Crepuscule



18

「いい返事を期待している」

立ち去ったシナプスを呆然と見送りながら、ジェーンは彼の言葉を反芻していた。

「すっごい!よかったね、ジェーン!」

とうにランチを食べ終えたジャクリーヌ・シモンは心底感心したようにジェーンに声をかけた。彼女は紅茶派で、レモンティーの二杯目に砂糖を落としながらジェーンを褒め称えた。
けれど当のジェーンはあまり顔色が良くない。あら、とジャクリーヌは口元に手をやって嬉しくないのかといぶかしんだ。

「嬉しくないの?」
「ううん、嬉しいけど……話が大きすぎて……」

チケットを持つ指先はじんわりと汗が滲んでいて、紙をふやかしてしまう。カウンターの上にそれを置きながら、ぐるぐると回る頭を整理しようとした。

「確かにねー……ただ挿絵を描いて欲しいとかならわかるけど、依頼主があのアルビオンだからねぇ……」

ジャクリーヌは気持ちがわかるといわんばかりにうんうんと頷き、紅茶を銀色のスプーンでかき混ぜた。かすかなレモンの匂いに混じって、モーラの煙草の煙が漂ってくる。

「でもさ、これがチャンスになるかもしれないじゃない?公演を観に来た著名人から多くの依頼がバンバンきて、ジェーン終に画家デビュー!?」

ジャクリーヌはあっけらかんと言ってのける。けれどジェーンは彼女ほど楽観的にはなれない。チケットをロッカーに仕舞うためにカウンターから奥へ入るジェーンを見送りながら、ジャクリーヌはあることに気がついた。

「そういえば、煙草やめちゃったの?ジェーン」

灰色の煙を吐き出すモーラにたずねてみると、困ったような笑顔でモーラは答えた。

「あの子も色々あるのよ」



ジャクリーヌは勤め先のブティックの店長から、いい加減に戻って来いと電話で催促されて渋々引き上げて行った。客もいないのでジェーンとモーラは各々コーヒーを淹れてしばしの休憩に入った。

「夢、叶いそうじゃない」
「……絵のこと?」

趣味で描いていると言いながら、わざわざ美術学校へ進学していたくらいだ、ジェーンの夢は絵を描いて食べていくことだった。着の身着のままこの街に流れ着いてからは明日の心配をするだけで精一杯で、半ば諦めかけていた夢。だけどそれは今も諦めきれない、だから、描き続けている。モーラだけがそれを知っている。彼女が店にジェーンの絵を飾るのは彼女なりの応援だった。
ごく一握りの人間しか成功しないとはわかっていても、それでも心のどこかでチャンスを待っていた。それが、とんでもなく大規模なレベルの話が降って湧いて、戸惑っている。ゆっくり考えたい、それに、もうひとつの悩み事。ガトーのこと。しばらく一人で考える時間が欲しい。というより、逃避したかった。どこかへ行ってしまいたくなる。

「そのことも、色々含めて、一人で考えたいから……私、」

その時、ギィ、と音を立てて店の扉が開いた。デート中のカップルなのか、若い男女が二人入ってきた。モーラは煙草を灰皿に押し付けて笑顔を作り、ジェーンもグラスに水を注いで対応した。仕事をしている間は何も考えなくて済む。ずっと忙しかったらいいのに、と、何も考えたくないジェーンはトレイに冷たいグラスを載せた。



満月が頭上に輝いては雲に隠れるのを繰り返している、時刻はすでに20時。ガトーは帰宅するバスの中でいらだっていた。いつもどおりの時間帯なら渋滞に巻き込まれるのだが、バスはおおよそ一定のスピードで進んでいく。手痛いミスの所為で残業を強いられてこの時間帯のバスに乗り込むこととなってしまった。苛立ちは自分のふがいなさのため。彼は彼の想い人のことばかり考えてミスをした。今すぐにでも顔を見たい。声を聞きたい。まるで思春期の少年のような自分に、この日何度目だろうか、ため息がこぼれた。隣に立つ同年代の男性が不思議そうにちらりとガトーのほうを見た。車内を映すバスの窓には、余裕も何もない彼の顔が浮かんでいた。

マンションの前にたどり着くと、彼は駐車場に直行して鍵の束からマスタングのキーを探し出す。後部座席に鞄を放り込み、自分は忙しなく運転席へ乗り込む。キーをひねれば低いエンジン音が響くのと同時にヘッドライトが眼前の壁を照らした。サイドブレーキを下ろして後退しようと助手席の背もたれに手を回せば、ジェーンがここに座っていたときのことを思い出す。
あのときから、惹かれていたのかもしれない、もしかすると、もっと前から。
その想い人はここにはいない。
ガトーはタイヤを軋ませながらマスタングを駆り、目的地へと走り出した。



元々、Crepusculeがバーだったこともあって、夜になると人は自然と集まる。それも、昔からの馴染み客が多い。週末ともなれば忙しさは段違いなのだが、今日は一週間ぶりの開店でにぎわっている。夜の営業で幸いなのは調理する必要がほとんどないこと。つまみはすでに作ってあるものが多く、下ごしらえまで済んでいるものはランチに比べれば手間が掛からない。ジェーンは客に出すカクテルをマドラーで混ぜながら自分もジャックダニエルを水割りで飲んでいた。元々酒には強いし、ちびちびとしか飲んでいないので酔ってなどいない。
モーラは車を運転するので酒は飲んでいないが、先程からチラチラと時計ばかり気にしている。何かあるのかとジェーンが尋ねても、はぐらかすばかり。何を隠しているのだろうか。夕刻に携帯電話に誰かから掛かってきていたけど、それが関係しているのだろうか。氷が解けて薄くなったグラスの中身を飲み干しながら、ジェーンは首をかしげるばかりだった。

「ねえ、何かあるの?」

何度となく繰り返した問いを、飽きもせずにまた口に出した。時刻は21時。ジェーンは疲れているためか、いつもよりアルコールの回った頭でモーラに尋ねた。意図せず語調が強くなってしまったが、モーラはまた時計をチラリと見遣ってから口を開きかけた。が、ちょうどその時ドアが開き、二人してそちらを見遣ればキースが入ってきた。

「来たよ、モーラ」
「ありがと、キース。ジェーン、今日はもう帰っていいわ」
「はあ!?」

まだ客は沢山いるのにもう帰れと言う。モーラは何を考えているのか。釈然としない。

「料理の出来ないキースでも使えるって事よ」

ジェーンにだけ聞こえるようにモーラが言う。自分が帰る、そのかわりにキースが手伝うということだろうか。キースもモーラと同じく何か企んでいそうな笑顔を浮かべているように思えるのは邪推しすぎだろうか。何がなんだかわからない。ジェーンは残ると言い張ったが、二人から無理矢理奥に追いやられ、果ては裏口から追い出されてしまった。

「えええー……なんなの……?」

閉じられた扉に向かって一人呟いてみても、答えるものはいない。仕方がないのでジェーンは大通りのバス停に向かって歩き出した。ふと顔を上げなければ、気づかなかったかもしれない。歩道に半分乗り上げて停車している白いマスタングが見えた。
心臓が飛び跳ねるように鼓動を刻む。思わず立ち止まったジェーンの目に、ステアリングを抱え込むスーツ姿のガトーが映った。向こうも気づいたらしく、片手を伸ばして助手席のドアをジェーンのために開けてやった。
乗れ、と言っているのだろう。顔が熱い。足は緊張の所為か動かない。そのときようやく、これがモーラたちの企みなのかと思い当たった。けれど、ガトーがわざわざ車で来ている。それは、どういうことなのだろう。
しばらく立ちすくんでいたジェーンは、意を決して白い車に乗り込んだ。断る理由もないし、話すことがありすぎる。

「迎えにきた」

礼を言うべきなのだろうか。視線が一度もぶつからないまま、まるで終局寸前の恋人同士のようだとジェーンは思った。口を開けることが出来ない。溢れる想いは、こぼれだしたら止まらない。そんな気がして。

「……話がある」

びくりと体を強張らせて、ジェーンは視界が滲んでいくのを黙って堪えた。始まってもいないというのに、終わりを告げられるのだと思った。

「部屋に、着いてからでいい?」

せめて、もう少しだけ。そんなかすかな願いから、かろうじて紡ぎ出せた言葉に、ガトーは短く了承の意で答えた。
雲が月を隠していった。


駐車場、エントランス、玄関。うつむいたままガトーの後ろを歩いていたジェーンはふと、ある考えに頭の中を支配されていた。
もしかして、ガトーはこんなことのためにモーラとキースを巻き込んだのだろうか。モーラに電話をかけたのは彼に違いない。そんなことのために、自分はさっさと職場から追い出されたのだろうか。本当は、愛しているのに、そう伝えたかったことも沸々とこみ上げる理不尽な怒りに埋もれてゆく。何かが切れてしまったかのように、口から思っていることが零れ落ちていった。残っているアルコールの所為で感情が高ぶり、何もかもが吐き出されているかのようだった。

「そんなことしなくても」
「え?」

スーツの上着を脱いでいたガトーの耳は、衣擦れの音の合間にかすかな声を拾った。声の主はうつむいたまま立ちすくんでいる。

「わざわざ……こんなことしなくてもいいのに……」

ジェーンが何を言っているのかわからず、ガトーは上着を投げ出しネクタイを緩めながら彼女の近くまで歩み寄った。声が震えている。表情はわからないが、泣いているのだろうか。

「ジェーン?」
「ひ……一言ぐらい言ってもらえれば……わた、私だってっ……そのくらいの気は遣えるのに」
「何、言ってる」
「言われ……なくてもっ…………出てくもん……」

勘違いで泣き出したジェーンの両肩に手を置こうとすれば、触らないでと一蹴される。ため息をつきながら、ガトーは髪をかき上げて尋ねた。

「写真、見たんだな」

ジェーンは大きく頷いた。予想が当たっていたな、とガトーは瞼を閉じて顔をゆがめた。誤解を解かなければと、その方法を思案しているうちにジェーンは寝室へ歩いていった。出て行くと言い張っているのだから荷物をまとめでもするのだろう。
が、そんなことをさせるつもりは毛頭ない。

「放してよ!」

寝室まで追いかけて細い腕を掴めば、ジェーンは振り払おうとして大きく体を捩らせる。雲の隙間から差し込む光が照らしたジェーンの両頬は涙で濡れていた。一瞬、それにたじろいだガトーは迷いを振り払うかのように強い口調で言い訳がましい言葉を吐いた。

「あの写真は関係ない!勘違いしてるんだ!お前は!」
「見たんだもん!だって……美人だしっ……わたしっ……」
「昔のことだろうが、それにお前だって電話掛かってきてただろう?」
「あれは、違うもん!ガトーさんは私と違う!つりあいっこない……」

そう言って、また泣き出した。もはや何が言いたいのかさっぱりまとまらないジェーンの言葉に、ガトーはこれ以上話しても無駄だという結論を下した。掴んだままの腕を引き寄せてそのまま壁と自分の間にジェーンの体を挟んだ。叩きつけられはしなかったが、両肩に軽い衝撃を感じる。ジェーンは顔をしかめた。

「出て行くなら、好きにすればいい」
「放して!」
「けど、……ジェーン!」

もはや会話もかみ合わない。視線を逸らして必死に逃げようとするジェーンの細い体など、ガトーにとって大した意味は成さない。両手首をいつかのように掴んだガトーに、ジェーンは睨むような視線を送った。

「一つだけ、言わせてくれ」

冷たい視線をものともせずにガトーはそれまでの口調から打って変わって、頼りなく弱々しい声を出した。

「……わかった。聞くから、手、放して。痛い」

ジェーンは締め付けられるような痛みから開放された手首をだらりと垂らし、言いたいことを聞くためにガトーと向き合った。窓から差し込む月の光で表情は読み取れない。これで最後なのかと思うともはや何を言われても動じない、そんな変な自信が湧いてくる。
けれど、ガトーの言葉はそれを打ち砕くのには十分すぎた。


「愛してる」


答えなかったのではなく、答えられなかった。

一瞬何を言われたのか理解できないうちに唇をふさがれた。息も出来ないくらい激しいキスをされているのだと理解して、ジェーンは見開いていた瞳をきつく閉じた、閉じざるを得なかった。熱い舌が入り込んできた。このままじゃ、そう思って自由な両手を握り締めてガトーの広い背中をドンドン叩いて抵抗したが、本人は全く気にしていないかのように、片手でジェーンの額を撫で上げそのまま後頭部を抱え込み、もう片方の手で腰を抱いている。大きくてゴツゴツした男らしい手がシャツの裾から入りこんで背中を撫で上げている。ぞわぞわした感覚で思わず眉を寄せ、背中に回した手は流されまいとすがりつくかのようにワイシャツを握り締めていた。

「はっ……な……何す……」

何がなんだかわからない。ようやく開放された唇から喘ぐような呼吸とたどたどしい抗議の言葉を紡ぎだしても返答はない。
返事の代わりかガトーはジェーンの耳に舌を這わせ、低く告げた。これ以上ないくらい体が硬直してしまう。

「……悪い、手加減できそうに無い」

背中に回された手で下着のホックを外された。言葉の意味がわからないほど、子供ではない。

「ちょっ……ま……待って!」
「待てない」
「待ってってば!!ガ、」
「もう黙れ」

唇は唇に、背中に在った手は腹を通って上へ登ってきた。塞がれた唇からは互いの吐息だけが断続的に零れ落ちていく。

与えられる感覚が思考を麻痺させ、体はズルズルと崩れ落ちていく。

月はまた雲に隠される。

あ、と声にならないような呟きも、絡まる手も二つの影も宵闇に溶けていった。

20080411