Crepuscule



05

「明日、出かけてくる」

夕食の席で唐突にジェーンが告げた。メニューは牛頬肉の煮込みとシーザーサラダ、ヴィシソワーズ。もちろん全てにわかシェフのジェーンが作ったものである。趣味の良いアンティークのレコードプレイヤーからはジャズのメロディがかすかに聞こえている。ガトーは添えられたロールパンを手でちぎり、メインのソースを絡めた。買い物にでも行くのだろう。ワインを出しているが、ジェーンはもう3杯目というのにまだ平気な顔をしている。強いのだろうか。ガトーは一杯目で少し顔が火照っている。家で飲むと、外の店で飲むときよりもアルコールの周りが早い気がする。

「色々入用なものもあるだろうからな」

「そう。それと、アパルトマンに行ってみる。色々気になることもあるし」

ジェーンはスープスプーンでヴィシソワーズを無意味にかき混ぜる。

「それから、物件も見てこないと。いつまでもお世話になるわけにはいかないし」

「そういえば保険なんかはどうしてるんだ?」

ついつい世話焼きな性格が出てきていらぬことまで気にかけてしまう。ジェーンは、あ、と言うように口を開いて、運びかけていたスプーンをボウルの中に戻した。

「ああ、そうか。保険」

「……まさか入っていないとか、保険金を払っていないとかいうじゃないだろうな」

今日目の当たりにした彼女の性格から判断して、ありそうなことではある。

「いや、ちゃんと入ってたし払ってた。そうかー……貯金切り崩すことばっかり考えてたけど保険かあ」

どうやら忘れていたらしい。安心したような拍子抜けしたようなガトーの耳にピアノソロの調べが心地よくなじんでくる。
そのとき、

「あ、私のだ」

携帯電話の着信音が広い部屋に鳴り響く。先に食べてて、と言うと、ジェーンはキッチンカウンターの上に置いていた携帯電話を開いた。ガトーはプレイヤーの音量を下げるために席を立ったので、携帯電話のディスプレイに表示された名前を見て顔をしかめたジェーンに気づくことはなかった。

「はい――久しぶり。……え?テレビ見たのね?―――ふふ、それはありがとう」

知り合いかなにかだろう。ガトーは席に戻ろうとしたが、会話に聞き耳を立てるようなので近づくのはやめて、レコードをとめて新しいものに変えようとした。今度はクラシック・ピアノにしようと思い、彼は長い指先でラックから「クロード・ドビュッシー」の一枚を取り出した。

「あー…………それは大丈夫、うん――知り合いの家に厄介になることが決まったから。―――違うわよ。本当。―もう!じゃあね」

無理矢理通話を終わらせたようだった。ジェーンはカウンターに投げ捨てるように携帯電話を置いた。ガトーが驚いて振り向くとジェーンはごめんなさい、と謝り、席についてカチャカチャと食事を口にし始めた。プレイヤーから音楽が聴こえてくるのを確認して、ガトーも元通り席に着く。

「昔の恋人よ」

吐き捨てるように、しかし少し遠い目でジェーンが呟いた。やけになってサラダをフォークで突き刺しているようにも見える。

「結局、振り回されるだけだった。散々遊ばれて、貢がされて、挙句の果てにポイ、よ。でも、あんな男といつまでも一緒よりマシかな。あのままじゃ私もダメになってたし。それからこの街に来て、それっきり、連絡もなかったのに、今更なんなのかしら。――私どうしちゃったんだろ。なんでこんなこと、あなたに」

ジェーンはフォークでさらにサラダを突き刺し、もう片方の手でうつむいた頭を抱えた。

「もう、一年近く前のこと。吹っ切れてる。うん、そうよ」

酔っていないように見えるのは、そう見えるだけなのだろうか、ジェーンは自分に言い聞かせるように顔を上げた。眼に光るものが見えたのも気のせいではないかもしれない。鼻を軽くすすったジェーンのグラスにガトーは赤ワインを注いでやった。一年。自分にも思いあたることのある数字である。自分では吹っ切れていると思っていることも、案外傍から見たらそうではないのかも知れない。自分がジェーンを見る今のように、ジェーンが自分を見た昼間のように。

「おい」

ジェーンは注がれたワインをぐいと一息に飲み干した。

「いいの。飲ませてよ」

どこか不機嫌そうにジェーンはガトーにグラスを突き出した。まあ、いいか。ガトーは促されるままにグラスにワインを注いでやる。その心情がわからないでもない。むしろ自分にも覚えがある、無様で、やり場のない感情。ガトーは自らのグラスにもワインを注いだ。昨日の今日なので量は少なめに。
そうこうしている間にもジェーンのグラスは再び空になった。今度は差し出されるのと同じタイミングでワインを注いでやる。

「私にも、あったさ」

酔っているのだろう。でなければ身の上話をこうも易々と口にはすまい。酒の勢いを借りるのは子供じみているような気もするが。

「お互いに忙しくて、すれ違って、気がついたら避けていた」

ワインを口に含みながら話すガトーを、ジェーンは半分開いた眼で見つめていた。見つめている、というよりも、ぼんやりと視線を漂わせている。

「それで、自然消滅みたいなものだ。ある日家に帰ったら、誰も居ない、何もない」

ジェーンが身を乗り出してガトーのグラスにワインを注ぎ足す。軽い音を立てて液面が揺れた。

「みっともないだろう?」

「ううん、ガトーさんにもそういうこと、あるんだね。でもその人、きっと素敵な人なんだろうな。私が経験したようなこととは違う気がする」

「そんなことない、だろう」

「そんなことある」

どうせ私とは違うもん、と言ってジェーンはまたワインを飲み干した。その表情はますます不機嫌そうで。これは本当に、やけになっているのかもしれない。昨日の自分が醜態を曝していたことは認めるが、これ以上飲ませるわけにもいかない。ガトーはワインに栓をして冷蔵庫に片付けてしまおうとしたが、ジェーンが不平をこぼす。振り切って冷蔵庫を開けて、代わりの飲み物を何か探そうとした。

「お酒が飲みたいの!ワインは早く消費しないと味が――」

やれやれ、これでは本当に酔っ払いだ。ガトーは自分のことは棚に上げて呆れていたが、ジェーンが言葉をとめたので何かと思い振り向けば、彼女は顔ごとプレイヤーの方を向いて曲に聴き入っている。

「月の光……好きなの」

意外だった。昼間に音楽の話をしたときにはインディーズのロックバンドぐらいしか聴かないなどと言っていたジェーンが月の光に聴き入っている。満足そうな表情で。しかしまだ酔っ払いは「ワイン!」とアルコールを所望している。ガトーは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して彼女の説得にかかった。

「ジェーン、月の光が好きなのか?」

「うん。で、ワインはー?」

「ワインを飲まないなら、後で月の光を弾いてやる」

「……へ?」

ガトーの言葉にジェーンはポカーンとしている。彼女はすでにテーブルに突っ伏す直前で、このままでは眠りこんでしまいかねないように見えた。こんなことまで言い出すなんて、私も完全に酔ってしまったのかもしれないな。ペットボトルをテーブルに置くと、ガトーは言葉を続けた。

「私がピアノで弾くと言ってるんだ」

「ガトーさん……が……?ピアノ……?」

「奥の部屋にある」

本気で自分も酔いが回っているのかもしれない。奥のもう一部屋にアップライトピアノが置いてあるのは事実だ。彼がピアノを弾くことができるのも。ジェーンはようやく言葉の意味を理解したらしく、顔を上げた。

「じゃあ、今聴く。今弾いて」

「これ以上飲まないな?」

「弾いてくれるんならね」

よし、とガトーは奥の部屋にジェーンを導いた。二人とも、特にジェーンは足元がしっかりしていない。手首を軽く動かしながら歩き、奥の一部屋の扉を開ける。

「これ、なあに?」

ジェーンは入り口の近くの、製図用ドラフターを指差す。

「仕事で使ってるものだ」

もちろん初歩的な道具で仕事を全て行っているわけではない。最近の現場がそうであるように、ガトーもコンピューター処理で実務はこなしている。が、行き詰ったときやアイディアが浮かばないときはドラフターに向かう。
そういえばジェーンには自分の職業を話していなかったことに気づいた。自分は建築関係の仕事をしていることだけを簡潔に話す。

「へえ……」

素直に感嘆しているような返事が返ってきた。ガトーは壁際のアップライトピアノの下から楽譜を探し出す。ジェーンは手持ち無沙汰に鍵盤の蓋をあけて、低い一音を出した。

「あ、ジェーン。ドアを閉めてくれ。この部屋だけ防音になっている」

夜だからな、とガトーは振り向かずにジェーンに命じた。確かに窓も2重だし、天井や壁の材質も吸音効果があるもののようだ。ジェーンは部屋を見回しながらドアを閉める。硬そうな表題の本がたくさん、それと外国語の本も少なからず、背の高い本棚に揃っている。高さ順に並べられていて非常に見た目が美しい。ドアを閉めると外の音が全く入ってこない。だからガトーはここにコンピューターやらドラフターを置いて仕事部屋にも使っているのだろう。ジェーンは絵を描くときに音楽を聴くこともあれば無音の状態で描くこともある。気が乗らないときはどんな小さな物音でも集中力を乱すので、納得できる。と同時に、何故ガトーがここに住んでいるかもわかった。防音室のある物件などそうざらにはない。
ガトーは「ベルガマスク組曲」の楽譜を捲りながら椅子に座った。どこかに座っているように命じられたので、ジェーンはドアにもたれるようにして腰を下ろした。ガトーが演奏を始めるのを今かと待っているが、手首を回すばかりで一向に始まらない。

「飲んでいるから、多少のミスは許せ」

言い終わるや否や、静かに高音の鍵盤が沈んだ。ゆっくりと、穏やかに。譜面は誰かが捲らなくとも済むように横に長い紙になっている。ガトーの視線は譜面と鍵盤を行ったり来たりしている。ジェーンは長い指が滑らかに動く様を見ていた。
静かな旋律は徐々に盛り上がっていく。半音ずつ下がっていくメロディーがどこか切なかった。
ガトーは飲んでいると言ったものの、不規則なリズムのアルペジオも難なく弾きこなしていった。この曲の幻想的な雰囲気が、ジェーンは好きだった。再びメロディーは主旋律にもどる。ふと窓から空を見上げると、手の届かない高い空に、月が輝いていた。

静かなピアノの旋律に、ジェーンは瞼を閉じた。

20080331