ムーン・リバーに似ている



その風景の中にはいつも山田花子の姿があった。

彼女について簡潔に説明しようとするが、どうしてもその特殊さゆえに簡潔にとはいかなくなってしまう。
僕、有栖川有栖も含めその場にいる人間と同様、英都大学の関係者であり、長老の江神さんと同級生だったときもある女性だ。
浪人と留年を繰り返した江神さんがまだ大学に在籍しているのに対して、山田花子は現役入学後、一年留年して卒業。ちなみに僕が入学したときにはすでに卒業していた。
卒業したといってもどこぞの企業に就職したわけでもなく、国家試験に向けて勉強しているわけでもないらしい。ちなみに就職しなかった理由は『フツーに働くのが私には向いていない気がする』だそうだ。
彼女が働いている姿を見たことはないが、どうやら市内のライブハウスでスタッフをしているらしい。他にもアルバイトをかけもちしながら、それなりに充実した生活をしているように見える。
いや、訂正。仕事はどうなのか知らないが、僕達の前に現れる山田花子はどこかフワフワしている雰囲気を纏いながらも、決して僕等には手の届かない幸福を掴みかけているように見えていた。

「よ、みんな元気みたいやね」

たまに江神さんの下宿でEMCの面々が飲んでいると、彼女がふらりとやってくる。時間はまちまち。先に来ていることもあれば、酔いつぶれたものが出てくる辺りにいつの間にか姿を見せていることもある。
化粧していないような顔だが、目元の彫がやや深い彼女には必要ないように思えた。まるで部屋着のような小さ目のタンクトップとかTシャツに、自分で裾を切り落としたようなジーンズ。まるで一昔前のロッカーだった。でも、それがよく似合う人だった。

「あ、花子さん。こんばんは」
「今日は遅かったですね」
「姐さんのぶんもありますから」

上から僕、マリア、織田。望月は今日はバイトで来ていない。織田は半分ふざけて、半分は敬意をこめて山田花子を「姐さん」と呼んでいた。江神さんは手を上げるだけで、何も声には出さなかった。

「誰が姐さんや。ウチのはこれ?」
「冷蔵庫の中に冷えてるのがありますよ」
「あ、マリアちゃん、ええよ。私が取るから」

立ち上がりかけたマリアを手で制して、花子さんは台所の流しの近くに向かい、手に提げていたスーパーの袋から何かをごとごと出していた。缶詰とか、野菜とか、そういうものを。
EMCの飲み会に花子さんがいても歓迎される理由の一つは、彼女がこうして毎回料理をしてくれるからだった。
とにかく、料理がうまかった。それに早い。手の込んだものを作るわけではなくて、完全に「ありあわせ」で作ったようなものが美味いのだから、彼女は本当に料理が得意なのだろう。
冷蔵庫の中に食材をぶち込みながら、花子さんは「相変らず生活感溢れる冷蔵庫やな、男とは思えへん」と愚痴っていた。一通り家事が出来る江神さんの事を言っているのだろう。愚痴を言われた本人は軽く苦笑するだけだった。
手首につけていたゴムで髪を無造作に束ねあげると、彼女は缶ビールのプルタブを引き抜いた。差別的発言かもしれないが、女性とは思えない飲みっぷりで、それでも細い喉が激しく上下するのはどこか扇情的だった。

以前、僕とマリアは江神さんと花子さんの関係について話したことがあった。
恋人同士なのか、なんなのか。
きっと江神さんに聞いても答えてはくれないだろう。花子さんも、多くは語らない。一度だけ聞いた過去の話は、江神さんからよく勉強、というかレポートを手伝ってもらっていたということだけ。
毎回僕等が江神さんの下宿にお邪魔するときには花子さんも見るけれど、それ以上の頻度で彼女はここに来ているのだろうか。まさか僕達が来たのを見計らって登場するわけではないだろうし、以前から江神さんとは知り合いなのだから、きっと結構な回数、ここに来ているのだろう。
長い間、こんな付かず離れずのような関係なのだろうか。

「どうしたの?」

花子さんがビールをおいしそうに飲んでいる姿に見惚れていた僕は、マリアに呼びかけられて我に返った。

「なんでもない」

花子さんは煙草を吸う。
市販のものではない。手巻き煙草とでも言うのだろうか。煙草の葉を細長い棒状に丸めて紙で巻くおもちゃのような器具を持っていて、それでいつも煙草を作って吸っている。そんなこだわりも彼女らしかった。漂う煙はベリーのにおいがする。
僕は、花子さんが煙草を吸うのは江神さんの影響なんじゃないかと勘繰って、それが本当ならいいのにと思っていた。
江神さんをここ、曖昧極まりない境界を持つこの場所にとどめておける存在がいればいいと思っているからだった。それは僕達では力不足だろうけど、かといって花子さんでは二人してどこかへ消えてしまいそうな気もした。
それとも、こんなどっちつかずの関係を続ける相手がいるからこそ、江神さんはここに留まっているのかもしれない。



僕はどうやら寝てしまっていたようだ。暗闇の中で目を覚ますと少し涼しい風に乗って微かな音が聞こえてきた。
花子さんがギターを弾いていた。ベランダの柵に凭れて。
花子さんの左手は指の先が培養コロニーのような形に硬くなっている。右手の爪は中途半端な長さで、聞いてみたところクラシック・ギターを爪弾くためなのだという。両方の手は指が長く、血管が浮き出ていて男の人のようだった。
目を閉じているように見えるぐらいに瞼を伏せて、花子さんは途切れ途切れのメロディを奏でていた。
水の粒が落ちていくような音だった。

「なんていう曲ですか」

僕が近づいて声をかけると、花子さんは目を伏せたまま、顔だけをあげた。

「なんて曲やろね」

柵の向こう側を見るようにして、花子さんが笑った気がした。
指先はまだ弦にかかっている。ギターのホールの淵には、アールヌーヴォーのような模様が入っている。白いシェルの装飾で、指版にも四角い同じものが入っている。高そうな、綺麗なギターだった。

「ノブナガくんとマリアちゃんは帰ったよ」

花子さんは僕に微笑みながらそう言った。
二人とも僕を起こしてくれなかったのだろうか。それとも、僕は起こされても眠り続けてしまったほど深く熟睡していたのだろうか。
スッキリしているがあまり働かない頭でそんなことを考えていた。花子さんの爪は、相変らずギターの弦を一本ずつ弾いていた。

「そうですか。―江神さんは?」

花子さんはその場から動かなかったが、僕は彼女の近くに腰を下ろした。普通ならつけている香水だとか、体臭とか、そういうものでも感じられそうなものなのに、彼女はいつ会っても存在を主張しないような人だった。傍に立っていて、ふと不安になりそうなときがある。

「有栖川、蛍がいるよ」

花子さんが見つめた先に、虫に例えられた長老がいた。いや、虫に例えられたのは江神さんが吸っている煙草の先端の火なのだが。
何故、江神さんは外で煙草を吸っているのだろう。僕が寝ていたから、気を遣わせてしまったのだろうか。
さっきから考え事ばかりしている。そうさせているのは、この二人だ。

「有栖川、」

花子さんは僕のことをそう呼ぶ。同い年の弟がいて親しみを感じるのと、有栖川という響きが彼女にとっていいものらしい。

「ウチはねぇ、あの人の誕生日も知らんのよ」

何故か花子さんは嬉しそうだった。それが何故なのか僕にはわからない。

「僕も知りませんよ」
「そうか。ウチだけやなかったんか」
「…悔しいんですか?」

花子さんはさっきからずっと外を見ている。木々を観察しているようでもあり、星を観ているようにも見えた。
僕の質問には答えず、彼女はどこかで聴いたことのあるような、クラッシックの曲を弾き始めた。
あぁ、この情景はムーン・リバーだ。
ヘップバーンの無表情が僕の脳裏で再生された。もう何年も前に観たきりでストーリーも覚えていないのに、あの場面だけは何故か鮮明に覚えている。
あんなふうに、花子さんは江神さんに微笑みかけるのだろうか。

「見捨てられたいのかしらね」
「え?」
「あの人も、私も、世界に」

首を傾げるようにまげて、そのまま花子さんは頬を柵に寄せた。
関西出身でない彼女が標準語を話すのは初めて聞いた。
やっぱりこの二人はどこか似ているようで似ていなくて、それでもお互いを必要としている妙な関係だ。
見捨てられたいなんてのは、花子さんが勝手に解釈しているだけのように思えたけれど、ひょっとしたら僕よりも彼のことを知っている花子さんだけが見つけた事実なのかもしれない。
そんなことを聞かされて、僕は少しだけ悔しいような気がした。でも、この二人が仮に世界に見捨てられたとしてもお互いのことだけは永遠に感じ続けていくように思った。

それが、背中合わせでも。

- end -

20090630