゃよかった」
「お姫様抱っこ……」

また笑いがこみ上げてくる。顔を上げたジェーンがジト目で睨んでいるのがわかるけれど、「お姫様抱っこ」か。なかなか可愛らしいことを言う。

「慣れてなんかいないがな」
「どーだか」
「ご機嫌斜めですか、姫」
「ひっ……姫って!からかわないでよ!!」

ジェーンは恥ずかしいのか、少し涙目でガトーの肩を叩いてくる。ガトーはからかっているつもりはないのだけれど、こういう顔が見られるのが楽しいし、また少し嬉しくもあった。

そんな心境に気づいていない「姫」は、まだご機嫌斜めのまま。




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20080314