ソロモン海域でつかまえて!



Vol.6 “最強”の涙

 そうして、アナベル・ガトー大尉はソロモンへと向かう便の中に居ました。
 久々に身にまとうノーマルスーツに息苦しさを感じますが、居心地の悪さはそれだけではないのでしょう。

「こうして宇宙に出るのは、初めてかもしれない」

 彼の隣には、ジェーン中佐の姿がありました。





 ジェーン中佐としては、あの時にすっぱりと、ガトー大尉と別れてしまいたかったのでしょうが、気を遣ったドズル中将により、ソロモン視察の任が与えられているのです。まさにありがた迷惑。と、一概にも言えません。ジェーン中佐も、心の奥底では一秒だって長く、ガトー大尉と一緒にいたいのですから。
 一方ガトー大尉はというと、ジェーン中佐の“想い”にうすうす推測はついているものの、まだ断定するまでには至りません。あの日から二人の間にはきまずさのような空気が張り詰めています。
 ガトー大尉は、互いの想いに確信が持てないことにより、距離感をつかめず。
 そしてジェーン中佐は、懸命に自分を殺しているのです。

「ソロモンには、いつまで?」

 ムサイの中の一室、パネルに投影された宇宙の光芒を見つめながら、ガトー大尉は先に沈黙を破りました。

「さぁな」

 ガトー大尉とは別の光を見つめていたジェーン中佐は、そっけない、返事とも呼べぬ返事をするのみ。
 再び訪れた沈黙に軽く溜め息をつき、足を組み替えながらジェーン中佐は眉をひそめるのでした。
 並んで立っている二人の視線は交わることなく、ほぼ平行にパネルの景色を見ています。映るのは、なんの変化も無い宇宙です。

「何を命じられるかわからないが、終わればすぐに本国へ戻る」
「それが、いいと思います」

 突き放すような言葉に一瞬ぎょっとしたジェーン中佐が顔ごとガトー大尉を向きます。彼女の眼に映ったのは、瞼をゆっくりと上げながら口を開く、彼。

「ここは、戦場になるかもしれませんから」

 それはジェーン中佐を案じての言葉、それがわかるからこそ、彼女は視線を元に戻して項垂れる。
 ムサイの航行音だけが変わることなく響いていた空間、微動だにしない、できない二人に変化が訪れました。
 肩を震わせるジェーン中佐にガトー大尉が声をかけると、彼女は隠すように顔を背けますが、ガトー大尉は、白い頬に一筋、流れる雫を見逃すことなど到底出来なかったのです。

「ダメだ……わ、笑って見送ろうと、思っていたのに……」
「中佐、」
「無理だ、一体、どこのだれが、愛する男が戦場に行くのを、わ、……心から笑って見送れるものか……」
「――中佐、今……」
「え?……あ!!」

 はっと気づいたときには彼女の想いは空気を震わせ、ガトー大尉の鼓膜も震わせていました。
 もう戻りはしない言葉を口の中に再び閉じ込めようとして、ジェーン中佐は両手で口を覆います。

「違う!今のは――」

 徐々に赤くなっていく頬。不意に交差した想いに気をとられているガトー大尉に、ジェーン中佐は弁解の声を荒げました。

「聞かなかったことにしてくれ!」
「それは、無理です」
「……なら、なんとか言わないか」

 相手の気持ちに確証の持てないジェーン中佐は、顔全体を覆い隠してか細い声で呟くのでした。
 いっそ、はねつけられた方が楽になれるのに。なのに、心の奥では彼も自分と同じ気持ちではないかと思っている、そうであることを願ってしまう。言葉にならない感情が、蛍光灯の照らす部屋を満たしています。
 それを、そんな彼女を後ろから優しく抱きしめるガトー大尉。びくりと震える体。

「同じです。中佐。私も同じ、気持ちです」

 腰に回した手にぐっと力を込めて、言葉以上に態度で想いを伝えようとするガトー大尉の鼻腔に、甘いシャンプーの香りが届きました。誰だって使っているような物の匂いがやけに官能的に脳髄を刺激して、彼はこのまま一線を越えてしまいそうになる自我を、こらえているのが精一杯でした。

「放せ……」
「嫌です」

 抑えるだけでギリギリの肉体をコントロールできているのか、定かではないのでしょう。力を込めれば砕けてしまいそうな細い体を両腕に抱きながら、意識だけがそれを知覚していない状態。もっと強く抱きしめなければ、俺には何もわかりやしない。そんな叫びが、虚空に何度も何度も渦巻いていきました。

「……上官命令だ」
「あなたは私の上官ではなくなったでしょう」
「いやだ……放して……!こんなこと、されたら……余計に辛くなる。抜け出せなくなる。本国へ、帰れない……」

 再び涙の流れるままに、大きく頭を振ってジェーン中佐は抜け出そうともがくのですが、本心からでない行動には何の力があるというのでしょう。
 髪に顔をうずめ、匂いも肌触りも感じるままの全てを記憶しようとするガトー大尉は、苦しげに二の句を紡ぎだします。

「……それならそれで、いいと思えるんです」
「ガトー……」
「正直に言えば、放したくない。ずっとこうしていたい。けれど……」

 顔を上げ、指先で探るようにジェーン中佐の涙を拭うガトー大尉の眼には、揺るぐことの無い信念という名の光が宿っていました。

「自分は、公国の軍人です。戦わねばなりません。戦って――戦うことがあなたを守ることに繋がるのなら、この身が露と消えても」
「嫌だ!」

 これまで以上の力で、ジェーン中佐が腕の中から抜け出し、一瞬向き直った後にガトー大尉の胸元に飛び込みました。
 華奢な肩に手を添えると、まるで自分までもが震えているように感じるガトー大尉は、彼女が何を思い涙を流しているのか予想がついていました。
 お互いに、考えていることがわかっているからこそ、どうしようもない時というのはあるものです。一番正しいことと、そうしたいと願っている内容がかけ離れすぎている。泣いてどうにかなるものなら、川だって海だって出来るくらいに泣いてやると、ジェーン中佐はその時、考えていました。

「勝利も、独立も、何もいらない……あなたが無事でいてくれたら、それだけでいいのに……」
「中佐、」
「それだけが願いだったのに……だから、本国に、手元においていたのに……」
「ジェーン……」
「約束、約束だ……」

 涙でぐしょぐしょの顔と、遣る瀬無い顔が向き合ったその一瞬は、本当に一瞬だったけれど、永遠でした。

「絶対に、生きて帰るって約束、して」
「わかりました」
「守らなかったら……私、わたし……」
「帰る。絶対に、帰る」


 彼らの顔が近づきはじめると、私は意識を彼らの周囲から遠ざけました。
 今以上の辛い思いをさせるわけにはいかない、させたくない、したくないと思っている彼らを意識で捉えていながら、彼女が戦後、喜びの涙を流すことは無いだろうと、私は――何故か確信していたのです。
 宇宙世紀0079の、ある春の日の出来事でした。

20090315