朝日がまぶしい。
目をぎゅっと閉じてそれを遮ろうとしたジェーンは知らぬ間に朝が来ていたことに気がついた。はっと目を開けると、そこは確かにセミダブルのベッドの上だがいつもよりも狭く感じる。ついでに腹のあたりが重い。違和感からあたりを見回そうと顔を動かすと、ちょうど自分の頭の後ろにガトーの寝顔があった。
「(うわ!)」
かろうじて声は抑えたけれど、体が大きく跳ねてしまった。感じていた重さの原因だった、腹の上に置かれていたガトーの腕がスプリングの上に落ちた。それでも彼は目を覚ます様子はない。ガトーはどうか知らないが、ジェーンは何も身につけていない。
かすかな寒気からそのことにようやく気づいて、ジェーンは起こしかけた体を再び毛布の中に滑り込ませた。
「(……あったかい)」
日の光で、くっきりと顔が明らかになる。彫の深い目元、高い鼻、伸びた髭。真っ白な首筋と、細い銀の髪。
まざまざと思い出す昨夜の出来事。汗ばんだ体、寄せた眉根、高い体温。
一人恥ずかしさに顔を赤らめながら、ジェーンはガトーの寝顔を眺めていた。
あれは、本当なのだろうか。
額にかかったガトーの髪を、片手で払いのけてやる。睫が長いんだな、とどうでもいいことを考えていた。
綺麗な顔立ちだと思った。別に、顔に惚れたわけではないけれど、惚れた弱みを差し引いても十分すぎるくらい整っていると思う。
唇に、キスを落した。
「……おはよう」
「わっ!!」
唇を離した途端にガトーが目を開けて微笑んだ。視線がぶつかり、ガトーが寝ているものと思い込んでいたジェーンは今度こそ大声を上げて飛び起きた。飛び起きようとしたのだが、腕を掴まれてガトーに抱き込まれてしまった。額が胸元に密着して、心臓の音が聞こえる。
「大胆」
「ちが……いつから起きてたの……」
「腕を退けられたとき」
まさか起きているとは思わなかった。寝たふりをするなんて、酷い。ふてくされているのと恥ずかしさから黙ったままでいると、ガトーが髪に触れてきた。
「ジェーン」
肩を抱かれて、暖かさを感じて、ジェーンは泣きそうになった。
「もう一回、いや、何度でも言うけど、愛してる」
信じていいのだろうか?これって、本当に本当のことで、私なんかがこんなに幸せでいいんだろうか?
「昨夜のこと、怒っているなら謝る。でも、お前が好きだからあんなふうにしてしまって……ああ、何を言ってるんだろうな、言い訳してもしょうがないのはわかってる。こんなふうに、言葉で伝えられないから、ああいう形で表してしまったのかも、な」
私だって、言葉じゃ足りないくらい、貴方のことが好きよ。
そう言えなかったのは、自分も口では伝えられないことをよく知っているからかもしれない。
ジェーンは答える代わりにガトーの背中に腕を回した。
「でも、中途半端な気持ちじゃない。本気だ。それだけは、わかって欲しい」
こくり、と頷くと、ガトーはジェーンの頭をさらに引き寄せた。
「本当?」
「本当」
「私でいいの?」
「……お前じゃなきゃ、ダメだ」
涙がこぼれた。ただ、辛くは、なかった。
その週の金曜日、アルビオンの公演は明日。
「よくよく考えたらさ、服がなかったんだよね」
「は?」
ガトーはすでにスリーピースのスーツにブラシをかけている。ジェーンは寝室から、持っているワンピースをありったけリビングに持ち込んで困った顔をして見せた。ブティック勤務のジャクリーヌに聞けば、国立オペラ座での公演ならとりあえずワンピースでも着ていけば間違いないのだと答えられた。そうなのかと納得して帰宅してみたものの、持っているワンピースは到底「正装」とは呼べないカジュアルなものばかりで、靴やら小物やらでごまかしも効きそうにない。
「困ったなあ……もう明日だし」
開いている店があるような時間でもない。どうにかならないものかと考えるジェーンの横で、ガトーは電話をかけていた。
「うそ……」
そして翌日の午後、ジェーンが連れてこられたのはとある有名ブティック。自分で買えないことはないが、靴やらなにやらを揃えるとなると話は別だ。まさに『お嬢様』が着ていそうなスーツやらドレスがずらりと並ぶショウウィンドウに気圧されているジェーンは、ガトーに手を引かれて中に導かれた。
昨夜ガトーが電話をしていたのはとあるサロンの店主だった。かつて仕事で内装のデザインを請け負った縁だという。代金はサービスだといって受け取られなかった。そこであっという間に髪を整えられ、丁寧なメイクまで施された。ただ、着ている服は手持ちのものなので幾ら顔の部分が整っていてもこれで国立のオペラ座にまでくりだそうとは思えない。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声の店員に呼び止められて、ジェーンは半ば泣きそうになった。すらりとした背の高い女性店員はそろいのスーツを身にまとい、デザインが微妙に異なるスカーフを首元に巻いている。優しげに微笑まれて言葉も返せず愛想笑いをするジェーンに代わって、ガトーがてきぱきと指示を出していた。
「フォーマルなデザインのワンピース、それからそれに合う靴と、ガウンのようなものがあれば」
かしこまりました、と店員は一礼して奥のほうへと一旦向かっていった。逃げ出したくなってそろりとガトーの顔を窺うが、腕をとられている上にここまでしてくれる彼を裏切るわけにもいかない。
店内を見渡すと、上品そうな客ばかりでどうしようもなく場違いな感じを覚えてしまう。服や靴の前にさりげなく置かれた値札のプレートをさりげなく見てみても、普段ジェーンが買う服の値段に0をもう一つ足したようなものばかり。全財産をつぎ込む形になるかもしれないなあなどと考えているうちに店員は3着のワンピースを選んで持ってきた。大きなリボンが胸元に結ばれている白いワンピース、肩が出たデザインの黒いワンピース、二列に飾りボタンの並んだ水色のワンピース。
試着室でそれぞれ試してみると、ガトーが「水色がいい」と言ってそれに決まった。
「黒のほうが大人っぽくて好きだなあ……」
「あれはダメ」
突っぱねるように言うと、ガトーは靴を持ってこさせるように店員を呼びつけた。スリーピースのガトーはネクタイが青だからそれに合うように、そういうことなのだろうかと思案していると、デザインも青色の深みも様々なハイヒールが運ばれてきた。スツールに腰掛けて色々試してみる。
「こんなかかとの高い靴だと歩けない……」
「車で来てるし、そんなに歩かないだろう?」
「でも、」
足首に巻きつけるストラップをパチンと留めると、ガトーはそれが似合うと言って笑った。
「転びそうになったら、支えるから」
心配するな、そう言って手を差し出す。大きな手。ガトーと一緒なら、どんな靴でも状況でも、歩いていける気がした。
「鏡をご覧になりますか?」
「あ、は、はい!」
ガトーに手を取られて立ち上がると、声が裏返りそうなジェーンを店員が大きな姿見へ案内した。危ない足取りだが、転ぶほどでもなかった。
「別人みたい……」
「よくお似合いです」
店員の言うことはお世辞かもしれないが、ジェーンは姿見に映った自分を自分とは思えなかった。水色のワンピースも、他のものより自分の体型にあっている気がした。靴も脚を長く見せてくれているようで、まるで本当にお嬢様にでもなったような気分だった。
「ガウンの方はいかがされますか?」
「え?あ、室内で着るものだから大丈夫です!」
到底支払える金額に収まりそうにない。ジェーンは慌てて否定しようと首を横に振っていたが、ガトーがフリルのついたボレロを持ってきて、着てみろと差し出した。薄いグレーのニットで、ショールのようにゆったりとしたシルエットだった。言われるままに袖に腕を通してみると、ワンピースにしっくりと似合った。ほとほと、ガトーのセンスに感服してしまう。
「―うん、似合ってる。じゃあこれは全部着て行くからタグを外してもらいたい」
「かしこまりました」
ガトーは店員の一人にそう告げると、鋏を取りに彼女は奥へと戻った。ジェーンはスツールに腰を下ろしてまるで借りてきた猫という言葉がぴったりなくらい緊張していた。ガトーはジェーンを残してレジのほうへスタスタ一人で歩いていき、カードで支払を済ませようとしている。
「(えっ!?)」
ジェーンは驚いてその場に駆けつけようとしたが店員が鋏を構えて現れたのでそのままスツールに腰掛けているほかなかった。タグを切り取りながら店員はジェーンに話しかける。
「お召しになっていたお洋服はお持ち帰りになりますか?」
「あ、はいっ!」
「袋に入れてお持ちしますので、少々お待ちください」
店員は切り取ったタグと鋏を片付けて、試着室の方へ歩いていった。
なにかの小説で、高い靴を買った主人公が「はいてきた靴は処分してくれ」と言っていたのをジェーンは思い出した。こういうところに頻繁に出入りする人というのは新しく買うたびに処分するのだろうか。合理的なのかそうでないのかイマイチ判断がつかなかった。
「あ、あの、代金……」
支払を済ませてこちらに歩いてきたガトーに声をかけてみる。正直なんと言っていいのかわからなかったが、とりあえず自分が支払う意思だけは伝えたかった。
「いや、いい」
「え、そんな……」
「これがジェーンの夢につながるかもしれないから、前祝だと思ってくれればいい」
ガトーには、絵を描く仕事がしたいのだと打ち明けている。そして、この公演を観に来ることの本当の意味も。
「それに、」
再び大きな手を差し出しながらガトーは話を続けた。シャンデリアのように豪華な照明が逆光になって、まぶしい。
「恋人らしいこともさせて欲しいからな」
差し出された手を、微笑みながらジェーンは握った。
夜の帳は落ちてきて、宵闇が街を包み込んできている。
月の光が穏やかな夜だった。
20080417