Crepuscule



17

立ち直ったわけではないけれど、せめて表情だけでも明るくしよう!

ジェーンはモーラの家で朝を迎え、洗面所で両頬を叩いて気合を入れた。

「いらっしゃいませ!」

一週間ぶりに店を開けたCrepusculeは大賑わいで、モーラもジェーンも休む間も無く動き回っている。方やトレイで料理を運び、方やいくつもの料理を次から次へと作り出す。少しでも気を抜けば注文を忘れたりしてしまう。このくらい忙しい方がジェーンにとっては嬉しかった。注文票をマグネットバーに貼り付けるとすぐに身を翻してレジのほうへ走る。今はまだ昼前だからいいけれど、ランチ時になったらどうなることか。嬉しいことは嬉しいけれど、二人で回せなくなってしまいそうな気がしてならない。いい加減アルバイトを増やさないと、モーラは頭を抱えていた。

「よ、ジェーン」
「あら!いらっしゃい!カウンターでいい?」

昼前にキースとコウがやってきた。テーブル席が空いていないことと、お節介かもしれないがジェーンは気をきかせてキースたちをカウンターへ案内した。注文はモーラに直接言うだろうし、あの二人は放っておいても大丈夫。常連はほぼそうなのだけれど、たまに入ってくる一見の客や常連ほど訪れない客はこちらから動かないとしょうがない。
一番奥のテーブルに陣取っていた学生らしいグループが席を立っている。学生は割り勘がどうのこうのでレジがややこしくて適わない。ジェーンは深呼吸を一つしてから、笑顔でレジのほうに向かった。
12時をまわると、立て続けに客が出入りする。忙しさも増して、カウンターのキースとコウは二人で会話をしていた。

「そういえば、今日はあの人来てないよね」
「誰のこと?」

普段常連客とはほとんど話さないコウが他人を気にかけるのは珍しい。キースはグラスの水を一口飲みながら興味深そうにたずねた。

「ほら、あの髪が長い男の人。いっつもしかめっ面でいるだろ?」
「あー……ガトーさんね、そういやまだ来ないな」

たまたまカウンターから料理を運ぼうとしていたジェーンは二人の会話を耳ざとくキャッチし、コウに運ばれるはずのランチプレートにニンジンのグラッセを山盛りにした。
当然、目の前にダン、と置かれたプレートを見たコウの顔は歪む。

「うわっ!ジェーン、ニンジンいらないって言ってるだろ!」
「あれー?そうだったっけ?ニンジンも食べられないなんてお子ちゃまねぇ、コウ?」
「ぐ……」

キースは、言い返せずにフォークを握り締めるコウに、というよりも惚れた相手を悪く言われた腹いせにニンジン山盛りの報復手段を取ったジェーンに苦笑した。どっちが子供だか。結局ニンジンはキースのプレートにほとんど移動し、彼が尋常でない量のニンジンを食べ終わってもガトーは来なかった。
モーラも、別のことを含めて考え込んでいた。ニナも来ない。昨夜、話しているときは毎日通うなどと言っていたのに、初日から来ないのは何故なのだろう。忙しさにかまけてそれ以上考えることはなかったが、結局午後1時を過ぎて客足が少なくなってきてもガトーとニナは現れなかった。
ジェーンはさすがに変だとは思ったけれど、顔をあわせることに対する不安のため、ガトーが来なかったことに関しては安心が心の中の大部分を占めていた。コウとキースをレジから見送り(もちろんコウをからかうことを忘れず)、ジェーンはレジの中身をふと見てモーラに呼びかけた。

「モーラ、ちょっと両替に出てもいい?」

細かいのが少なくなっている。レジの下の小さな金庫の中にも紙幣しか揃っていない。幸い、客も少ないし、自分ひとり出ても問題はないだろう。

「いいわよ、あ、それじゃついでに洗剤買ってきてくれない?」

カウンターの中で食器を洗うモーラが洗剤のボトルを振りながら言った。確かになくなりそうだった。ジェーンは両替用と洗剤購入のために紙幣を何枚か取り出して、エプロンをつけたまま裏口から出た。

少し歩くと、安価な品物が揃っている店がある。まず銀行で両替を終えて、ジャラジャラする小銭をジップロックのケースにつっこんでエプロンのポケットに収めた。肩紐が少し食い込んでくる。両手でエプロンを調えながら歩き出すと、歩道でキョロキョロとあたりを見回していた男性に声をかけられた。40代後半ぐらいに見えるが、姿勢や身なりに隙が無い。

「ちょっといいですかな、お嬢さん」
「はい?」

かけられた声は期待していたよりも少し高めだった。けれど、よく通りそうな美声で、低めの声のバニングとはまた違う魅力的な声だと思った。どことなく聞きなれない訛りがある。

「この近くに歯ブラシを売っている店はないかな?」
「ああ、それならいいお店を知ってます。私、行く途中だからご一緒しませんか?」
「それはありがたい」

少し遠いですけど、と申し訳なさそうに付け足すと、彼はにっこりと微笑み、時間はあるからかまわないと答えた。
並んで歩きながら聞けば、彼はこの街に初めて来たらしい。訛りは異国の出身のためだった。他にもたわいない話をしながら買い物を終えると、彼は何かお礼がしたいと申し出た。見るからにそうだとは思っていたけれど、紳士なのだなとジェーンは感激した。

「ありがたいんですけど、私、仕事の途中なんです」
「ああ、そういえばエプロンを……Caffe Crepuscule……?」
「ええ。よろしければコーヒーでも」

さすがにちょっと意地汚い感じがするかな、とも思ったけれど、そのときにはもう言葉を発してしまっていた。けれど意に反して彼は話に乗ってきてくれた。そういうところも含めて、やはり紳士なのだとジェーンは半ば感心してしまった。

「Crepusculeとは?」

彼にとっては異国の言葉に当たるのだろう、ジェーンは説明をすることにした。小さな紙袋をそれぞれ手に抱えて歩く歩道からは、太陽の光で含まれた雲母が輝きを放っている。こういう、ちいさな美しさがジェーンは好きだった。

「“宵闇”という意味です」
「カフェなのに?」
「夜もバーをやってるんです。先々代のころはバーがメインだったから、この名前なんでしょうね」
「なるほど」

彼はその言葉を口の中で呟き、いい響きだと微笑んだ。礼を述べながら、ジェーンは少し、誇らしい気持ちを覚えていた。

「ここです」

本来なら店員のジェーンは裏口から入るのだけど、今は客を連れているので正面のドアを開けて中に入った。

「ジェーン、遅かったわね。食器洗えなくてたまって……?」

モーラはカウンターからジェーンの姿を認めるなりにお小言を言いかけたが、その後ろにある人物に気を取られて怪訝そうな顔をした。

「お客さんよ、モーラ」
「失礼、私が彼女に……」

彼は丁寧に事の仔細を説明した。まだ出会ったばかりだけど、彼の声は実に惚れ惚れするほどだった。無意識にガトーの低い声を思い出して、彼もこれぐらい年を重ねたらどんな声になるのだろうかと想像していた。

「モカをいただけますか」

客も少ないので彼はカウンターに腰を下ろした。丁寧な物腰に好感を覚えたモーラは、ふとその顔を知っているような気がした。どこかで見たけれど、どこだろう。同じくカウンターで遅めのランチを摂る常連客のジャクリーヌ・シモンもモーラと同様に考え込む顔をしている。レジの中に小銭を足しているジェーンの後姿と、カウンターの中で店内を珍しそうに見回す男を交互に見ながらモーラはとりあえずコーヒーメーカーをセットした。

「はい、お待たせしました……」

カップを差し出したジェーンは、彼の視線がカウンターの横に向けられているのに気づいて、自分もその先を追った。そこには、自分が描いたあのハムレットの絵が飾られている。昨日、なんとなく貼ってみたものだ。

「それ、私が描いたんですよ」

絵を見てくれた客にいつもそうするように、何気なく声をかけると彼は非常に驚いた顔をして見せた。逆にジェーンが困惑してしまい、トレイを抱えておどおどしていると、彼はすまないと謝罪をしてからこう語った。

「いや、実にいい絵だと思ってね……これは、ハムレットかな?」
「よくわかりますね……」
「わかる人にはわかるだろう。君は、画家なのかな?」
「いえ、ただ趣味で描いてるだけですけど……」

気づけば彼の表情も目も先程までの柔和なものから打って変わって真剣なものになっている。一体この人は何者だろう。食器を洗いながら、モーラも様子を窺っていた。

「あの、もし気に入ってもらえたのならお譲りしますけど……」
「いや、この絵はこの店に実によく似合っている。誰かが持ち出すべきものではないな。私が言うのもおかしな話だが……」
「はぁ……」

ジェーンは抱えていたトレイをカウンターに戻しながら生返事を返した。全くわけがわからない。気に入ったのなら自分のものにしたくなるものではないだろうか。ふとジェーンはガトーのことを思い出して、彼が気に入ったという絵をちらりと盗み見た。

「そこで、だ。君に頼みたいことがあるんだが」
「え……っと、なんでしょう」

ただならぬ雰囲気におずおずとしたジェーンをさらに威圧するように、彼はコーヒーに全く手をつけようとせずに身を乗り出した。

「絵を描く仕事をしてもらえないかね?」
「……へ?」

その口から何が飛び出すかと思えば、ジェーンに絵を描いて欲しいのだと言う。つまり、注文したとおりに絵を描けということか。

「あまり口外する気はなかったのだが、実は私は……」
「あーーー!!思いだした!」

何事かというくらいの大きな声で、ランチを食べていたジャクリーヌが声を上げた。片手にフォーク、もう片手で彼を指差し口をパクパクさせている。

「え、エイパー・シナプス!」
「そのとおりです」

先に名前を明かされたことに苦笑しながら、シナプスと呼ばれた彼は頷いて見せた。
はて、シナプス?ジェーンは必死にその名前に関する情報を思い出そうと考え込んだ。モーラは泡立てたスポンジを持って立ち尽くしているからもうわかっているようだ。聞いたことあるような、ないような……。失礼と知りながらまじまじとその顔を眺めるうちに思い出した。大きなポスターやテレビCMで見たことがある。

「あ、あの!?げ、劇団アルビオンの!?」

舞台関係に詳しくないジェーンでも名前ぐらいは聞いたことはある。国外の劇団だが歴史も由緒もあり、高名な俳優を多数輩出している。確か今はこの国の国立オペラ座で公演をしていたはず、そのCMを見たのだ。劇団の座長……以前は彼も俳優として活躍していたのだろう、身のこなしの鮮やかさはそのためか。

「今、我々はハムレットの公演をやっているんだが、そのパンフレットの表紙を君に描いてもらいたい」
「へあっ?わ、私が?」
「頼んでいた画家はいたのだけれど、困ったことに描けないと言い出してね……そうは言っても公演は始まっているから仕方なく団員の写真に差し替えて仕上げているのだが、私としては納得いかなくてね……」

立て続けに困っているだのイメージにぴったりだの口説かれ続けていたジェーンはあまりに唐突な話に面食らって口を開けたまま何も言い返せなかった。シナプスもそれに気づいたのか、苦笑しながら上着の胸ポケットから二枚のチケットをジェーンに差し出した。

「急な話だから、今決めるのも難しいだろう。公演を見て決めて欲しい」

20080408