仕事を終えて、会社を出たガトーの携帯電話に着信が入った。画面に表示された番号には見覚えはない。怪訝に思いながらも通話ボタンを押してみた。雑踏の中では自然と声が大きくなる。
「はい」
『あ、もしもし?ガトー?アタシよ、モーラ』
安心と驚きが彼を襲った。よく知る人物ではあるけれど、何故彼女が自分の番号を知っているのだろう。それに、かけてくるような用件も思い当たらない。
「なんだ?」
『ジェーンのことよ』
ギクリとした。昨夜から顔をあわせていない。モーラにニナのことを聞いてから自分が部屋にこもってしまったのがジェーンの気に障ったのだろうか。反省はしているし、謝ろうとも思っていたのだが顔をあわせることが出来ないのではしょうがない。仕事をしていることで幾分気は紛れていたが、心にひっかかっていた。まさかモーラから説教を受けるのではないかと内心不安を抱えながら、彼は携帯電話を持つ手を変えた。
『今晩借りてくわね』
「借りるって……」
別に自分の所有物でもないのに、と言いかけて馬鹿馬鹿しくてやめた。モーラだったら言いたいことに気づいているのかもしれない。明日には返すわよ、とこちらの意図をやはり汲んでいるような言い回しをして、モーラは電話を切った。
ジェーンに電話をかけようとも思ったけれど、ちょうど乗り込むバスが来たのでやめた。そのことに少しだけほっとしながら。
「はぁ……なんでアタシがここまでしなきゃなんないのよ……」
ガトーに電話をかけたときの明るい声とは裏腹に、モーラは携帯電話を閉じながらため息をついた。
未だCrepusculeの中に残っているキースは簡単な夕食をご馳走になっている。同じくそれを食べているのはジェーン。結局モーラの家に泊まることを条件に、彼女はなんとか仕事をこなした。ガトーと同じく、悩みを抱えている人間の常で動いている方が考えずに済む。自分の作った料理は、今の彼女にとっては味がしないも同然で、ぼんやりとフォークを弄んでいたところにモーラの声が振ってきて、それでようやく我に返った。
「キース、ジェーンを送ってって。アタシはこれからニナに会うから」
今のジェーンにとって鬼門というか地雷と言うべき名前を敢えて出すモーラの気持ちがわからないでもない。キースは状況を正しく理解していた。結局のところ、部外者である自分達がどう手を尽くしても本人が頑張らなければ意味が無い。せいぜい、背中を押すくらいが出来ることなのだ。
ジェーンはまた虚ろな目でディッシュプレートのパスタを見つめていた。返事は、ない。モーラは二人分の皿をさっさと片付けに入った。フォークをカウンターの向こうのモーラに手渡しながらもジェーンは無言だった。
「気になるの?」
しばらくして、沈黙を破るようにキースが口を開いた。モーラは蛇口をひねって水をとめ、食器を奥に戻しに行った。
キースの声にジェーンはただ顔を上げた。サングラス越しの視線は真剣で、ジェーンはまた視線をカウンターに戻した。
「気にすることないんじゃない?」
「違うよ……私が心配してるのは」
「二人とも、出るわよ」
モーラに半ば強制的に店の外に出された。ジェーンは一週間前に置き忘れていたバッグを懐かしそうに掴んでいる。鍵を閉めるモーラを待っているキースとジェーンの間に会話は無い。
「じゃあ、アタシは行くから。ジェーン、日付が変わる前には帰るから」
モーラはやけにさっぱりとした口調でそれだけ告げると、家とは逆の方向に歩いていった。残されたキースは促すようにジェーンの肩に手を置いた。気づいたジェーンが顔を上げると、キースはしばらくぶりの微笑を見せていた。
「歩いて帰ろうか」
普段はバスで通る街並みを眺めながら二人はゆっくり歩き出した。街路樹は、暗くてよくわからないけれど、おそらく既に色づいているだろう。そういえば、日の落ちるのも早くなってきて、ああ、秋なのだなとジェーンは感じた。
季節も、変わっていく。
「で、何が気になるって?」
キースとジェーンのコンパスは差がある。モーラとキースが並んでいると、失礼ながらずいぶん小さく感じるが、女性の平均的な身長であるジェーンと比べれば身長差はそれなりにある。
「うん……あの、ニナさん、だっけ?」
「うん」
「すっごい美人だから」
「だから何?」
最後は少し急かすように続きを促したキースにジェーンが言った言葉はこうだった。
「ああいう人が、好みなのかな……って。私、どう見てもあんなタイプじゃないし……」
「自信ないんだ?」
「…………うん」
ジェーンは情けなくて目頭が熱くなってきた。鼻の頭がツンと痛くなって、片手でごまかすようにこすった。
「諦めるの?」
キースは追求をやめない。鼻をこすっていた手を下ろそうとしたけれど、逆に両手で顔を覆った。
諦めようかとも、思った。けれど、そう思うたびに辛くて辛くてしょうがなくなる。それをキースに伝えた。
「諦めちゃ、ダメだよ」
言うのは簡単だ。街灯も車のヘッドライトもジェーンの目には涙で滲んで映る。
「誰もその気持ちをとめることなんか出来ないんだよ?このまま諦めるより、ちゃんと伝えた方がジェーンもスッキリするだろ?そうしたいんだろ?それに、どうなるかわからないことなんだから」
今日はキースに励まされてばかりだ。ジェーンの眼前の景色はますます歪んでいった。人差し指で涙を拭いながら、首を大きく振って頷いた。キースは無言ではあるけれどそれをしっかり見届けたらしく、安堵したため息をついた。
「それから、どんな女の子……いや、女の子だけじゃないかな。まあ、どんな人でも、魅力的なのは自分に自信を持ってる人だと思うよ」
ジェーンの返答を待たずに、キースは続けた。
「自信がなくてビクビクしてる人よりも、いつも胸を張って前を見て歩いてるような人のほうが、魅力的だと思わない?少しくらい自信過剰でもいいんだよ。魅力があるのに、それを自分で否定してるようじゃ本当の自分、見せることが出来てない、と思うけど」
「“ためらわずに、一気に線を引きなさい”」
「え?」
ジェーンは顔を上げて、そんなことを言った。わけがわからずにキースがジェーンの顔を見ると、微笑が浮かんでいた。
「美術学校のときの先生がね、言ってたの。私、いつも絵を描く時に失敗しないか心配ばっかりしてて、それを見かねた先生が言ってくれたのね。それで……そういわれて描いた絵が、初めて入選し……あああああ!!」
しみじみと思い出を語っていたジェーンが突然大声を上げて頭を抱えた。キースは驚き、道行く人たちは何事かと視線を投げかける。どうやらジェーンは周りの注目を集めていることにも気づいていないようで、キースだけがいたたまれない気になっていた。
「絵、置いてきちゃった……」
「絵?」
「ガトーさんが欲しいって言ってたから……あ、でも今日はモーラのうちに泊まるし明日もお店行くからそのときでいいのか……」
ジェーンは勝手に解決してしまった。ほとほと厄日だとキースは肩を落してため息をついた。立ち直ったのかなんなのか判断しかねるが、そのきっかけぐらいは作れただろう。後は、本人達がどうにかすること。今の自分の仕事は、ジェーンをモーラの家まで送ること。一晩かけて考えれば彼女も落ち着くだろうし、気持ちも固まることを期待しながらキースとジェーンは宵闇の迫る街並みを歩いた。
ガトーは明かりのともらない自宅に着くと、少し残念な気になった。この数日間は自分が帰って来るときにはジェーンがいて……なぜか寂しい思いをしている自分に苦笑した。どうしたんだろうな、あの子は。
鞄を置いて、スーツから部屋着に着替える。今朝、自分が出た後にジェーンは出勤したはず。寝室のドアはいつか見たときのように少しだけ開いていた。それを見てから、キッチンへ向い食事を摂ろうとする。冷蔵庫を開けると、昨日ジェーンが食べるはずだったもうひとつのグラタンが手付かずで残されていた。腐らせるてもしょうがないので、ラップを剥がしてオーブンにつっこんだ。一品だけの食事は、ここ数日に比べれば質素なものだ。
タイマーをあわせて椅子に座ろうとしたとき、ガトーはその上に積まれている本に気がついた。自分がジェーンに貸したものだ。それらをテーブルに移動させて、彼は腰を下ろした。何気なく、一番上にあった『ロミオとジュリエット』をパラパラと捲ってみる。モノクロの挿絵と文字が羅列しているはずのページの途中に、色鮮やかな黄色があるのを、彼の目は見逃さなかった。
「これは……」
再びページを捲って手にしたものは、一年以上前の写真だった。懐かしいな、と独り言を言いながら思い出を懐古していたガトーはふと、ある可能性に気がついた。
「まさか」
まさかとは思うがジェーンはこれを見てしまったのではないか。貸した本なのだから見ていてもおかしくない。昨夜からの態度の変化は、まさかこの所為なのだろうか。そこまで自惚れるつもりはないが……果たして自分が逆の立場だったとして、これを見て嫌な気にならない自信は、ない。焦りと不安が心の中に渦巻いた。変に誤解をしたに違いない。そして、ああ彼女のことだから今日モーラが借りるだのなんだの言っていたのもジェーンが言い出したのだろう。『帰りたくない』だとか。
「クソ……なんてことだ」
一般的に、後悔というものはしても栓のないことだが、思わず両手で頭を抱えた。本の中身ぐらい確認しておけばよかったのだろうか。
きっとこの部屋を出て行くくらいのことは言い出すに違いない。しかしモーラの家はわからない、ジェーンもモーラもなぜか携帯電話に出ない。テーブルに携帯電話をたたきつけてガトーは呟いた。
「冗談じゃない……」
ジェーンの作る食事が楽しみで、ジェーンと過ごすのが心地良くて……。出て行かれては困る、嫌なのだ。
好きなんだ。
何とかして、取り戻す。ジリジリとオーブンの中からチーズが焦げる音がしている。ガトーは立ち上がり、写真をガスコンロの火で焼いた。指先を少し火傷したかもしれない。水道の水で冷やしながら、今夜は長い夜になりそうだと思った。明日、明日は絶対に
「掻っ攫ってでも」
長い夜を経て、運命の日は訪れる。
20080407