Crepuscule



04

そういうときに、何を言うべきで、何を言うべきではないのかの分別ぐらいついている。ジェーンには、部屋の中に埃をかぶった“セミダブル”のベッドがあるというだけで十分だった。埃が積もっている、ということはそれが使われていないことを示す。濃いグレーでベッドカバーやシーツが整えられたそれが“何故”使われていないのかは、わからないにしても。

ジェーンがCrepusculeで働き出したのは、10ヶ月前のことだ。ガトーはそれ以前から店に出入りしていたようだし、おそらく自分がこの街に来るよりも前からガトーは同じ場所で生活を営んできていたのだろう。その間のことは、ガトーにしかわからないこと。モーラに聞けばなにかしら教えてくれるかもしれないが、そこまで他人のことに立ち入ろうとは思えなかった。

「あ、タオル、洗濯機に入れといていい?」

ジェーンはなるべく明るい声でガトーにたずねた。その視線は不自然に虚空をさまよう。さまよっている振りだけで、実は部屋を観察しているのかも知れない。そこまで疑う自分を、ガトーは情けなく思った。

「ああ、頼む」

平静を装って返事をすると、ジェーンは即座に踵を返してシャワールームの方へ向かった。おそらく真相に近いところまで察しが付いているのだろうが、隠すほどのことは、何もない。もう一度ガトーは部屋を見回す。潔いほど、何も残されていなかった。うっすらと積もる埃だけが、時の流れを感じさせる。が、それ以上何かを感じることはないと思っていた。
やはり話しておくほうがいいのだろうか。ガトーはジェーンの背中に呼びかけて、手招きをした。部屋に入らず、ドアのところで立ち止まり、ジェーンはガトーの言葉を待った。

「―洗濯機、回しておいてくれないか?」

言いよどんでつむぎ出せたのはそれだけだった。OK、とジェーンは言って今度こそシャワールームへと歩いていった。
何故いえないのだろう。彼女に何かしらの感情を抱いているわけではない。むしろ顔見知り程度の間柄だ。過去を打ち明けるのに不都合があるわけでもない。そこに問題がないとしたら、ガトーの心の中に何かがまだくすぶっている、それしか考えられなかった。

「馬鹿馬鹿しい」

自分に言い聞かせるように自嘲気味に呟いて、彼はモノトーンのカーテンをレールから外しにかかった。すぐに外れるものもあれば、金具がひっかかって嫌な音を立てたりもする。積もった埃が宙に舞い、眼鏡のレンズに付着して視界が濁る。息苦しさから、彼は窓を開けて外の空気を取り入れた。

盛大な水の音が洗濯機の前にたたずむジェーンの鼓膜を打つ。彼女の両手は洗濯機の縁に当てられているので、注ぎ込まれる水の振動が体に伝わっていた。誰だって、過去がある。それはわかっている。もちろんジェーン本人にもつらい経験はある。だがそれが思いがけず突然に目の前に現れて、ジェーンは戸惑いを隠すことができなかった。本当に、居てもいいのだろうか。居場所が無い心細さ、思い出す過去の似た状況―。
いつになく思いつめかけていた彼女の手に、違う振動が伝わってきた。水が流れる音は止み、眼下には渦が出来上がっている。ふと、別に全自動洗濯機の前に立っている必要などないことに気がつき、ジェーンはリビングへと向かった。ダイニングとリビングがつながっていて、しかもソファベッドまであるこの空間をなんと呼べばいいのか皆目見当も付かないが。

「ジェーン」

奥の「元寝室」から出てきたガトーが、取り外したカーテンを差し出してきた。

「洗うの?もう洗濯機回しちゃったよ?」

少し迷惑そうに答えてしまったのは、ガトーが今更カーテンを持ってきた所為ではない。先ほどまで和やかだったのに、今の二人の間にはどこかぎこちないわだかまりのようなものがある。喉にひっかかるようなそのうっとおしさを取り払うことができるのかは定かではない。

「いや、手洗いだからバスタブにでも水を張って洗ってもらえないか?私は買い物に出てくる」

ガトーはカーテンのタグに表記されている「手洗い」の文字を律儀に守って指示してきた。ジェーンだったら問答無用で洗濯機に放り投げるところだ。それでダメにしてしまった服は数え切れない。

「……几帳面だね〜」

ジェーンは呆れたように笑って、汚れがうっすらとわかるカーテンを受け取る。埃のにおいがしたので、もうずいぶん人の手に触れていないことがジェーンにもわかった。ガトーは昼食に何か買ってくるが食べたいものがあるかと聞いてきたが、にわかシェフのジェーンは自分が料理するから好きな食材を好きなだけ買ってくればいいと答えた。もうお昼か、思いながら、ジェーンは玄関のドアを開けるガトーを見送った。

「さて」

とりあえずバスタブにカーテンを放り込み、続けて温度の調節をしながら水を張っていく。焼けてしまったアパルトマンには、古いながらもバスルームがあった。白い陶器のバスタブで、金色の猫脚と、おそろいの色合いのシャワーヘッドがまさに昔の映画に出てくるようなもので、とても気に入っていた。あれも焼けてしまったんだな。ジェーンは寂しさが強くなるのを感じた。あのバスタブに目いっぱい泡を浮かべるのが好きだったジェーンは、洗剤を水の落着点めがけて注いだ。泡は期待したほど立たなかった。

明日、焼け落ちたアパルトマンをたずねてみようと思った。何か残っているものがあるかもしれないし、あそこに住んでいた住人たちのことも気になってきた。自分を娘のように可愛がってくれたバニングは無事だろうか。模様替えと言っては彼に日曜大工を手伝ってもらい、住人たち数人と夕食を食べることも多かった。一人だと、心配と不安だけで押しつぶされそうになる。バスタブの中の泡に、ジェーンの白い脚が飛び込んでいった。カーテンを両足で押し洗いしながら、でも私には心のよりどころとなる人もいない、そのもやもやした気持ちを思い切り両足にこめた。水が黒く濁っていく。思い出すのはやはり一年前の同じ季節のことだった。



同時刻、「Caffe Crepuscule」のドアの前に、貼り紙をしている少年が居た。

【旅行のため一週間閉店 モーラ・バシット】

「何で僕がこんなことしなきゃいけないんだ」

不満そうに呟く彼の名前はコウ・ウラキ。昼休みを潰してまでなぜ彼が貼り紙を貼りに来たのかと言うと彼がキースの幼馴染で職場の同僚だからだった。今年からこの区の職員になった彼は、休暇中のキースから電話を受ける。恋人の店に貼り紙をしてきて欲しいと。モーラはジェーンに頼もうといったそうだが、それはキースの「ジェーンは焼け出されて忙しいんじゃないかな」という言葉で却下され、その仕事はコウに回ってきたのだった。事情を聞く限りではしょうがないと思うし、焼け出されたというジェーンにも同情はしているがそれでも釈然とはしなかった。張り紙の四隅に張るテープの最後を切り取ろうとしたとき、彼は背後に人の気配を感じた。

「あの、」

金髪の女性が立っていた。青い瞳と、青いワンピース。

「ここなら、今日から一週間休みですよ」

コウはテープを張り終えると、地面に置いていたカバンを持ち、目の前の女性の正面を向いてそう言った。肩ほどの金髪には大きなウェーブがゆるくかかっている。耳元のイヤリングは大きすぎるような感じもするが、嫌味には感じないぐらい似合っていた。

「そうなんですか……昼食をとろうと思ったのだけど。一週間も休みって、何かあったの?」

彼女は心配そうに白い指先を顎に当ててコウにたずねてくる。

「いえ、貼り紙に書いてる通りにモーラは恋人と旅行です。食事なら、近くにおいしいところあるけど、どう?」

「まあ、そうだったの。あなたは?」

「僕はキースの友人。コウ・ウラキ。キースのことは知っているの?」

「もちろんよ。コウ、私はニナ。ニナ・パープルトン。貴方も食事がまだならご一緒しましょ?モーラの最近のことも聞きたいわ」

自己紹介を終えた二人は、路地裏を並んで歩いていく。続けた会話の中で、コウは彼女が昔この街に住んでいたこと、モーラとはその頃からの知り合いだということを知った。電話での付き合いが続いていたものの、彼女が短期留学に出ていてそれ以降のことは知らないとニナは話してくれた。少し歩いたところにあるパスタの店に二人が入る頃、近所の子供たちが飛ばしたと思われるシャボン玉が風に漂い、太陽の光を反射して虹色に輝いていた。




ジェーンはガトーのマンションのベランダで、手持ち無沙汰にシャボン玉を飛ばしていた。ニナとコウが見たのは彼女が飛ばしたそれであるはずがないのは、二箇所の距離が離れていることから明らかにわかる。
カーテンを皺にならないよう押してバスタブに陰干しし(ガトーが気に入らないだろうから洗濯表示のタグに従った)、洗濯機がまだ回っているのですることもなくなってしまった。
本当は、好奇心で奥の部屋を覗こうとも思ったが、やめた。そんなことをしてもジェーンにとって何のメリットも無い。そこでキッチンからグラスを取り、洗剤と水を注いでストローで吹いた。ありあわせのものでは上手くできないな、と退屈が頂点に達した頃に玄関のドアが開き、ジェーンはその音に反応して玄関のほうへペタペタと歩いていった。ガトーは食料品を買いに行ったにしては大きすぎる袋を二つ抱えていた。

「おかえりなさい」

そう言うと、ジェーンはなにかくすぐったいような感覚を覚えた。まるで新婚夫婦じゃないか。

「ああ、これを冷蔵庫の中に入れておいてくれ」

ガトーは袋の一つをジェーンに差し出した。受け取るとジェーンはダイニングにある冷蔵庫のドアの前に袋を置き、自分も座り込んで冷蔵庫に食品を選別し、取り出しやすいように入れた。ガトーはもう一つの袋を持ったまま奥の部屋に入っていくのが見えた。
ジェーンは袋の中から昼食に使うものを選んでダイニングテーブルに載せると、シンクで手を洗う。魚があったので今日はCrepusculeでも出しているランチメニューにしようと思って、まずパスタをゆでる鍋に水を入れていると、ガトーが紐でくくられた布の塊を差し出してきた。

「なに?」

「お前の部屋着だ。そんな格好でうろうろしてたら……風邪をひくだろう」

季節はまだ9月だが、風は冷たくなってきている。ベランダでシャボン玉遊びに興じていたジェーンも、足元が寒いと思っていたが

「ありがとう」

まさかガトーがそこまで気を遣ってくれるとは思わなかった。青い水玉の上下を受け取りながらジェーンは心からの嬉しさを表現し、笑顔を見せた。

「パスタぐらい私だって茹でられる。着替えてきなさい」

どうも今日は自分の言葉が保護者のそれのようになるのにガトーは辟易しながらジェーンを追いやった。ふと部屋の温度が下がっていることに気づき、それが開け放たれた窓の所為だとわかると、ガトーはそれを閉める為にベランダのほうへ向かった。そこに場違いのものが置かれていることに彼は気づく。

置き去りのシャボン玉のグラスの中で、青いストローがゆらゆら揺れていた。

20080227