Crepuscule



07

サンドウィッチを食べ終えた二人は、ボサノヴァを聴きながらとりとめの無い話をしていた。焼け跡から持ち帰った絵はガトーの許可を得て玄関脇に飾られている。コバルトブルーのインク瓶はなぜかカウンターのスパイスラックに置かれていて、それに気づいたガトーがジェーンからインクにまつわる話を聞いていたところだった。
ジェーンは昨日の午後に作っておいた林檎のコンポートを冷蔵庫からだしてプレートに移している。ガトーは果物を加熱調理したものがあまり好きではない。が、食べられないわけではないので昨日も残さずたいらげたし、ミントの葉が添えられている(どこから出したのか彼には皆目見当も付いていないが)それを今日も全部食べるつもりだ。確かに、ジェーンはあくまで“食事係”だからガトーが何か注文をつけてもいいのかもしれないが、気を遣う相手であることに代わりはなかった。自分が我慢すれば良い、そういう考えではいけないとわかってはいても。
コンポートを運んできたジェーンから、インクの話の続きを聞いた。

「あのインクを使った絵はあんまりないかな。あ、今お店に飾ってあるやつぐらいだ」

「あの絵、いいな。来週行ったときに買おうと思ってる」

「そんなに気に入ったの?」

さも珍しそうに、ジェーンはデザートスプーンを差し出しながら驚いた。

「自分でも不思議だ。幾らで売ってくれる?」

うーん、とジェーンは考え込みながら、コンポートに添えられたヴァニラアイスをつついた。あまり行儀が良いとはいえないと、ガトーは思ったけれど口にはしなかった。

「どの絵でもそうだけど、値段って決めてないの。いつも、買ってくれる人の言い値」

「それでいいのか?」

「うん。描くのは私だけど、私は描くだけで満足してる。だから、ガトーさんも好きな値段でいいよ」

そんなものだろうか。あまり芸術品などには詳しくないが、高く買ってもらえれば嬉しいものではないか?

「そこまで気に入ってくれるんだったら、ほんとは今すぐお店に行って取ってくるのにね」

ああ、そうか。店に行くことができない理由はジェーンが今ガトーの家に居る理由でもある。自宅の鍵と店の鍵がまとまってぶら下がるキーホルダーは、閉まったままの店の中に置き去りなのだった。
ジェーンはミントの葉を取り除きながら笑った。取り除くのにわざわざ添えるのはよくわからない。
ガトーはジェーンよりも早くコンポートを食べ終わった。男だから早いのかもしれないが、苦手意識のせいか早く片付けてしまおうという気になったのかもしれない。彼はコーヒーを淹れながらジェーンに午後の予定を聞いた。

「結局午前中はアパルトマンに寄ることしかできなかったから、買い物に行くの。服と、化粧品と……」

買うものまで聞いていないのに次々に彼女の口から言葉がこぼれる。元来明るく物怖じしない性格なのだろう。自己主張が強いとも言うべきか。それくらいでなければあれだけ綺麗な絵も描けないのかもしれないが。
淹れたコーヒーをジェーンに差し出すと、どこか落ち着かない様子だった。ふと、視線が合うと彼女はガトーに言い訳のようにこう言った。

「あー……煙草、吸ってないから」

コンポートをスプーンで切り分けながら、買ってくるの忘れたな、と呟くジェーンは本気で後悔しているように見えた。
ガトーは煙草を吸ったことがないわけではない。学生時代に試しにと友人の一本をもらったことがあるだけだ。その一本も一口吸っただけで潰してしまった。美味いとも感じなかったし口の中は乾燥する気がして非常に嫌な経験だった。なんでまた、煙を、それも女性にとっては特に有害な煙を好んで嗜むのか、彼には理解できない。

「ちょうどいい機会なんだから、やめたらどうだ」

ダイニングの椅子に座ってガトーは責めるように言った。本人には責めたつもりはなかったが、一日半以上禁煙状態のジェーンはニコチン切れのイライラからだろうか、言葉尻に噛み付いてきた。彼女の不機嫌さというか、不安定さはガトーにも伝わった。

「別に……この部屋の中では吸わないよ。ベランダとか、外で吸うし」

「それもあるが……体に悪いぞ」

「関係、ないでしょ」

カチャン、とジェーンがスプーンをプレートに置いた。コンポートはまだ残っている。ガトーは驚いた。先ほどまでにこやかに会話していたのに。女性一般がそうではないと思うが、まったくもって女が急に態度を変えるのはわけがわからない。彼はまた昔の恋人がこのようにして機嫌を損ねるときのことを思い出していた。

「いいじゃない。私確かに居候だけど、そこまで言われる筋合いはない!別に、恋人でもなんでもないじゃない、それとも何?そうやって人を自分の思い通りにしたいわけ!?」

「…………こっちこそ、そこまで言われるのは心外だ」

視線がまともにぶつかったまま、二人とも微動だにしなかった。部屋の外の道路を走る自動車の音だけが聞こえる。

先に視線をそらしたのはジェーンだった。せいぜい10秒ぐらいの間だっただろうに、かなり長い時間が流れたような錯覚を感じた。ジェーンは憂さを晴らすかのように大きな音を立てて立ち上がり、上着を掴んで部屋を出て行った。残されたガトーは視線をコンポートの食べ残しに移してため息をついた。

ガトー自身、ジェーンの言葉にそれほど怒りを感じたわけではない。というか、怒ってなどいないしむしろ、戸惑っている。無理もないかな、と思った。環境の変化に、異性との共同生活で少し参っているのだろう。自分には気を遣わなければならないと感じているだろうし、食事の世話も、か。不安定になっているときだったのかもしれない。ジェーンだって何時もどおりならあのくらい軽く受け流して笑っただろうに。煙草の所為で虫の居所が悪かったのもあるだろうが、自分にも責任はある。推量ばかりだが、ガトーはそう結論して、残されたジェーンの分のコンポートにスプーンを差し入れた。苦手なそれをどうして食べようと思ったのか、本人にもわからない。

ジェーンは後悔していた。ニコチンの所為にする気など毛頭ない。それもあるかもしれないが、そのくらい今までは耐えられた。大体、口寂しいから吸っていただけで、別に煙草でなくともなんでもいい。ジュースの類を飲んではよく友人から「ストローを噛むな」と言われていたことを思い出す。それは今はどうでもいいことで。ジェーンはマンションのエントランスまで降りて来てしまった。幸い、ひっつかんだ上着のポケットに財布も鍵も入っている。少し散歩でもしながら自分の頭を冷やそうと思った。

「なんであんなこと言っちゃったんだろ……」

うつむいて歩きながら自分自身に問うた。飲食店、しかもバーとなる店で働いているから、普段客からどんなことを言われても動揺もしなければ怒りもしないはずなのに……。ジェーンはバス停のベンチに腰掛け、ため息をついた。わからなかった。自分でもどうかしていると思うし、わからないにせよ自分が悪いということ、そして謝らなければならないということだけは理解している。
ぶつかった視線の先のガトーは、今までに見たことのないような瞳だった。怖かった。情けないと思う。それは怯えたことではない。今も怯えているが、自分を情けないと思う原因はそのまま謝らずに逃げ出してしまったこと。

どれくらいそうして座り込んでいたのか、ジェーンの腕には時計がないためわからない。彼女は立ち上がった。とにかく、謝った結果がどう転ぼうと自分は謝罪をしなければならないし、それは義務感だけからくるものではなく自分も気が晴れないからだった。もし追い出されるとしてもそれこそ当初の予定通りホテルにでも滞在すればいい。そう考えながらも、ジェーンはそうはならないだろうと思った。ガトーの優しさを、信じていた。

元々することがなかった上にジェーンが飛び出して行ってしまったので、ガトーは食器を洗っていた。自分が食事を作るのと、彼女が作るのとでは使う皿とカトラリーの数が明らかに違う。無論、ジェーンが作る方がより多くの皿を使う。自分ではデザートを作ることなどないからな、と蛇口を閉めながらガトーは思った。捲り上げた袖を戻して、レコードでもかけようかと振り返ると、ちょうどジェーンが玄関から戻ってくるところだった。

お互いに気まずい。特にジェーンは上着のポケットに両手を突っ込んで足元から数十センチ先の床を見つめたまま突っ立っている。別にそこを見つめていることに何の意味もないのだということはわかっていたが、ガトーも無言で同じところを見つめた。

「あの、」

耐え切れなくなってジェーンが口を開いた。同時に両手をポケットからだして、胸の前で指先同士を合わせた。

「ごめんなさい」

何が、とはジェーンも言わないし、ガトーも聞かない。

「いや……配慮できていなかったのはこっちのほうだ。すまなかった」

ガトーが謝罪するのを聞いたジェーンは驚いて顔を上げた。なぜ謝るのかと聞かれるのはわかりきっているのでガトーは続ける。

「俺は気にしていない。むしろ、ジェーンに気を遣わせていたことを、反省している。お前だってこの2日ぐらいで色々環境も変わったし、まして男と暮らし始めるんだから不安定にならないほうがおかしい、気づいていなかった。本当に、すまなく思っている」

「あ…………不安定には……なってたかもしれないけど、でもさっきのは私が悪いんだから、そんな風に謝られると逆にどうしていいかわからないというか…………」

本当にわからないのだろう。ジェーンは視線をふわふわ移動させながらつま先で床をつついたり髪を触ったりして落ち着きが無い。

「ああ、もう!よし!終わり!この話は終わり!お互い悪かったってことで異存なし?」

突然大声をだしたジェーンに少々気圧されながら、ガトーは頷いてみせた。ガトーはジェーンを我が強いと思っているから、これ以上何か言う気にはなれなかったし、ジェーンはガトーを頑固そうと決め付けているので、お互いそれを口に出しこそはしなくとも和解を受け入れた。

「はい、仲直り」

子供っぽい笑顔で、ジェーンは握りこぶしを差し出してきた。手の甲が上向きになっているので何か手に握っているらしい。ガトーが右手をその下に広げて差し出すと、青と黒のストライプの塊が落ちてきた。

「飴?」

「さっき買ってきたの。近くにお菓子屋さんあるでしょ?」

ジェーンの上着のポケットが膨らんでいるのはわかっていたが、てっきり煙草が入っているものと思っていた。それが、こんなに可愛らしいものが……。驚くガトーを尻目にジェーンもオレンジと黒のストライプの包みを解いて中身を口に放り込んだ。

「別に、煙草だから吸ってたわけじゃないのよ。ただ口寂しかっただけ。飴でもストローでもなんでもいいの」

包み紙を綺麗にたたみながらジェーンが続けた。

「それに……煙草吸うようになったのって、月並みだけど前の男が原因だしね。禁煙に成功して、すっきりしちゃおうと思って」

照れくさそうに髪の毛に手を入れる様子はなんだか好ましいものに映った。別に、自分が禁煙のきっかけとなったことが嬉しいわけでも誇らしいわけでもない。そういうジェーンがほんとうにスッキリしているように見えた。ガトーは青と黒のストライプの包みをゆっくり解いて、中身を口に入れた。ハッカのような味が口の中に広がった。

「買い物に行こうか」

20080306