Crepuscule



11

もはや毎日の日課になっている、冷蔵庫の確認。風邪から回復したジェーンは朝食のため、冷蔵庫のドアを開けた。

丸二日眠っていたため、昨夜は眠れなかった。けれど、起きつづけているのはガトーが許してくれず、結局ベッドの中でガトーの本を読んで過ごしていた(それすら、ジェーンの体調を心配するガトーにとっては妥協案に過ぎなかったが)。活字なんてほとんど読まない上に、仮に読むとしても恋愛小説ぐらいしか読まないジェーンが興味を持てそうなものはガトーの書架にはもちろん無かった。

ずらりと並んだ背表紙からガトーが選んだのはシェイクスピアの本だった。作者の名ぐらいはジェーンだって知っているが、読んだことはない。というより、読む気になった例がない。差し出された数冊の本を受け取りながら、げんなりしてみたけれど、他にある本は読めない外国語だったり難しそうな専門書だったりと、余計げんなりしそうだったので不満を吐き出すことはなかったが。

しぶしぶ、という表現が似合う仕草で布団にもぐりこみ、とっつきにくそうな本の表紙を開いてみたが、意に反して中身には引き込まれていった。中身、と言うより挿絵に。元々美術学校に在籍し、現在も絵を描くことが趣味であるジェーンにとっては絵だけを見ていても退屈しないくらいだった。かすれそうなくらい細い線で描かれた繊細な絵、思わず内容が気になって読み進めてしまう。挿絵を凝視していたおかげで、一冊読み終わるのにかなり時間をかけてしまった。本を閉じるころにはすっかり興奮してしまい、買ってきたスケッチブックに硬い鉛筆で絵を書いていた。挿絵のように綺麗な絵、ジェーンの描く絵とはまったく異なる雰囲気。読んだ話の内容を思い出しながら時間をかけて丁寧に描いた。

おかげで描き終わった頃にはすっかり目も肩も疲れ果て、空も白々と明るんでいた。

そして、今に至る。
ガトーは昨夜早々と寝入ってしまったので起こさないようにコーヒーメーカーの電源をいれた。こういうとき、豆をあらかじめ挽いていてよかったと思う。彼が何時に起床するか知らないけれど、早めに支度しておくに越したことはない。
そろそろ食材を買い足さなければならない。ジェーンは二人分の材料を確認しながらそう思った。

「(負担、かもしれないな……)」

外で食べるより安上がりなのは当然だけれど、それでも二人分の食費と考えればそれなりに金銭的な負担もかかる。数日前に食費ぐらい出させて欲しいとガトーに申し出たのだが、拒否されてしまっていた。「作ってもらってるのだから」と言って。とは言ってもむしろ転がり込んできたジェーンは、そのくらいはして当然のことであると考えているから肩身が狭い。
加えて、ガトーはジェーンの精神状態を心配してくれているけれど、意図しない同居状態に置かれているのはガトーも同じこと。ストレスに感じているに違いない。

「早く新しい部屋見つけないと」

奮い立たせるように、呟いた一言が胸をチクリと痛ませた。この部屋が物理的に居心地良いことに加えて、二人で過ごすことの楽しさ、暖かさが失われるのが怖いのかもしれない。
あと2日で、モーラが旅行から帰って来る。最初は、彼女の家に転がり込むつもりだったから、そうすればもはやガトーの家に居続ける必要はない。なのに今のジェーンは心のどこかで彼女に拒否して欲しいとも思っている。今の生活が終わりを告げても仕事に行けば常連客のガトーにほぼ毎日会えるのはわかりきっていることなのに。何を、望んでいるのだろう。
ため息をついてから、落ち込んだ気分を持ち直すために首を振った瞬間、電子音がけたたましく部屋に響いた。アラームだった。

「おはよう」

ガトーが手を伸ばしてアラームをとめるのを確認して、ジェーンは声をかけた。ぼんやりした表情のガトーはアラームの横の眼鏡をかけて、一呼吸遅れて「おはよう」と返した。

「コーヒー飲む?朝ごはんはもう少し待ってね、まだ出来てないから」
「あー……いや、まだいい」

マグカップを用意していたジェーンは、ガトーが防音室に消えるのをただ見送るだけだった。時刻はまだ7時。着替えにでも行くのだろうと思って、フライパンをコンロの火にかけた。油をひいてベーコンを乗せようとしたとき、ドアが開く音がしたのでそちらの方を見ると、ガトーがトレーニングウェアに身を包んで出てきた。

「どうしたのその格好……?」
「ジョギング」
「ジョギング?」

似合わない、と言いそうな顔のジェーンに、ガトーは憮然として言った。

「日課。帰ってシャワー浴びるから朝食はその後でいい」
「気をつけてね」
「ああ」

新婚みたい、と、ここ数日感じ続けている。それは気恥ずかしくもあるけれど、どこか心地よい違和感だった。
コンロの横にベーコンが放り出されているのを見てジェーンはフライパンを火にかけたままだったのを思い出し、慌てて火を消した。



「あのね、ちょっと見て欲しいものがあるんだけど……」

食事を終えて、ネクタイを締めているガトーに、ジェーンは声をかけた。出勤前に見せるのはどうだろうかとは思うけれど、今見て欲しかった。ジェーンは鏡に映ったガトーが慣れた手つきでネクタイを整えるのを見つめながらA3サイズのスケッチブックを抱えて返事を待っていた。

「なんだ?」

鏡に向かっていたガトーは振り向いてジェーンに聞いた。それまでガトーの仕草に見とれていたジェーンは慌ててスケッチブックを開く。一晩かけて描きあげた、スケッチブックいっぱいの絵をガトーに差し出した。

「こういう絵も描けるんだな」

意に反して、写実的な人物画だった。きっといつものように抽象的でよくわからない絵だろうと思っていたから少しガトーは驚いた。加えて、素直に感心した。

「それってどういう意味?」
「人物を描いてるのは初めて見たから」
「めったに描かないけどね……昨日本を読んでたらなんか、こう、インスピレーション?」
「本?」
「ハムレット」

言われてよくよく見てみれば、確かに描かれている男女の格好は中世のものだし、ハムレットと聞けばこれが主人公とその恋人オフィーリアであることが想像できる。貸した本には挿絵があった。それに雰囲気が似ているけれど、そのまま写したような絵ではなくてジェーンの“らしさ”がちゃんと出ている。それだけではない、狂気に飲み込まれるハムレットを悲しむオフィーリアの苦悩が、切ない横顔に描かれている。美術学校を卒業したのは伊達じゃないんだな、とガトーは改めてジェーンの画力と観察眼に舌を巻いた。

「上手いな。うん、他の本も読んでみるといい」
「ハムレットでもっと絵を描きたいけど、他のも興味あるからそうしようかな」

嬉しかった。Crepusculeに飾っている絵を何人かの客に褒められたことはこれまでも何度かある。もちろんそれも嬉しいのだが、ガトーに褒められたことが、それが殊更嬉しかった。

「他にも色々な本があるから本棚は自由に見ていい。じゃあ、俺はもう行くから」

ガトーはスーツの上着を羽織りながら玄関へ向かった。返されたスケッチブックを大事そうに抱えて、ジェーンはそれを見送った。
朝食の片づけをしながら、ジェーンの心は弾んでいた。もっと見て欲しいと思った。もっと褒められたいと、認められたいと思った。

「違う……そうじゃないんだ」

私のことを、知ってほしいんだ。

ジェーンは食器の泡を流す手を止めた。流れる水だけが皮膚に伝わる感覚。秋を迎えて冷たくなっている水、両手の泡を流しても、まだ水の冷たさを感じていたかった。
自分のことを知ってほしいのは、
この部屋を出て行きたくないのは、暖かさを失いたくないから。
暖かいのは、それがガトーだから。

彼を、愛してしまったから。

そう、気づいてしまった。
恋人でもなんでもない二人が同居している今の状況で、自分のこの気持ちに気づいてしまったのは、悔やむべきことかもしれない。今までの関係を続けることと、いっそ思いの丈を吐き出してしまうこと、どちらがいいのだろうか。
考えるまでも無い。この思いが拒絶されればまた自分は居場所を失い、孤独に打ちひしがれるのは明らかだ。拒絶されると決まったわけではないけれど、可能性は良くも悪くもゼロではない。

何食わぬ顔で、想い人と生活することなどできるだろうか。

いや、出来る出来ないの問題ではなく、そうしなければならない。そうしていれば大きな痛みを感じることはないのだ。例え伝えることのできない想いにもどかしさを感じ、心を痛めることがあっても、その痛みはまだ堪えられる。
ジェーンにとって堪えることのできない痛みは、想いだけでなく存在を拒絶される痛み。もちろんそれはおそらく、誰もが堪えることの出来ないもの。
それに、モーラの返答が承諾だろうが拒否だろうが、遅かれ早かれジェーンの新居が決まればこの生活は終わる。それも辛いのだけれど、このいわば一瞬の小さな痛みを堪えなければいけない期間は短い。その後のことは、それから考えればいいのだから。

流れるままだった水で残りの食器を洗い、ジェーンは今日こそ部屋探しに出かけようと決心した。心の中はそのことだけでない様々の決意に満ちていた。



ただいま、とガトーが口にしなかったのは、朝に「気をつけて」と言ったジェーンと同じく、気恥ずかしさがあったためだろうか。
ドアを無言で開けた彼の鼻先を食欲を誘う食事の香りが、耳をジャズのメロディが掠めていった。今となってはなかなか見かけることの無いクラシカルなレコードプレイヤーの使い方もジェーンに教えていたので、適当にレコードを選んでかけているのだろう。
玄関の横に掛かっている水彩画。住んでいたアパルトマンからの景色を描いたのだと、ジェーンがいっていたのを思い出した。そういえば、新しい家は見つかったのだろうか。
今日で5日の同居生活ももうすぐ終わるかもしれないと思うと、言葉で表せない思いがガトーの心の中に満ちていた。この5日間、食事はもとより色々な家事をジェーンにしてもらっていた。それを、再び自分がしなければならないという煩わしさから憂鬱になるほど、自分が小さな人間ではないと自覚はしている。
遠雷が聞こえた。
帰り際から雲行きは怪しかったけれど、とうとう降りだしている様だった。
掛かった絵の空は、裏腹に明るいものだった。

「あ、お疲れ様」

ガトーが鞄をソファーの横に置くと、食事の盛り付けをしていたジェーンが気づいて声をかけた。
「お疲れ様」、便利な言葉だと思うけれど、どこか仕事上の挨拶のようで白々しい。お互い妙な気を遣わずに済むようにそう言っているのかもしれないが、ガトーはどこかで「おかえり」の言葉を待っていたのだと思った。

「雨には濡れなかった?」
「ああ」
「よかった、ちょっと待ってて、すぐにできるから」

手を休めずにてきぱきと料理を準備しているジェーンを見つめながら、ガトーは上着を脱ぎ、ネクタイを外した。覗き込んだ食卓は、いつもより手が込んでいるように見える。

「どうしたんだ、これ。シャンパンまで」

黒いシャツのボタンをひとつ開けながらたずねると、ジェーンは少し困ったように微笑んで見せた。誕生日、というわけではないと思うけれど、ガトーに心当たりはない。

「色々迷惑かけたから、ちょっと頑張ってみたの」
「そんなこと……気にしなくていい。逆にこっちが困る」

人として当然のことをしただけ、ガトーは椅子に腰を下ろしながら思った。ジェーンはフォークを差し出し、自分も椅子に腰をおろす。

「お世話になってるんだから、これくらいさせてもらわないと」
「じゃあ、全快祝いに花でも買ってくればよかった」

グラスにシャンパンを注ぎ、そんな冗談を口にしてみた。いや、ガトーにとってそれは冗談のつもりだったけれど、彼は言った側からそれが妙に照れくさく感じ、同時にジェーンには何の花が似合うのだろうかなんて、考えてしまった。

「そんなことされたら惚れちゃうよ」

負けじと言い返すジェーンの口調はどこか真剣で

「それは願ったり叶ったりだ」

お互いに相手が冗談なのか本気なのか分からない。

無言でぶつかるグラスの音にかぶせて、部屋の中ではジャズの音色、窓の外では雨音が響いている。

こうして彼らの5日目の夜は更けていった。

20080325