花に風



「江神さんは、けっこう剛毛かもしれないですねえ」
「そうか?」
「あれ、気にしたこともないとか?」
「ないなぁ」
「一年も髪、切らない不精ですしねえ」
「人聞きの悪いこと言いなや。ちゃんと理由があるんやから」
「はいはい」

江神さんは、もうそろそろ"霊力を宿した髪"とやらを切ってしまうらしい。
わたしは、咥え煙草で本を読む彼の後ろに陣取って、その髪に櫛を入れている。
一年間で長さも伸びた上に、厚みすら増している黒髪はツヤツヤで、嫉妬しちゃうくらいに痛んだところも枝毛もない。

「それって、ちゃんとした理由なんですかねえ?」

春の暖かさのせいで間延びしたように問うと、江神さんは小さく肩を震わせて笑った。
吸い終わった煙草を、灰皿代わりの空き缶に落としてしまえば立ち上っていた煙が消える。
天井近くにはまだ、乳白色の筋がゆらゆらと浮かんでいた。

「そういや今日はなんで、部屋で吸わせてくれるんや?」
「なんででしょう?当ててみてください。外れたら床屋さんまで三つ編みお下げで行かなきゃいけません」
「まだ根にもっとるんか」

江神さんが言うことは、いつぞやの"イタズラ未遂"のことだろう。
うたた寝をしていた彼の髪を、ここぞとばかりにいじってやろうとしたら返り討ちにあった話。狸寝入りなんて酷いと、彼の"イタズラ"が済んだ後にわたしが怒ってみせたときのあの、余裕綽々な顔!
思い出しても恥ずかしくなる。
恥ずかしくなるけど、それもまた悪くはないのかもしれないなんて考えているのがばれてしまったら、そのほうがずっと恥ずかしい。

「もってます」

煙草の香りを蓄えた髪のうねりのなかに、鼻をつっこむようにして後ろから抱きついた。
これじゃあ、わたしの出した簡単すぎるクイズは誘導尋問みたいなもので、わたしがまた"イタズラ"されたいって言っているようなものかもしれない。
江神さんは片手を伸ばして、わたしの頭をあやすように叩いた。

「どうした。今日はえらい、甘えたがりやないか」
「……そんなことありません」

甘えたがりなのは、いつもです。いつもだけど、ガマンしてるんです。
そうは言えなくて、年上の彼の肩に額を乗せた。
耳の近くに伸びきった髪の先がちくちくささって、くすぐったい。
江神さんは含み笑いをしたように息を漏らして、「風が強いなあ」と、のんびり呟いた。

「風が強いから、ここで吸わせてくれてんのやろ?いつやったかなあ、花子が言うたの。"髪の毛、燃えちゃいます!"って」
「そんなこと覚えてたんですか……」
「ああ。髪なんて切ってしまうもんなのに、優しい子やなあって」
「それ、からかってます?」
「褒めてんよ」

くだらないことを覚えているのが、お互いが大事だからって、そういう理由だったらいいのに。

***

何かに導かれるように、天井のほうへ立ち上っていく煙の向こう、ベランダに干された洗濯物が、飛んで行きそうな勢いで風に吹かれている。
白いブラウスとか、桃色のスカートとか、隠されているせいで色も形も見えないけれど、多分下着もあるのだろう。
服が飛んでいくのはまだしも(それも嫌ではあるだろうが)、下着が飛んでいくというのはいかがなものだろう。
そういう理由で、俺は咥え煙草をしながら気が気でない時間を過ごしていた。
花子はようやく外の有様に思い当たったらしく、慌ててベランダに飛び出していった。手伝おうとすると、「恥ずかしいからダメです!」と一蹴されてしまう。俺にそんな邪心はないというのに。ほとほと人聞きの悪いやつめ。
花子が窓を開けると、花の香りを含んだ風が部屋の中を駆け抜けた。
それは窓際に乱雑に置かれていた講義のレジュメを翻弄し、昨夜コンビニに行ったときのビニール袋も背後でくしゃりと音を立てた。
彼女の細い髪の一本一本も風に流されているのが見える。
男物のそれよりもずっとペラペラに見える服を次々に取り込んでは部屋の中に放り投げる。
その度に窓を開閉して、乱れた髪の間からへらっと笑ってみせている。
微笑み返すのも何故だか照れくさいようで、けれど自然に微笑んでしまうのもまた事実。

「ほんと、すごい風です」

大仕事を終えたような口ぶりで、花子は髪の毛をかきあげた。
どうやら一枚も風にさらわれることなく、無事に"回収"できたらしい。
取り込んだ洗濯物を畳むことをせず、彼女は俺の隣にちょこんと座った。

「そろそろ出掛けないといけませんね」

言われてみれば確かにそのくらいの時間だ。のんびりと過ごしていた自覚はあったものの、想像よりも早く流れていた時間に驚くほかない。
幾分さみしそうな花子が顔をうつむけたとき、彼女のちょうど肩の後ろに黄色い花弁がひっかかっているのが見えた。

「風流やな」

ひょいと片手で摘み上げて見せると、花子も笑った。「そういえば、近所にそんな色の花をつけた木がありました」と、子供のように喜んでいる。
風に乗って運ばれてきたのは、この花の香りだけでなく、花弁もだったのかと、そんなことを考えながら花子の髪に指をからめた。
乱れきってはいるものの、もつれたり絡まったりはしていない。
確かに彼女の髪と比べれば、俺の髪は剛毛ということにもなろう。そう思わせるのに十分なくらい、柔らかくて細い髪。
触れているのが心地よくて、テーブルの上に本と一緒に並べられていた櫛を取り、俺は彼女の髪を梳いた。

「江神さん?」
「うん?」
「出掛けるから、またぐしゃぐちゃになっちゃいますよ?」
「それ言うたら、俺かてどうせ切る髪をいじられたんや。お互い様」
「…………」
「嫌か?」
「そんなこと、ないです」

花子は鼻の先だけくっつけるように、俺の体に身を寄せた。
シャンプーか何かの爽やかな香りを大きく吸い込むと、黄色い花弁が風に流される一瞬が見える。
ほんの些細なことで、それがどうということでもないというのに、何故か俺は、この上ない幸福の予感を覚えた。

- end -

20110515