Crepuscule



12

同居生活の6日目はちょうど週末で、ガトーは仕事が休みだった。
昨夜からの雨は、まだ止む気配を見せない。おかげで、洗濯物は干せない、外出する気にもなれない、髪は跳ねるという憂鬱な三重苦を二人は味わっていた。
ガトーは長い髪が広がるので珍しく後ろでまとめている。
雨は一向に止みそうに無い。普段よりも幾分大きめのレコードの音も、気を晴らしてくれそうな明るいものではなかった。二人とも起きたのが遅かったので朝と昼を兼ねたブランチの後、ジェーンは食器を拭きながら雨は嫌いだと思っていた。拭いても拭いても食器が乾かないのだ。
それ自体湿気を含んでいるクロスを取り替えながら、食器を拭きあげる。店で使っているようなプレートがあれば、料理の品数が多くても食器の枚数を増やさずに済むのに、とジェーンは心の中で文句を言った。
それも、ガトーの家に馴れたからこそ思えることなのかもしれない。

「ユウウツだねー」
「ん?ああ、そうだな」

ジェーンはあらぬ方向へ跳ねている自分の髪の毛先をつまみながら愚痴をこぼした。ガトーの髪が綺麗に纏め上げられているのに対して、ジェーンはヘアクリップで簡単に留めているだけ。その所為か、不器用だからか、零れ落ちた髪が時折視界に入ってくる。
ユウウツ、と言ったのは自分の髪のことだけでなく、雨のことを言っているのだろう。自分に向けられた言葉なのか分からないが、ガトーはそう解釈し、言葉を返した。実際彼自身も髪が広がるだけでない憂鬱を味わっている。
けれどジェーンはそれ以外の意味も含めてユウウツだと口にしていた。それは無論ガトーに伝える目的を含んでいない。

あと一日でこの生活が終わるだろうというのが彼女にとって最大のユウウツの種だった。

そのユウウツの種がガトーに正しく伝わればいいのに、と、想いを口にしないジェーンはため息をつく。それすら、ガトーにとっては雨に対するため息だと受け取られているだろうけど。
部分的に重なるそれぞれのユウウツが沈黙を呼び、ただレコードのメロディだけを響かせる。繊細な音に声を割り込ませたのはガトーだった。

「そういえば、部屋は決まったのか?」

昨日、ジェーンは不動産屋に足を運んでいたが、それを話していなかった。零れ落ちた髪を懸命にまとめようと四苦八苦していたジェーンは手を休めて説明した。

「うん。家賃も場所も元の家とそう変わらないところに決めたんだけど……」

ヘアクリップをカチカチ慣らしながら、ジェーンはダイニングの椅子に腰を下ろした。

「入居できるのが最短で一ヵ月後なんだよね」

あの火災で焼け出された元住人達が、元のアパルトマンと同じような条件の家に決めるのは容易に想像できる。ジェーンとて同じように行動しているのだから。ただ、面倒くさがりな性格と、この同居生活のゴタゴタで行動を起こすのが遅すぎたのかもしれない。
理想的な物件はすでに押さえられていて、かろうじて見つけたそれも今の住人が出て行く一ヵ月後を待つしかない状態だった。

「それはまた……」
「大変でしょ」
「不運は重なるな」
「そうだね……でも、やなことばっかりだったわけじゃないよ」

ソファで外国語の専門書を読んでいたガトーは、ジェーンの言葉で本を閉じた。レコードは曲と曲の間の空白の時間にさしかかる。

「色々、知ることができたし。ガトーさんが優しいこととか、ピアノが上手いこととか、眼鏡かけてることとか」
「それ、嬉しいことなのか?」
「そうだよ?ねえ、私もピアノを弾いてみたいな」




雨の湿気で、鍵盤が少し湿っている。軽く音を出してみてから、ガトーは眉をしかめた。

「月の光が弾きたいのか?」
「うん」
「難しいぞ?大体、譜面が読めるのか?」
「……読めません」

予想通りの答えが返ってきた。何か簡単な曲はないものかと思案しながら、そんな自分を可笑しく思う。とりあえず棚から楽譜を探すガトーの横で、ジェーンが思いついたように声をあげた。

「あ、あの曲!私がアパルトマンに行った日に弾いてたやつ!」

嬉々としてしゃべるジェーンだが、ガトーは覚えていなかった。大体、あの日は色々曲を弾きすぎてもはや何を弾いて何を弾いていないのかすら見当もつかない。ジェーンはガトーにかまいもせず、右手の指先だけで鍵盤を叩いている。
いくつか鍵盤の上を白い指先がさまよったかと思うと、急にそれは聞き覚えのあるメロディに変わった。

「ジムノペディか……」

楽譜は確かあった。けれど、一度軽く聴いただけで、主旋律だけとはいえ弾けるのもたいしたものだと思う。鍵盤をさまよっていた指は、どうやら最初の音を探していたらしい。

「そういう曲なの?わからないけど、こんな感じの曲」
「弾けてる。楽譜も教える必要もないんじゃないか?」

右手で主旋律を弾くジェーンの左側で、ガトーは左手の和音のパートを弾いた。時折リズムを乱しながらも、それなりの演奏は出来ている。簡単といえば簡単で耳にも残るメロディだけれど、純粋にすごいと思った。

「ここから先、忘れちゃった。楽譜……」

笑いながらガトーのほうを向いたジェーンの視線と、そのしばらく前から彼女を見ていたガトーの視線がまともにぶつかった。防音室だから、外で降り続ける雨音も聞こえてこない。静寂。互いの呼吸も鼓動も聞こえそうな沈黙を破ったのはジェーンの服のポケットに入っていた携帯電話の呼び出し音だった。

「も、もしもし!?」

不自然に裏返る声、ジェーンは椅子を下りて防音室から出て行った。残されたガトーは一人無言で鍵盤を叩いた。穏やかなジムノペディではない。『雨の庭』、激しく地面を打つ雨だれが途切れない早いアルペジオで表現されている。
彼がそのとき何を思ってその美しくも哀しい曲を弾いていたのか、知るものはいない。

短すぎる曲を弾き終えて、また彼はあの時と同じ『別れの曲』を弾きだした。ドア一枚隔てた向こうにジェーンがいる。ジェーンの言うあの日のことは思い出してきていた。
他の思い出も。
ドア一枚、壁一枚をはさんだ向こうにいる人。どれだけの音を出しても伝わらない防音壁は自分の心のようだと思った。
ガトーは手を止めた。悲しい曲は、それに引きずり込まれそうで弾きたくなかった。彼は彼女のことを、考えた。無邪気で、小さくて、柔らかくて。

「小犬……」

ふと微笑みがもれた。

ジェーンが電話を終えて入ってくると、聞き覚えのある曲が奏でられていた。大きな手がよくああも動くものだと感心してしまう。

「小犬のワルツ!」

弾き終えたタイミングで、ジェーンは曲名を誇らしげに言い当てた。

「ご名答」
「そのくらい知ってるよ。この曲、ほんとに小犬か小猫が飛び跳ねてるのが目に浮かぶくらいだよね」

お前のことを、その小さな動物みたいに思ってるんだがな、とは言わず、ガトーは口元に微笑を浮かべるだけだった。曲解されて誤解を生むのは避けたいし、仮に意図するままに伝わってもそれはそれで照れくさいから。

「あ、そうだ。さっきモーラからの電話だったんだけど」
「うん?」
「“もうすぐ帰るけど、お土産沢山あるから寄らせてもらう”って」
「うちに?かまわないけど、場所判るのか?」
「メールするから教えてくれる?」

口頭で説明を受けたあと、ジェーンは携帯電話を操作してモーラにメールを送った。そうしてまた、二人はレッスンを始めた。雨だれの音も届かない静かな部屋に軽やかなメロディは断続的に響いた。

モーラとキースがガトーのマンションにたどり着いた頃には日も暮れていたし、ジェーンはジムノペディをなんとか弾けるようになっていた。

「モーラ!キース!お帰りなさい!」
「元気にしてた?」
「久しぶりだねジェーン」
「とりあえずあがってあがって、タオルもあるから」

濡れた肩を拭きながら、もう自分の部屋のようにふるまうジェーンを、モーラとキースは驚きながら見つめていた。促されるままにリビングへと案内されると、普段見るよりもだいぶくつろいだ格好(と言っても濃いデニムに黒いブイネックのセーターで、ラフすぎることはないのだが)のガトーがコーヒーを淹れていた。

「なんか……不思議な感じ」

キースは苦笑しながら正直に感想を呟いた。何の因果か知らないが、あまり交流のない人間の家でもてなされている。大きな紙袋を床に置きながらガトーに軽く挨拶をする。遅れて入ってきたモーラはやはり長年の付き合いのためか幾分打ち解けた会話だ。

「あ、もう……そういうことは私の仕事でしょう?」

そういうこと、というのはコーヒーを淹れる仕事なのだろう。最後に姿を現したジェーンがガトーに駆け寄ってコーヒーメーカーから離そうとする。

「いいから。ほら、久しぶりに会ったんだから二人と話でもしてればいい」
「でも……」
「そりゃあ、お前ほどコーヒーを淹れるのは上手くはないが」
「そういうことじゃなくて、……じゃあ、お願い」

しぶしぶながらもソファに腰をおろすジェーンと、彼女を気遣うガトーの穏やかな微笑を、モーラとキースは感慨深く眺めていた。特にキースは、いつも眉間に皺を寄せて難しい本を読むガトーしか店で見かけたことがないため、そのギャップに少なからず驚いていた。
だが、そんな彼ですら微笑がジェーンによるものぐらいは予想がつく。
ソファベッド(今はソファの形)に並んで座るモーラを見ると、彼女も同じようなことを考えているようだった。何か企んでいる、というと聞こえが悪いが、そんな微笑。

「ずいぶん馴染んでるわね」

笑いながら、モーラはジェーンに話しかけた。もう一組のソファに腰を下ろしたジェーンは、顔を赤らめて「そんなこと……」と一応の否定をした。ガトーは話の内容に苦笑しながら「いい食事係だ」などと言っている。

「(これはひょっとするとひょっとするかもね……)」

口を挟まないキースは、モーラとジェーンの会話を聞きながら真剣に考えていた。トレードマークのサングラスに雨の雫がついている。それを拭いているうちに、コーヒーが運ばれてきた。ジェーンはダイニングの椅子に腰掛けるガトーに席を譲ろうと腰を浮かせたが、ガトーが軽く手で制したため、再び腰を沈めた。隣に座ればいいのに、とは、招かれた二人は口にしない。

「馴染んでるんなら、入居までここにおいてもらえばいいんじゃない?ジェーン?」
「……は!?」

モーラは冗談めかした口調で言ったのに、ジェーンは過剰に反応し、ガトーは平静を装っているものの口に運んだコーヒーをもう少しでテーブルと床にぶちまけるところだった。気づいているのはどうやらキースだけらしいが。熱いコーヒーを口に流し込みながら、キースはジェーンとガトーの顔を交互に眺めた。頬を赤らめたジェーン、あらぬ方向を見つめて誰とも視線が合わないようにするガトー。

「(これは“ひょっとすると”どころじゃないかもね……)」

自分の恋人が何を考えているのか想像はつく。それがどういう結果をもたらすのか、キースにもわからない。

20080329