真珠層



あの人のことが気になってしょうがない。
その事実を、自分自身の心を、認められないでいる。


「ちょっと中尉、わたしはまだ……仕事が残って、」
「ンなもん明日片付けりゃいいじゃねぇか」
「今日中に終わらせなきゃいけないから言って、」
「いーから!」

強引。
という一言で片付けられないような無理強いを施された腕が痛い。
真っ赤なボディの、バイクと言っていいのか、民間用の乗り物には詳しくないのでわからないけれど、わたしは二輪車が好きじゃないのよと言うと、「だったらこれから好きになりゃいい」なんてにべもない言葉を返されて、呆れて口も聞けない。
というか、乗せられるや否や猛スピードで走り出したものだから、口を聞こうものなら舌を噛みそうで、彼の背中に必死に捕まっているしかできなかったというのが正しいのかもしれない。
風をはらんだ白いシャツが、夕陽を受けて橙色に染まっていく。
ただただ、眩しかった。


もっと誠実で素敵な男の人はたくさんいるはず、ううん、いるのに、どうして彼なのだろう。
口角の上がった薄い唇から飛び出す女の子の名前は両手両足の指を総動員しても足りないくらい多くて、今でだってそうなんだもの、きっと今までに“お付き合い”のあった女の子なんて星の数ほどいるに違いなんだわ。そんな、考えるたびに虚しくなるようなことばかり考えて、それからわたしの境遇を思い遣って、本当に泣きたくなる。ろくすっぽ、男の人とお付き合いしたこともないんだから。
ルーシーだって言ってたじゃない、「アンタのことだからないとは思うけど、本気にしちゃダメよ?」、って。
そうよ、最初は本気になんてしてなかった。
どんな甘い言葉だって社交辞令かお世辞かそのあたりだって言い聞かせてたのに、いつからかあの人が別の女の子と話しているのを見ているとどうしようもなく辛くなる。
基地の通路ですれ違った女の子が意味ありげな目配せをしているのを見てしまったり、ぽうっと夢見心地みたいな顔をして話し込んでる子を見ちゃったり。
今だってそう。
無理矢理人を浜辺まで連れ出しておいて、見てるのは夕陽でも水平線でもない。

「やぁっぱ夏だよな。薄着の女神がたまんないね」

どうせわたしは年がら年中野暮ったい軍服しか着てませんよ。
飲み込んだ言葉が喉と胸につまって苦しかった。
襟に張り付いた大尉の階級章が心底憎い。
こんなものなかったら、もっとかわいらしくなれてたのかしら。

「昼間に着てりゃあ、水着も見れたかな……」

なんなのかしら、嫌がらせ?
どうしてわたしを連れてきて、そういうことばっかり言うのかしら。
浜辺を歩く旅行者風の女の子たちは、熱帯の花のよう。裾の長いワンピースとか、逆に目を逸らしちゃうくらい短いスカートを履いてたりして、女のわたしから見ても華やかで綺麗。
地味なベージュの軍服をかっちり着たわたしは、どう見たってここじゃ浮いてる。
情けない。
恨みがましい言葉を吐いたり、睨み付ければその分余計に惨めになりそうで、長い袖に包まれた二の腕をぎゅうと握り締めてやり過ごそうとした。

「なぁ、持ってきてねぇの?」

振り返った彼の背後に夕日が差している。もうすぐ水平線に飲み込まれていく大きな恒星を直視できなくて、いっそ今すぐに地球に帰りたいと思ってしまった。
エデンの夏は、地球の、私がいた国のそれよりも、温度も湿度も高く、そして長く続く。

「……何を?」
「服。私服のこと」

いたたまれない私が何も言えずに黙り込んでも、彼は何も言わなかった。
つれてきていることを後悔するくらいなら、最初からこんなことしてほしくなかった。
いつか今のように他の女の子に目移りされるくらいなら、最初からたった一人の特別な存在になんてなれないのだとしたら。

「帰ります」

踵を返して歩き出した私を、彼は一瞬遅れて追いかけてきた。
問い詰めたりすることもなく、発した一言は「送る」 それだけ。
だったらなんで連れてきたのって、私だって言いたかったはずなのに言えなくて、情けなくって泣き出しそうなのを必死でこらえて、
「いらない」
それだけ言い放って、絶妙すぎるタイミングで通りがかったタクシーに乗り込んだ。ほら、周りだって私に『やめとけば?』って言ってるみたいじゃない。
こんな惨めな気持ちじゃどこへもいける気がしなくて、基地に戻って仕事をしようと思った。私にはそれしかないのだから。


私の執務室は、与えられた階級にそぐわないほどに豪華だ。
何せ完全に個室のようになっていて、しかも広い。前任者が退役間近の老将校だったせいもあるだろうけど、なんだかそれはまるで閑職なのだと、必要なんてないんだといわれているようにも思えた。
今日終わらせることのできなかった仕事を全部片付けてもちっともすっきりしなくて、手当たり次第に書類に手を伸ばした。
深夜3時を回ったころからだんだん捨て鉢になってきているのが自分でもわかり始めて、もしも5時までに、夜明けまでにやれる仕事を全部すませたら、地球へ帰還する希望を出そうと思った。
そして軍も抜けて、ひっそりと静かな土地で暮らすのも悪くないかもしれない。
こんなに暑い夏が来ないような、針葉樹林の生い茂る土地で起伏のない人生を送る。
それが私に似合っていると思う。
原色の鮮やかな季節が、嫌いになり始めていた。


「終わらなかった……か」

5時25分。ブラインドを開けると、まだやわらかい色の朝日が差し始めている。
さすがに眠気と疲労感に襲われている体を伸ばしながら、やっぱり未練があるんだって思うと笑いがこみ上げた。
終わらなかったんじゃなくて、終わらせることができなかったに違いない。
きっともうどうしようもなく好きになっているから、ちょっと逃げ出そうなんて思ったところで無駄だったのね。
だけどどうしたってかなわない恋を抱え続けるのはつらい。わかっていたから本気にならないようにって思っていたのに、どうしてこうなってしまったんだろう。
滲んできた視界を隠すように顔を手のひらでこすり、脱いだ上着を椅子にかけて、シャワールームへ向かうことにした。
仕事もだいぶ片付いてるし、今日は……ううん、明日も明後日も非番にしてもらおう。

「久しぶりに買い物もして……」

独り言に打ちのめされたような気がした。
着る予定もない服のことを考えて、それって一体誰のため?って自問してみる。
かわいらしいとか綺麗だとか、そういう言葉が似合うようになれないのは自分が一番わかってるはずなのに。
胸を圧迫するような重い空気を一気に吐き出してドアのロックを解除して通路に出ると、温度低めの冷房が肌を刺す。
でも、それよりもずっと私を驚かせることがあった。

コーヒーが入っていたと思われる紙コップが4つ、床に散らばっている。
ところどころには茶色いシミまでできていて、まるで投げ捨てられたかのよう。
そしてそれをした本人と思われる、へたり込んで動かない大きな影。

「ダイソン中尉……?」

早朝の基地にはまだ誰もいない。警備の兵だって仮眠をとっているのかもしれない。
そんな、二人だけの通路に私の声はしばらく響いていた。
彼は寝息を立てているのか、ぴくりとも動かない。
ここで何をしているのだろうか。
ひょっとして、私を待っていたのだろうか。
それならどうして部屋から出てきたのに気づかないんだろうか。
と、そこまで考えて、健気なふりして所詮は彼、その程度なのよって、失望しそうになる。
このまま知らんふりして、立ち去ってしまおうとしたそのときに、

「仕事……終わったのか?」

寝ぼけた声に引き止められて、理性がとめるのもむなしく私の顔はそちらを振り返ってしまった。
ぶつかった視線はとろんとしていて、時々『まるで少年みたい』といわれる彼を、ますます子供っぽく見せていた。有体に言えば、かわいらしいということなのかもしれない。あるいは、母性本能をくすぐる?
ともかくそんな二つの眼にじっと見つめられて、私はいつかのように何も言えずに立ち止まっていた。
やましいことも何もないのに、胸元で片手を握り締めた。揺さぶらないでほしいのに。

「なぁ…………あ!」

何か言われるのが嫌で、というより、何を言われるのか予想がつきそうだったから逃げ出してしまった。
走り出した私の頭の中で、『お堅い』とか、『重い』とか、言われちゃったらどうしようなんてことばかりぐるぐる回り始める。別につきあってるわけでもないのに、自意識過剰もいいとこ。
とうとう熱くなってきた目頭をこすろうとしたとき、やはりデスクワークメインの私はパイロットの彼に追いつかれてしまった。ろくに睡眠をとっていないだろうことは、彼だって同じはずなのにずるいと思った。
昨日の夕方よりもしっかりつかまれた手首は昨日よりもゆっくりと引きずられ、執務室の前で立ち止まった。

「中、入ってもいいだろ」

ロックを解除できるのは、部屋の主である私か、基地主任だけだ。

「……何するつもりなの」
「別に、」

彼は鼻をかいた。そんな仕草もまるで十代前半の少年のようだった。

「取って喰おうってつもりはねぇよ。話がしたいだけだ」


招き入れて“食べられて”しまったところでそれでもいいと思った。どうしてそう思ったのか、自分でもはっきりしない。疲れているからきっとさっさとどうにかしたいって、そう思っただけかもしれない。
けれど彼は部屋の中に入るとすぐに私の手を離した。

「悪かった」

そうして頭を下げている。
呆気に取られていたのもつかの間で、私は彼のそんな姿を見ていられなくて顔を背けた。泣いているのを見られたくなかったのかもしれない。

「どうしたらアンタにわかってもらえるのかわかんなかったんだよ。あんなに口説いたって見向きもされねぇし、ちょっと他の女と仲良くしたって別に何を言うわけでもないし」
「何よ、それ……私が、悪いって言うの?」
「ちが、……そうじゃねーよ」

ため息をついているのが呆れているように見えた。こんな卑屈でネガティブな自分が嫌だし、どうにかしなきゃって思っているのにいつまでも意固地になっているのが子供っぽくて、本当は彼のほうがずっと、大人じゃないのかって思い始めていた。

「信じらんねぇかもしれないけど、俺はアンタに本気で、本気なんだけどやり方が悪かった。
……なんつーか、本気だからこそどうしたいいのかわかんなかったっていうか…………
ま、どっちにしろ見苦しい言い訳だし、アンタに迷惑かけたのは、俺だって反省してんだ。忘れてくれなんて都合のいい言葉だけどさ、そのほうがいいか――」
「本気なら、」

振り返っても、彼の顔を見上げることができなかった。
朝日が私の影を、彼の靴の上に落としている。

「そ、そんな言い訳じゃなくて、ちゃんと言うとか、その、態度で……」

かあっと顔が熱くなっていくのがわかった。自分がこんなこと言うなんて想像もつかなかったし、言ってることがてんで的外れなんじゃないだろうかって思いもあった。
けど、このままどこかに行かれてしまって、全部終わり(始まってもいないんだけど)になっちゃうなんて、絶対に嫌だった。
でも自分からこんなこと言い出すなんて正直、恥ずかしくてしょうがない。気持ちをあらわにしたのも初めてで、さらけ出す必要のないことまで筒抜けになっていそうだったから。

「………………そんなこと言われると本気になるぜ?」
「さっき本気だって言ってたの自分だったじゃない……」
「あ、顔真っ赤」
「こっ!……ちが、これは!ちょっと、見ないで!」
「ヤダね。かわいいから見る」
「中尉!」

ばっと顔を上げると、ニヤニヤしている彼の腕にからめとられた。オイルのにおいがする。19のせいなのか、バイクのせいなのかわからなかった。

「そういう呼び方やめようぜ?ジェーン」
「は、放して!ちょっと、もう!」
「放してなんて言って、“もう放さない”とかそういうことだろ?ジェーンは天邪鬼だし」

そんなこと思ってない!
というのはまるっきり嘘になりそうで、見透かされているのがやっぱり少し怖くて、結構恥ずかしくて、でもなんだかとても幸せだった。
空調の効いた部屋の中で感じる、誰かの体温の高さは心地いいってことを、今日初めて知った。
徹夜明けの体のせいで、まるで眠りの中に包まれていくあのふわふわした心地よさみたいなものにも思えた。
朝日がまぶしくて目を閉じるのと同時に、私は彼の、例の白いシャツの裾を掴んだ。

20110821

以前にご感想いただきました、例の100題作品での二人のつもりで書いてみました。そして書くつもりだった中篇のストーリーを中途半端にねじこんでみたり……。
イサムを相手にするには本気にしちゃイカンような気がしますが、イサム自身も本気になることを意図的に避けているようなイメージです。
どんな女の子ならばイサムをつなぎとめておけるのか!と、いろいろ考えてみても答えがでません。恐ろしい男です。
ところでマクロスプラスは見れば見るほどエデンの風と空の美しさがたまらんアニメですね!しかし砂浜はあったかしら……。なんにせよドッグファイトの描写も曲も含めて三本の指に入るくらい大好きです。俺、今度19のキット(積みプラ)作るんだ……
曲うんぬん言ってますが作業用BGMは『二億年前のように静かだね』でした!あとマクロスFにイサム出てるってマジすか。ナイスミドルイサム、ゴクリ。

リクエスト、ありがとうございました!