迷夢を覚まさせる



彼女は時折、ふっと一週間ほどの『家出』をするらしい。
行き先はいつも決まっていて、というより、家人にも知られている。
自家用車でなら二時間ほど、電車とバスを乗り継げばゆうに四時間はかかる、彼女の祖父母の家だそうだ。
大体毎年夏休みと冬休みと春休み、要するに長期休暇の間で一週間の『命の洗濯』と言わんばかりの滞在をするのが彼女の年中行事らしい。
そこまで筒抜けで、いわば儀礼化していては、それは家出というのだろうかと琉夏は怪訝な顔をしたが、
「あの子にもいろいろと思うところがあると思うの」
結局のところ困ったように笑う彼女の母親とおおよそ似通った感想を抱くのだった。

昨日のことだった。
いつになったらこのやかましい蝉は鳴き止むのだろうかと、かなりげんなりしながら彼は寝返りをうち、同じようにいつになったら暑さはひいてくれるのだろうかと考えて、とうとうまとわりつくようなけだるさを跳ね除けるように彼はベッドから飛び起きた。
携帯電話を開いて、女友達の中では一番親しい花子の番号を呼び出す。女友達の中では、と言ったものの、彼が自らすすんで遊びに誘う異性は彼女だけだし(ちなみに他の女子からは誘われても適当にいなすばかりだ)、ここのところは同性のクラスメイトと遊ぶよりもその頻度は上がっていた。
クラゲが出るのを覚悟で海に行くのもいいかもしれない。嫌がられたら、水族館はどうだろう。イルカのショーなんて、あの子は心から楽しんでくれそうだ。
そんなことを考えながら、はやる心を抑えて呼び出し音を数える。
が、彼女は出ない。
どころか、かけなおすと電池切れだか圏外だかを伝える無機質なアナウンスしか聞こえない。
どうしたことかと思いつつも、今は都合が悪いのかもしれないのだと自分を納得させ、都合がいい日を訪ねるメールだけを送信しておいた。
我慢することは苦手な方だから、即座にレスポンスが返ってくる電話のほうが好きだ。メールの文面は、作られたうわべだけの文章のような気がする。返信されるまでに時間がかかったりすると、余計にそう感じてしまう。
再びベッドに横になり、取り留めのないことを考えているうちに琉夏は午睡に陥ってしまい、ヒグラシが鳴き始めるころに目を覚ましたものの、そのときになっても、また、一日たっても花子からの返信も着信もなかった。


視線の先、アスファルトが続く道路に陽炎が揺らいでいる。金属が溶けた水溜りのように見えるせいで、小さいころはどうして行けども行けども水溜りに遭遇しないのかと不思議に思っていた。
そんなことを思いながら、右手首をひねって速度を上げる。もうずっとギアはトップに入ったままだ。
夏のツーリングは景色こそいいものの、直射日光と路面からの照り返しに始まり、両足の間から立ち上るエンジンの熱気だとか速度を上げても生ぬるいままの風だとか、過酷と言っても過言ではない。

『アイツはいい子で、みんなに気を遣うタイプだけど、だからこそ色々考え込んだりするのかもしれないな』

自分とは正反対に、自虐的に言ってみれば『人間の出来た』彼女だって悩みを抱えているのだろう。
時々どこかへ逃げ出したくなる気持ちというのは、琉夏にだってわかった。
まさかその原因が、『ワル』の幼馴染のせいだったとしたら。そう考えると口の中に苦味が広がるような気がした。
ほんの今しがたまで、自分だって彼女の悩みを聞くくらいはできるだろうに水臭いものだなんて考えていたから、琉夏は自分の『思い上がり』の可能性に気がついたのだった。



「コウくんが怒ってたよ。“アイツまた勝手に単車持ち出しやがった”って」

花子はなんともいえない表情だった。
曰く、先ほど琥一からかかってきた電話で琉夏がこちらに来ていることを知り、詳しい場所もわからないだろうからとそのあたりをふらふらと歩いていたとのこと。
ちょうど琉夏が舗装された道路から、農道というか畦道というか、走り心地のよろしくなさそうな道に入るのをためらっていたときに花子とばったり出くわしたのだ。
その話を聞いた琉夏は、釈然としない。
どうして琥一からの電話は通じるのに自分からの電話はつながらなかったのだろう。メールも返してもらっていないし。
花子の歩調に合わせて押しているバイクがやけに重く感じた。

「いいんだ。たまには走ってバイトに行ってもさ、コウにとってはいいトレーニングになるよ」
「またそういう……あ、」

水色のワンピースの花子が琉夏の顔をじっと見つめる。

「メール、返せなくてごめんね。昨日は早く寝ちゃってて、朝起きてからも、どう言ったらいいかわかんなかったの」

信じていいのかわからなかった。
同時に、ここに来てしまったことを後悔しはじめていた。かといってこのままUターンして帰るのもカッコ悪い気がするし、負けたような気もする。
琉夏が黙ったままでいる横で、花子はやわらかい笑みを浮かべた。

「でもなんだか、ルカくんと会えてほっとした。ね、泊まっていく?」
「…………え?いいの?」

まったく予想していなかった台詞を二つ続けて言われてしまって、琉夏は動揺した。
いくら祖父母の家でも、男を連れ込むのはいかがなものか。逡巡する頭の片隅で、案外自分はモラリストなのかもしれないと自画自賛してもみる。
しかし如何せん、無計画にここまで来てしまったので安易に返答はできなかった。何しろ明日の夕方にはバイトに出なければならない。一泊くらいならどうとでもなるかもしれないが、

「俺がいるとゆっくりできないんじゃないの?」

花子がどういう理由でここにいるのかはわからないが、自分がいてもいいのかという疑念はある。
はばたき市からわざわざ脱出して、それも一人でここまで来ているのだから相応の理由があるに違いないと琉夏は踏んでいるのだが、真相は花子本人にしか当然、わからない。

「ルカくんがいても、わたしはゆっくりしちゃうよ」

いつもより間延びした声で花子が答える。
左右に広がる水田で、まだ伸びていく途中の青い稲穂が風に流されて漣を作り出していた。生まれ故郷の近くの光景に似ている。
何が悲しいわけでもないのに泣きたくなった。花子は、何が悲しいのだろう。
悲しんでいるのだといわれてもいないのに、そんな思いが浮かんだ。

「そっか」
「うん。……ねぇ、バイクどこかにおいていく?」
「なんで?」
「このまま散歩するから。重いでしょう?」
「いいよ、平気」
「そう?」
「……乗っけて行ってもいいけど」
「駄目。ゆっくりするって言ったでしょう?」

両手で目の上に庇を作って、花子は遠くを見ている。
大きな目は小さな手に隠されて見えないけれど、きっとまぶしそうに細められているのだろう。
琉夏も同じように遠い空を見上げた。石鹸を固く泡立てたような密度の高い雲が低いところにだけ集まっている。地面に接しているように見えたのは、きっと山に囲まれているからだろう。

砂利道を、100kg超のバイクを押しながら歩くのは思っていたとおりに重労働だった。貼りついた髪の間をかいくぐって流れていく汗が気持ち悪い。
気持ち悪いけれど、風が吹けば心地よかった。
ぬれたところがいっそう冷たく感じられるし、意識を集中させれば風そのものが冷たいようにも思えた。
朝晩に海から吹きつける潮風のような淡い清涼さではなくて、古木の洞を一巡りした後にさらりと駆け抜けていくような――言葉にするのは、難しいけれど。

そう、難しい。

『ルカくん、なにがかなしいの?』

花子の横顔は何もかもを拒んでいるように見えた。自分も普段はこんな顔をしているのだろうか。
琉夏は、やりきれない。
ざりざりと濁った音を立てながら車輪が回り、二人分の足音が一定のペースで追随する。

『オマエは、何が悲しい?』

一緒にいても花子は自分のことを何も聞かない。
それが、琉夏は嬉しい。
思い上がりもいいところだろうけれど、きっと自分たちはどこかで何かがつながっているような感じがする。
たぶんお互いにぼんやりとわかっているから、聞けないだけなんだろうと琉夏は思い込むことにした。
思い込みなのに妙に嬉しいような気がして、琉夏はほくそ笑んだ。
お互いに、ひとつずつ秘密があってもいいかもしれない。
花子はそんな琉夏に気づかないように、ひとつくしゃみをして、照れくさそうに鼻をこすった。
暑いのにくしゃみが出るときもあるよねと言い出せたら、いつもの二人に戻れるような気がした。
きっと花子も同じことを考えているに違いない。
草原よりも色濃い緑に、弧を描いて漣が揺れた。

20110903

意味もない話を書くのは難しいのだとわかっているくせに定期的に書きたくなるので困ったものです。
たまには琉夏も支える側になりたいと思っているんだよ的な話を書きたかったのにぐだぐだしてるだけでした。

リクエストありがとうございました。遅くなって申し訳ありません。