Crepuscule



08

「でか……」

驚嘆の溜息を吐き出したジェーンの眼前にあるのは、真っ白い大きな車。それも、ただ大きいだけではない。あの、フォード・マスタング。かなり年式が古いことは今時の自動車にはほとんど見られない角ばったデザインから見てわかるが、それでも今のジェーンには到底手が出せない金額の自動車なのは言うまでも無い。

ガトーが自分の買い物に付き合うと言い出したかと思えば、そうではなくて乗せて行ってくれるだけという。そこまでしてもらうのも気が引けるが、確かに色々買い込んでバスで移動するのは面倒だった。自分に免許があれば車だけ借りて自分ひとりで行ってもいいのにと考えていたが、目の前のマスタングは免許があっても到底乗りこなせそうとは思えない。もちろん車体の大きさもあるが、ぶつけたりしたときの金額的な問題で。

「これ……自分で買ったの?」

ガトーが運転席に乗り込んだので、ジェーンも続いて助手席のドアを恐る恐る開けながらたずねた。本当は手袋でも嵌めて触りたい。あんまりビクビクしていたのが伝わったのか、ガトーは苦笑しながら、ポンコツだから気負わなくていいと言った。だからといって、はいそうですかと気軽に乗れるわけが無い。

「まさか。父親から譲られたものだ。俺が生まれる前から乗っていたらしいが」

はあ、とため息をつきながらジェーンはシートに腰を沈める。外観どおりにゆったりとしていて、高級車であることをこれでもかと言うほど思い知らされる。それでもジェーンは卑屈になるのはやめて、ただ純粋に乗車できて嬉しいと思うようにした。一体何が中にあるのか開けて見てみたくなるほど長いボンネットは運転時に感覚を把握するのが難しそうで、というよりももうこの車自体扱いが難しそうだと感じた。

「お父さんもお金持ちなのねえ」

「も、ってなんだ」

キーをひねり、シートベルトを締めながらガトーは笑った。エンジンの心地よい振動と低音が腹に響く。だって、住んでるマンションも高そうだしこんな車持ってる同年代なんていないでしょうと言いたかったが、ジェーンはやめた。他人のことを詮索するのは好きじゃなった。父親が如何なる人物なのか、果たしてガトーは建築関係の仕事なんていっているがそれはどんな内容なのか、知りたいことはたくさんあるけれど。そういうことは本人が自発的に話すのを待っているほうが気が楽だ。

このマスタングは年式が古いためかミッション車だった。ガトーはギアをいとも簡単そうに操作してマンションの駐車場から出て行く。行き先は先に告げているので、しばらくは話でもしながらドライブかな、とレバーの上の大きな掌を見つめながらジェーンは思った。

運転している男性がかっこいいとか、バックするときに助手席の後ろに手を当てるのがいいとか、色々言われているけれどそうかもしれない。ちらちらとガトーの横顔を盗み見ながらジェーンはとりとめのないことを考えていた。どこか緊張してしまって、話の一つも切り出せない。先に口を開いたのはガトーだった。

「20年前は、助手席に座ってたのは俺だった」

「運転はお父さん?」

そう、とこちらを向いて微笑みながらガトーが返事をした。

「小さい頃によく乗せてもらってたから、買い換えるときも下取りに猛反対した。気に入ってたんだろうな、だから今、運転席に座ってるのか」

なんだか生き生きしたように見える。本当にこの車と、それを運転するのが楽しいのだろう。年齢以上に大人びた雰囲気のガトーの、少年らしさを垣間見た気がした。

「なんか、意外」

微笑みが照れくさくて、ジェーンは前方に視線を移しながら言った。ガトーは、何が意外なのかと聞き返してきた。まともに答えるつもりはないので、ジェーンは適当にはぐらかす。

「車、好きなの?」

「いや、そういうわけじゃない」

ギアを一つ上に入れられて、車は加速した。

「ジェーン」

「うん?」

「火事のこと、両親には報告したのか?」

自分の父親の話で思いあたったのだろう、ガトーが保護者のようにジェーンにたずねた。正直、それを聞かれるのはつらい。

「してないよ、連絡のしようがないもん」

「何故?」

信号にひっかかった。悪気はなく単純に聞いているだけだとわかっていても、こちらが嫌な気分になってしまう。ジェーンはどうしたものかと思案しながらガトーのほうを窺った。左肘を窓枠に引っ掛け指先で顎の辺りを触りながら聞いてくるガトーの眼差しに他意は感じられない。ジェーンは諦めて腹をくくった。

「父親はいない、っていうか誰だかわかんないし、母親は2年前に男作ってどっかいっちゃったし」

さすがに相手の目を見て話せるような内容ではないから、ジェーンは前を見たまま話した。別に、ありのままを話す必要はなかったけれど、聞いて欲しいような気分だった。そうさせるのは、何故だろう。ガトーが優しいから?会ったことの無い父親の影を、この人に探しているから?
この日何度目かの沈黙が訪れる。マスタングのエンジン音だけが響いていた。
ガトーは不用意なことを聞いてしまったと後悔したけれど、どうすることもできない。かろうじてクラッチペダルを踏み込んだまま、ジェーンの睫が上下するのをただ無言で眺めていた。かけるべき言葉が見つからない。

「バーキンは父親の姓だけど、どこにでもありそうな名前だし、大体探そうとも思わない。母親も、どこ行ってたって私の知ったことじゃないし。……ね、信号、変わったよ」

ジェーンの言葉で我に返ると同時に、後続車のクラクションが聞こえてくる。慌ててアクセルを踏み込んで走り出す。ジェーンは先ほどまでの話題とは裏腹に、なにやってるの、と笑った。ジェーンは同じようなことをいろんな人に聞かれたのかもしれない。何度も。彼女自身にも慣れがあるだろう。その笑顔が何時もの笑顔と大差なかったので少し、救われた気になった。強い女性だとおもった。
ジェーンはイタズラっぽく笑いながら、雰囲気を変えるためにか話をふってきた。

「なんか、プリティウーマンみたい。私はコールガールじゃないし、車はロータスじゃないけど」

ロータス・エスプリはそれこそマスタングとは比べ物にならない高級車。その映画は観たことはあるけれど、自分は青年実業家なんかではないし、あれやこれやと世話を焼くのは嫌いではないが、あのように「育て上げる」のは勘弁して欲しい。その前にジェーンは人に頼らずとも自立して生きていけそうな気もする。映画の結末がどのようなものだったかは、覚えていない。

「そういうのがジェーンの夢なのか?」

からかうようにたずねたら、助手席から盛大なため息が漏れて、続いて呆れたようにジェーンが言った。

「世話になってる身で言いにくいけど、自立した女のほうが夢に近いな」

予想通り。ガトーは気づかれないように笑った。なんでもかんでも人に頼りきりの女性より、自分の意思を持って行動する女性の方が好みだし、そういう人間の方がお互いに干渉しあうことなく付き合っていける……

「どうしたの?」

黙り込んでしまったガトーを、ジェーンが覗き込んでくる。その拍子に彼女の髪が肩から落ちて、自分の使うそれと同じはずのシャンプーの匂いがした。こんな風な、いい匂いだっただろうか。

「いや、なんでもない」

なんでもない、と言うのが嘘になってしまうほど、ガトーは自分の思考に驚いていた。
好み?自分がジェーンに恋愛感情を抱いているとは到底思えない。むしろ、手のかかる妹といったほうが彼にとって的確だった。確かに好ましい性格だとは思うけれど、それ以上でもそれ以下でもない。

「ああっ!通り過ぎた!」

ジェーンが助手席で叫ばなければそのまま混乱した頭で運転し続けていたかもしれない。ガトーはブレーキを踏み込んだが、目的地を通り過ぎてしまったからにはどうしようもない。仕方なく、先の路地を曲がって一回りすることにした。

「本当にどうかしたの?ぼんやりして。熱でもあるの?」

ジェーンは左手をガトーの右頬にぴと、とあててみた。さすがに運転中に額を触るのは危ないと判断したのだろう。だが、頬に触れられることすら今のガトーにとってはまるで爆弾だった。ガトーの手よりもずっと小さくて白い手は少し冷たくて心地よかった。

「熱はないみたいだけど……顔が赤いよ?」

掌をひっこめながら、ジェーンは不思議そうに言った。返す言葉もないガトーはかろうじて運転をこなしていたが、心臓は恐ろしいほどに高鳴っていた。なんともないような顔をしているつもりだが、見破られてはいないだろうかとジェーンを見れば、首をかしげて怪訝な顔をしている。若干上目遣いで覗き込むその視線とまともにぶつかってしまい、ますます混乱した。出会ってから初めて、彼女を可愛いと思った。可愛いだと?

ジェーンはジェーンで、まさか「堅物・全人類代表」みたいなガトーがそんな俗っぽいことで頭を悩ませているとはつゆほども知らずに、それどころか風邪だと決め付けて、夕食は暖かいものにしようとメニューを考えていた。そうこうしているうちにマスタングは画材店の前の歩道に乗り付けた。

「ちょっと待ってて、すぐにもどるから」

ジェーンは助手席から舞い降りて画材店の中に入っていった。ガトーはサイドブレーキを引いてステアリングに両腕を乗せて突っ伏した。

「どうかしている……」

それ以外、今の彼には言えなかった。恋人と別れたのが一年前で、今の職場は男ばかり。毎日職場と家の往復で、なじみのカフェの店員は対象外だった上にそこで知り合った女性も居ない。一年間のブランクで女性に対する免疫が低下したのだ。きっとそうだ。ガトーは無理矢理自分に納得させるように言い聞かせて体を起こした。その拍子に長い髪が顔にかかるので、彼は右手でかきあげた。さっきのジェーンと同じ匂いがした。
画材店は歩道に面した入り口も壁もガラス張りで、中が良く見えた。ジェーンは真剣な表情であれやこれやを手にとっている。昨夜の寝顔、昼間の怒った顔、謝りに来たときの顔、そして真剣そのものの今の顔。よくもまあ、あれだけ沢山の表情を持っているものだと苦笑した。深く考えてもしょうがないので、当分は保護者か兄か、そんな立場で彼女と接しよう。そう考えていた。ガラス戸の向こうのジェーンの買い物はまだ時間がかかりそうなので、ガトーはかかりっぱなしのエンジンを切った。

20080307