ルーティン



英都大学は1・2年次の教養科目、学部が異なる学生らが共に講義を受ける。

そのことに、私は今すこし、ほんの少し感謝している。




この講義は適当に選んだから、いつもつるんでいる同じクラスの女の子と別れてしまった。かなり適当に選んだもんだから講義の名前すらも覚えていない。文学部・経済学部・社会学部が合同で講義を受けている。学部柄、女子学生のほうが若干多い気がする。私は広い講義室に飛び交う甲高い笑い声や話し声を聞きながら手に持った文庫本を捲っていた。ちなみに経済学部である。

講義開始5分前になるとかなり人が入ってくる。初回の講義ということもあって、みな真面目に出席しているのだろう。私はすこし落ち着き無く周りを見回していた。講義室の最後列に座っているから、前方の扉から教授が入ってくるのも、後方の扉から男子学生が入ってくるのも、すぐにわかった。

ラフな格好に少し寝癖だろうか、髪を乱れさせたその男は席一つあけて私の隣に座った。彼のほうを見ると、切れ長の目と視線が一瞬ぶつかる。薄い唇と高い鼻が、中々いい男だ。いい男は半透明のケース(よく大学生がテキストの類を入れているあれ)から手際よく講義のテキストと筆記具を出している。真面目な男なのかもしれない。私はまだテキストを買っていないし、この講義室にいる学生の大半もそうだから。

教授はマイクを片手に時々版書しながら、講義の説明をしている。どのようなことを学ぶか、だとか、試験の形式とか出席とか。私はそれを手帳にメモしながら(特に試験のこと)、ローマ法哲学の講義を選んでしまったことに気づいた。今はまだ科目選択の時期だから、受けたくないのなら他の科目に変えればいいのに、幸いテキストもまだ買っていないのに、隣の隣の男のせいで私は迷っていた。


とりあえず、今日はお気に入りのワンピースを着てこなかったことを後悔。




***


次の週も、私は同じ席で同じ本を読んでいた。違うのはワンピースと昨夜塗った薄いピンクのマニキュア。自分でもちょっと、自分がやってることがおかしかった。名前も知らない、学部も何も知らない男なのに。
それでも、この席にまた彼が来るような気がして、私は講義開始15分前から、視線は本のページ、意識は講義室全体という器用なことをやっていた。

講義開始5分前になって彼は現れた。髪を切ったのかこざっぱりしている。彼は先週と同じ席に座った。つまり私の隣の隣。本を持つ手が震えるような気がした。テキストを取り出す音に気づいて、私は自分のカバンの中から同じテキストを取り出した。


「今から出席カードを配布しますので、学籍番号と学部、氏名を記入してください」


講義終了10分前に教授がそう告げ、数人の助手が小さなマーク式の紙を配布しだした。記入し終わったら通路側に集めてくださいといわれて手渡されたその紙を見ながら私の心臓は期待に高鳴った。彼よりも私が、通路側にいる。それだけで。



火村英生  1SO06056P  社会学部



隣の隣の席から回ってきた紙を、さりげなさを装いながら私は目に焼き付けた。通路側で回収する助手に手渡して、火村君のほうを見ると、彼はすでに帰り支度を始めていた。何か話しかけるのは、今度でも良いかもしれない。今週末は買い物にでも、行こうかしら。




***




それから毎週火村君とは講義を一緒に受けるものの、何の進展も見られず。というのも彼はあまりにガードが固い、というか人を寄せ付けないので話しかけるのに躊躇してしまうから。キャンパス内で煙草を吸っているときも(未成年なのに……)、図書室でたまたま見るときも、彼は一人だ。

「花子さぁ、」

食堂で友達がスパゲティをフォークに巻きつけながら話しかけてくる。講義が別でもこうしてランチだけは毎日一緒。

「木曜日だけ、なーんかおしゃれに気合入ってない?」
「あー、それ私も思ってた!ね、なんかあるんでしょ?」

二人して興味津々ですって顔して聞いてくるもんだから私は火村君のことをつい話してしまった。誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。

「ふーん。別にそんなの気にしないで話しかければいいじゃん」
「そ、そんな簡単に言うけどね……」

本当に彼の纏うオーラは人を殺せるのよ、軽く。あれさえなけりゃもうメアドだって手に入れてるわよ。まぁ、ああいう雰囲気が無かったら好きにもなってなかったかもしれないけどさ。

「見てみたいなぁ〜その彼」
「ぶっ!」

友人の突然の発言に、私はコールスローサラダを危うく吐き出すところだった。



***



次の木曜日は不覚にも休んでしまった。これがまた馬鹿馬鹿しいことに、半身浴とヘアパックをしていたらバスタブの中で寝てしまって、結果風邪をひいてしまった。咳き込みながら、看病しに着てくれた友達に悔しいだの残念だだの愚痴ったら、それだけ元気なら講義に行きなさいよと呆れられた。鼻のかみすぎで真っ赤になったこんな顔じゃ行けるわけ無いと言ったら、さらに呆れられた。



***



翌週、もはや習慣のように私は講義室に着席し、ちっとも進まない文庫本をぺらぺらと捲っていた。先週の講義は何があったのか火村君に聞こうかな、あ、口実ができたな、なんてことを考えていたら、目の前に何かのコピーがばさりとふってきた。落とし主は……火村君。目を丸くしているうちに彼は定位置に着席した

「先週のノート。休んでただろ」
「あ、え?なんで知ってんの?」

ついこの前まで話しかけることすらためらっていたのに、今はすらすらと言葉が出てくることに、私自身が驚いている。

「そこにいなかったから」

彼は私の席を指差しながら言った。

「他の席に座ってるかも知れなかったのに?」


すると火村君は自信満々の笑みで、私を赤面させるのであった。


「もしそうだったら、その席の隣の隣に座ってる」

20070108