キャラメル



参ったな。

火村英生は心の中で呟いた。彼は今5人の男子生徒、いずれも校内で問題ばかり起こしている所謂不良を目前にしている。
しかし彼が参ったと呟いた原因は、そのことではない。

火村は校舎の大時計を見上げた。5時半。

電車に、乗り遅れちまう。

5時45分発を逃したら、次は1時間後。はぁ、とついたため息はどうやら男子生徒らには他の意味に取れたらしく、いかにも頭の悪そうな言葉で火村を挑発しようとする。しかし、そのどれも彼を奮い立たせるような効果は持たない。どちらかというと、彼らへの軽蔑をいっそう深めるほうに働いた。

くだらないと思いながらも、この場を切り抜けるには相手を打ちのめすしかない。

フェンスにもたれていた彼は、学生服のポケットに突っ込んでいた両手をゆっくりと出した。火村の動きに男子生徒らは過剰に反応する。それが可笑しくて、火村は口元だけで薄く笑った。
上級生といえども、中学生。体格差はあまりない。もっとも、問題児諸君は矮小な自らをかくすような行動ばかりなので力のほうはないも同然だった。
火村は何度か頬や腹部に衝撃を受けたが、さしたる痛みも感じない。むしろ逆に男子生徒らのほうが、火村の一見華奢な体からくりだされる攻撃に驚愕していた。数度殴られただけで簡単に地面に伏せる者、火村が目潰しにと砂を掴んで投げれば簡単にひるむ者、鼻血を出して顔を青ざめる者、関節をひねられて情けない声を上げるもの、もう一人は、無残な仲間の姿を目の当たりにして完全に逃げ腰になり、最後は5人仲良く退散して行った。

「くそっ」

彼らの姿が完全に見えなくなると火村はガシャンと音をたててフェンスにもたれ、そのままズルズルと地面に腰を下ろした。
痛みがないわけではない。複数人を相手にして、ああやって撃退しただけでも彼にとっては大功績だった。殴られた頬、蹴られた腹部、ほかにも、体中が痛みをそれぞれに訴えている。痣になりそうなものもあるかもしれない。苛立ちを隠せないように彼は長い前髪を掻き揚げた。今から走れば、間に合うかもしれないが、この状態ではそうもいかない。なにより、彼の制服は血と泥にまみれていた。変に人目につきたくもない。

日が沈むのをぼんやりと眺めていた。遠くから運動部の掛け声や体育館でバスケットボールが床を叩く音が聞こえてくる。目を閉じて、もうしばらくこうしていたいと彼は願った。

彼のほうに人の気配が近づいてきた。自分に声をかけるような人間はそうはいないから、彼は目を閉じたままやり過ごそうとした。
しかしその人物は彼のほうへと歩み寄り、1メートルほどの距離をあけて立ちどまる。火村はさすがに目を開けて、夕日を背後にたたずむ人物を見上げた。

「強いのね、喧嘩」

一瞬目がくらむような光が火村の視界をうずめた。眉をよせてやり過ごしていると、人物は彼の目線に合わせるようにしゃがみこんだ。短いスカートを気にすることもなく彼女は血の滲んだ火村の口元を冷たい布(それは塗れたハンカチだった)でぬぐった。

「冷た……あれは喧嘩じゃねえ」

「しゃべんないでよ」

火村はむっとして相手を睨んだ。同学年の女子、それも、見たことがある。主席だからだ。山田花子。制服のスカートは短くて、睫には黒いマスカラがそれとなく塗られているのに、そんな素行の悪さなのに、一度たりとも主席の座から転落したことのない彼女。

「喧嘩じゃないなら、なによ」

ハンカチを時折折り返しながら、今度は火村の左手をとって拭いた。

「からまれたから、相手しただけだ」

普段は口数の少ない彼女の唇には薄い桜色のリップクリームが塗られている。

「そういうの、喧嘩って言うんじゃない?」

ある意味、こういうやつのほうが問題児なんだろうな。火村は捉えられた左手を見つめて押し黙る。

6時。

自由なほうの右手を使って、火村は制服から煙草とライターを取り出した。片手で器用に一本取り出すと、ライターで火をつける。

彼は、軽くむせた。
山田はふふと笑った。

「馬鹿じゃない?」

そうして彼女は何か言いかけた火村から手を離して、自分の制服のポケットから煙草を取り出す。火村のセブンスターとは異なる、ハードボックスのキャメル。
火村は、もちろん驚いていた。彼女が煙草を吸うこと、その姿が様になっていること、さもおいしそうに煙を吐き出すこと。

「音楽室から、見てたの。鮮やかなもんよね。惚れ惚れしちゃった。でも、音楽部員が来たから、追い出されちゃって」

彼女は校舎の3階の窓を指差した。今そこからは軽やかな合奏が聞こえている。
山田は突如饒舌な中学2年生に変わり、火村と並んで夕日のほうを見つめながら続ける。
時折煙草を咥えるので、会話は中断されるが、それでも彼女は話し続け、煙草がほとんど灰になるとポケットから携帯灰皿を取り出し、そこに吸殻を捨てた。小賢しい女だと、火村は感じた。

「で、どうせなら火村君にこれあげようと思って」

煙草を取り出したほうとは別の、カーディガンのポケットから何かを取り出し、彼女は火村の顔を覗き込んだ。

「ハッピーバレンタイン?傷口はちゃんと消毒しなさいよ」

彼女は去っていった。

彼の手に小さなキャラメルを一つ、唇にやわらかい感触を一つ、それぞれ落して。

「……今ので消毒できたかもな」

20070211