頭をうずめたまま、あたしは大きく息を吸い込んだ。忘れないように。
カーテンは閉めているけれど、遮光機能が不十分なようで部屋の中がぼんやりと明るい。車が走る音、子供の声、はるか上空を飛んでいく飛行機のエンジン音。いろんな音が耳の中に届いていた。かけっぱなしのステレオから交通情報が届く。あの人は、渋滞に巻き込まれてはいないかしら。考えたところで事実は変わりはしないのに、午睡から覚めたあたしは薄く開いた口元に嘲笑を浮かべた。
いつも日付が変わるころに彼は帰ってくる。あたしはシングルベッドの中でまどろみながら、彼が手を伸ばすのを待っている。
「ただいま、花子」
そう言って彼はあたしの髪を撫ぜる。心地よくて、あたしは小言を口にする間も無く深い眠りに落ちる。まるで彼は、そうすることであたしが意識を手放すのを知っているかのようだ。
実際、そうだったのかもしれない。あたしが黙り込んでしまえば、愚痴なんて聞かずに済むから。疲れてるものね、いつも。
2つ年上の彼は、年齢以上に考え方が大人びている。職場の人の影響かもしれない。あたしは置いていかれないように必死なのだけれど、どう頑張っても彼には手が届かない。待って。それすら言えない。あの人は、きっとあたしを置いていってしまう。わかるんだ。言葉にして言われたことはないけれど。彼はあたしには見えないどこかを見ている。其処に向かって走っているんだ。
「あたしと仕事、どっちがだいじなの?」
働く男の人に、絶対言っちゃいけない台詞だって、テレビかなんかでゆってた。なにそれ。じゃあ女は一生我慢して男を支えなきゃいけないってこと?わかんないよ。だって、一緒に幸せになりたかったんだ。そう思ってたのに、あたしはいつのまにかあなたを優先させるようになってた。好きなら、それでかまわないと思う。魂をささげられるような恋ができるのは、きっと幸せなんだと思う。
けれど、これは、単なる意地なんだ。あたしのことを顧みないあなたへの。
「恵一」
最近じゃ、あんまり顔もあわせなくなったから、名前を呼ぶこともなかった。口にだしたら、余計に哀しくなってしまって、あたしは抱きしめていた枕に、すっぴんの顔をこすり付けた。自分がつかってる香水の匂いと、恵一が使ってるヘアワックスの匂いが染み付いていた。
今夜、この部屋を出て行こう。
小さなトランクに荷物をつめて、出て行こう。書置きなんか残したら、昭和のドラマみたいで素敵じゃない。それならいっそトレンチコートなんて着たりして。どんな言葉を残してく?“さようなら”?“お元気で”?“ありがとう”?なんでもいいや。たった一度、一緒に旅行に行った先で買った、あの便箋を使おう。でもきっとあなたはそのことに気づかない。それでいい。
きっとすぐに、あたしはあなたの中から消えてしまうから。
「花子はかわいいね」
「似合ってるよ、そのスカート」
「これ美味しい、花子が作ったの?」
「好きだよ」
やめて頂戴。私の記憶の中でこれ以上暴れないでよ。
あなたの声も髪も手も全部忘れることは簡単なのに、この匂いだけは、きっと
一生忘れない。
***
久しぶりに、仕事を早めに切り上げて帰宅した。8時だというのに、部屋に灯りがともっていなかった。まさか、花子が寝ていることはないだろうと思ってドアを開けて電気をつけると、真っ白のテーブルに、小さな青い紙と半分ほど使われた香水が置かれていた。カーテンは開いたまま。部屋の中は軽く片付いている。便箋には、見慣れた小さな字で―
“おかえりということばを、もうかけることができません”
なぜか、驚かなかった。こうなることがわかっていたとは言えないけれど、彼女が涙一つ流さずに出て行く用意をしている様は簡単に想像できた。小さなトランクに、必要なものだけつめて。化粧品・洋服・好きだった本。きっと、出て行くときに玄関先で“バカ”なんて悪態をついたんだろうな。思い浮かべても苦笑いしかできない。俺にたいしてなのか、それとも。
便箋には香水が吹き付けられていて。
残り香は、俺に喪失感を味わわせるのに、十分過ぎた。
20061027