『強い風を伴う台風14号は、23日未明に本州に上陸する見込みです』
最近スキャンダルで叩かれているお天気お姉さんの、いくらかけだるそうな声を聞きながら身支度を終える。テレビの端に見える時刻は午前9時7分。
外は風が強い。
そんなことは微塵も気にしないけど、髪をぐちゃぐちゃにされて学校にたどり着いたときには、雨が降り出していた。
どうやら皆台風にかこつけて今日は休むようだ。
人よりも早く学校に着く癖のある僕は、ちょっとブルーになる。
9月頭の体育祭に向けて、僕は(本来ならば僕らは)応援席の後ろに立てる大きなパネルを描いている途中だ。体育祭の途中で、まるで結婚式のお色直しのように新しい絵に変わるから、その分僕らの負担も増える。
誰が決めたのかしれないけど、今空き教室の床に敷き詰められた用紙には、日本画で有名な風神と雷神の下絵が描かれていた。
この上から塗料でベタベタと塗っていく。これは別に、パネルのメインディッシュではないから、今日僕が一人で仕上げても感謝こそすれ責められはしないだろう。

緑色の塗料を平たい皿に出して、酷使してガビガビになりつつある刷毛をその中で慣らしていく。
滑らかな感触を楽しんでいる間も、雨は酷くなっていった。

「酷い目にあった!」

僕が風神の体を塗っていると、ドアが勢いよく開けられた。そこにはずぶぬれになった、クラスメイトの山田さんがいた。
あまりの惨状に僕が何も言えずにいると、彼女は束になってしまった髪をひとまとめにしながら愚痴を言った。
「傘が折れちゃって、おかげでこのザマよ……」
スカートの裾からも水が滴り落ちている。これは酷いな。
「大丈夫?着替え、ある?」
「うん!体操服持ってきてるから!」
僕も制服が汚れないように体操服を着ている。元気いっぱいに笑ってみせる彼女は鞄から体操服を取り出すと、着替えてくると言って出て行った。
僕はその間に、雷神の肌の色を混ぜて作ってしまおうと思う。
白、黒、黄色、青、少しずつ足しながら、本物に近い色を出そうと苦心する。もっとも、本物は経年劣化のために今となっては元々何色だったのかわからないだろうけど。
山田さんは戻ってくると、紙を挟んで向かいに座り、マイペースに風神の持っている布袋を塗り始めた。
なんでそうなったのかはわからないが、難しいところは僕、簡単なところは皆が勝手に、塗るようになっている。
山田さんは、大きな刷毛で気持ち良いくらいに勢いよく、布袋の白を描き出した。

「雨、やまないね」

ペンキだらけになった手で山田さんは刷毛を投げ出した。受け止めた平皿が間抜けな音を出している。
さすがに飽きたんだろう。彼女は今、僕が作った色で風神の髪を塗っている。いつもなら他の生徒がいて、話も弾んでいるはずなのに、今日は口下手な僕しかいない。
「台風、来るからね」
「ね。もう上陸してるみたいにひどいね」
うん、と頷いた僕を、山田さんはじっと見ているようだった。雷神の太鼓を塗っていると、そういえば今日の天気そのものな絵だなと思う。完成に近づいていくにつれて酷くなる外の天気は、とうとうガラス窓を揺さぶるようになった。
「帰れるかな」
立ち上がって窓の外を見ていた山田さんが呟いた。
僕は彼女を見上げる。
びゅうびゅうと風が吹いている。部屋の中は息苦しいくらいに、塗料の匂いでいっぱいだ。
僕は三島由紀夫の『潮騒』を思い出していた。
主人公が、想いを寄せ合っている女の子と、台風の日に逢瀬をする場面。
僕らの関係はそういうものではないと思うけど、客観的な状況だけは似ていると思った。
「花京院君」
彼女は僕に向かって笑いかけた。
『その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら』
やっぱり、そこにあったのが焚き火だったからあの作品は、あの場面はすばらしい。
僕らみたいに、手垢のついた広い用紙が間にあるのでは、色気も何もない気がする。
「私もそっちに行って良い?」
ぎくりとした。
彼女はきっと何の気なしに言ったんだろう。それくらい僕にだってわかっているはずなのに。
視線を落とすと、風神と目が合う。
この部屋の中も酷い台風が吹き荒れている気がした。



Typhoon / 松任谷由実 Covered by Port Of Notes