Crepuscule



09

その日ジェーンが買ってきた服は大きな紙袋5つ分で、マスタングの後部座席がぎっしりと埋まってしまった。それに加えて最初に買った画材もそれなりのスペースを占める大きさのスケッチブックで、ジェーンはガトーに車を出してくれたことを感謝した。
そんなことは別にかまわなくて、ガトーが参ったことと言えば、風邪をひいたとすっかり勘違いされてしまい、その日の夕食がなんとも食べ応えの無いリゾットになってしまったことぐらいだった。もちろん、味は申し分なかったが。

「だから風邪じゃないって言ってるだろ」
「ガトーさんは寝込んでも仕事行くって言いそうなタイプよね、ほらほら冷めないうちに食べて。食べ終わったら早く寝るんだよ」

これではまるで母親と子供のようだと、ガトーはうんざりしながらも、これ以上言い返す甲斐がなさそうなのでおとなしくジェーンに従った。なんのつもりか、ジェーンもリゾットを大きなスプーンで食べている。誰も風邪をひいてなんかいないにも関わらず。

「ああそうだ、今日は寝室で寝てよ、あのソファーベッドは寒そうだし」
「じゃあジェーンがここで寝るのか?」

ここ、というのはダイニングテーブルのガトーが指差すソファーベッドのことだ。ジェーンはリゾットの海老を口に入れ、頷く。

「そもそも居候の私が、いいベッドで寝るのはおかしいでしょう」
「俺はもうこっちに慣れてしまったんだ」
「今日から慣れればいいじゃない。病人は口答えしないの」
「だから……」

まるで聞く耳を持たないとでもいいそうなそぶりを見せるジェーンに、ガトーは潔く降参した。時刻はまだ20時。ベッドに入ったところで眠れそうにはないけれど、部屋に引きこもってしまえばこれ以上お小言を言われなくてすむ。



「だからって」

え、と聞き返すジェーンはベッドの横に。ガトーは無理矢理ベッドに押し込められて毛布をかけられている最中。夕食を食べ終えると一息つく間も無く寝室へと駆り立てられて今に至る。

「子供じゃないんだから一人で……」

もはや苛立ちよりも呆れてジェーンを説得しようとするがなんの使命感に燃えているのか、ジェーンは「病人介護」を止めようとしない。まったく、健康であるというのに病人扱いされてあまつさえ母親に甘やかされる幼子のように世話を焼かれてはたまったものではない。いくら反論しても病人はおとなしくしていろだの、さっさと眠れだの、よくもまあそこまでできるものだといらぬ感心まで抱いてしまう。

「明後日から仕事なら、明日までに治さなくっちゃ」
「わかった。わかったから、眠るから!一人にしてくれ!」
「眠るまで横にいてあげるよ」
「何故」
「んー?」

ジェーンはベッドに肘をついて、横になっているガトーの怪訝そうな表情に微笑みで返した。

「病気のとき、一人だと寂しいでしょう?」
「……そういうものか?」

本当に病気だったらそうかもしれないが、あいにくガトーは健康そのもの。
おせっかいなのか優しいのか面倒見がいいのか、よくわからない。眠くなってきたのかもしれないな。判断力の鈍った頭でガトー少しだけジェーンに感謝していた。

「額に肉なんて書かないから安心してね、おやすみ」

目を閉じるとそんな声が聞こえた気がする。肉?なんのことだかさっぱりわからないが、今はもう、意識を手放してしまうことにする。



目を覚ましたときはすでに朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。こんなに眠ったのは久しぶりで、体がいつになく痛みを訴えている。ベッドの上に上半身を起こし、軽く背伸びをしてからベッドを降りる。寝室から出てソファーベッドを確認すると、ジェーンが毛布もかけずに眠っていた。

「まったく…………」

もう一度寝室に引き返して毛布を取り、寒そうに丸まって眠るジェーンにかけてやった。まだ時刻は早いので、起こさないようにそっと。ついさっきまで自分がかぶっていたそれはまだ暖かいのか、どこか満足そうな表情で眠るジェーンに苦笑したあと、彼は防音室の方へ足を向けた。
衣服の類はこの部屋のチェストに放り込んである。寝室には据え付けのクローゼットがあるけれど、そこには今の季節に着ない服が詰め込まれている。年に二回ほどしか扉もあけない。
ガトーはチェストからトレーニングウェアの上下を取り出してそれに着替える。彼の朝の週間は15分のジョギング。毎朝汗を流すのはいい目覚めにもなるし、健康や体型維持にもなる。まだ眠っているジェーンを起こさないように気をつけながら玄関のドアを開けた。
朝の気温が下がってきている。季節の移り変わりを感じながらガトーは走り出した。まだ出勤時という時間帯ではないから人影もそんなに見当たらない。たまにすれ違うのは彼と同じくジョギングを楽しむ中年の夫妻やら、愛犬の散歩をする老婦人だけだ。彼らに挨拶をしながら、ガトーは公園へ向かった。朝焼けが綺麗なときは、毎日の週間を続けていて良かったと思う。今日もそう思える一日の始まりだった。

ドアが閉まるような音でジェーンは目を覚ました。ただ目を覚ましただけでなく、飛び起きた。周囲の状況を把握しようとして、昨夜自分がガトーにかけたはずの毛布がかぶさっていることに気づいた。どういうことなのかうまく飲み込めないでいるジェーンの耳に、低い声が届いた。

「あ、起こしたか。すまない」

玄関から向かってくるガトーの声だった。ジェーンには、何故彼が汗をかいているかも、上下ジャージを着ているのかも理解できない。何を言葉にすればいいのかわからないジェーンを尻目に、ガトーは冷蔵庫からミネラルウォーターを出して喉を鳴らしながら飲み干す。

「まだ寝てていいぞ」
「んーん、目、覚めたから……」

目が覚めたという割には、ジェーンの声ははっきりしないし、瞼がいかにも重そうに瞬きを繰り返す。寝癖がついた頭を掻きながら乱れた部屋着を直そうとするジェーンはあることに気づいた。

「(なんだか寒い……)」

ジェーンは両腕で体を抱きしめながら震えた。寒気だけではない。体全体が倦怠感に襲われている。耐え切れないのか彼女は再び毛布の中にもぐりこんだ。ガトーはペットボトルをダイニングテーブルに置くと、ジェーンの横たわるソファーベッドに歩み寄った。

「どうした?」
「な、なんでもない。まだ眠いから……」

口が裂けても『風邪をひいた』とは言いにくい。昨日の自分の立場がない。ジェーンはガトーから顔を逸らすように寝返りを打って、眠りに落ちたふりをした。ジェーンの様子がおかしいことに気づかないほど鈍感ではないが、ガトーはとりあえず汗を流すためにシャワールームに入った。

「お前……風邪ひいてるんじゃないのか?」

シャワールームから出てくると、ソファーベッドの方からジェーンが何回も咳き込むのが聞こえた。ジェーンはぎくりとするように体を震わせ、体は起こさないままガトーのほうを見上げた。毛布一枚では寒いのか、体を小さくちぢこませている。

「違うよ、明け方は冷え込むから、ちょっと寒いなって……」

ガトーはソファーベッドの縁に片手をついて、空いた片手でジェーンの額に触れてみた。少し熱いように感じる。口には出さずにため息だけついて、サイドテーブルの引き出しから体温計を取り出した。

「熱、測ってみろ」
「……うん」

意外だったが、ジェーンが素直に言うことを聞いてくれて助かった。ジェーンはガトーから受け取った体温計を毛布の下でもぞもぞと腋の下に挟みこむ。その間、ガトーは冷蔵庫からスポーツドリンクを2本取り出した。一つは自分が飲み、もう一つはジェーンに飲ませるために。電子式の体温計が計測終了を告げる音を発した。

「38℃……」
「風邪ひいてるじゃないか」
「大丈夫だもん……寝とけば治る……」

呆れた。体温計を片付けてジェーンの顔色を見てみると、いつもより頬の赤みが増している気がする。とりあえずこのままソファーベッドに寝かせておくわけにはいかないので、寝室のベッドの準備をする。毛布だけでは寒いだろうからクローゼットの中から羽毛の掛け布団を出す。少し埃っぽいかもしれないが、贅沢を言っていられない。

「向こうのベッドに布団を用意したから」

寝室に行くようにジェーンに言って、ガトーは市販の風邪薬を探した。買っておいたものがあったはず、引き出しを調べると、まだ3日分は残っている。期限も切れていない。後はそれを飲むときの水を、と思い冷蔵庫からミネラルウォーターも出した。両手にそれらを持って寝室に向かおうとしたのに、ジェーンはまだソファーベッドに丸まっている。

「寒い……動きたくない……」

動きたくないからそう言っているのではなく、苦しそうに喘ぐジェーンはあまり体力があるようには見えない。とりあえず風邪薬とミネラルウォーターはダイニングのテーブルにおいて、ガトーは毛布ごとジェーンを抱き上げた。ジェーンの額が頬に当たる。熱い。額だけでなく、せわしく吐く息も熱い。

「あ……いい匂い」

自分の状況がわかっているのか、ジェーンはなんとも緊張感のないことを言って軽く微笑んだ。いい匂い、というのはなんなのだろう。シャワーを浴びたガトーの、ボディーソープか何かの匂いだろう。
衝撃を与えないようにそっとベッドにジェーンを横たえた。布団が冷たくなっていたためか、ジェーンは眉間に皺を寄せて震えた。彼女に布団をかけ、風邪薬を取りに行こうと背を返したガトーの服の裾を、ジェーンが掴んだ。

「なんだ?」
「やだ……いっちゃやだ……」

消え入りそうな声で訴えかけるジェーンの顔に、昨夜聞いた台詞がダブった。

『病気のとき、一人だと寂しいでしょう?』

ガトーは部屋を出ようとしていた足を止めてベッドの縁に座った。ジェーンは両手でガトーの手を握ってくる。そのまま自分の頬にあてて、満足したように目を閉じた。自分の体温より少し熱く、だがそれは不思議と嫌ではなかった。ジェーンの額にかかった髪を指先で払い、頭を撫でた。愛おしい者に向けるようなまなざしで。

「ここにいるから」
「ありがとう……」
「ん……おやすみ……」

指の間を抜ける髪が、心地よかった。
お前が眠りにつくまで、髪を撫でていよう。

20080313