「俺の家に来て、できれば早朝に」

という、わけのわからない申し出を受けたときは、それこそ本当にわけがわからなかった。
けれどその後に続いた「洗濯洗剤持参で」 と聞いたらなんとなく想像がついた。
昔琉夏くんたちがWEST BEACHに住んでいた頃にも、似たような感じで呼び出されて雨どいの掃除やらを手伝わされたことがあった。ぶかぶかのシャツを借りて、泥だらけになりながら、夏の日差しの中よくがんばったと思う。琉夏くんは鼻の頭やら肩を真っ赤にしたけれど、数日ですぐに元通りになってしまって、逆に琥一くんは真っ黒に日焼けして、笑いあったものだ。わたしはちなみに、日焼け止めをしっかり塗っていたので日焼けなんかしていない。……そこまでは。

現在琉夏くんが住んでいる一軒家――見た目はよろしくなくても彼にとっては立派な牙城なんだろう――を訪れると、彼は玄関前から見える簡素な濡縁(琥一くんにせびって一緒に作ったらしい)に腰掛けてわたしを出迎えてくれた。
「おはよ。ごめんな、呼び出して」
「どうしたの?」
ちなみに彼の格好はタンクトップにハーフパンツ、髪は一つに束ねて前髪までヘアピン(わたしがなくしたと思ってたやつだ)で留めている。その上大きな団扇で顔を仰ぎつつ、足は水に浸かっていた。子供が庭先で遊ぶような、ビニールでできたプールの中に。
わたしの視線に対し、
「これ? バイト先の人が、子供が大きくなって遊ばなくなるからって、もらった」
そのバイト先の人も、大きくなった自分の子供より年嵩の人間がもらっていくなんて考えもしなかったに違いない。
「でももらってよかったと思うよ」
琉夏くんはホースも空気入れのポンプもつけてもらったと、本心から嬉しそうに笑った。なんだかんだでこの人のこういう邪気のない笑顔がわたしは好きなので、微笑返ししてしまうのだ。
「これで遊ぼうって言うんじゃないよね?」
「まさか」
鼻で笑い飛ばす彼は、では一体どうしてわたしを呼び出したのだろう。
首をかしげていると、彼はほんの少しだけ申し訳なさそうに、ちょっと上目遣いの憎めない顔をした。
「洗濯機、壊れちゃって」
§
琉夏くんが手に入れた洗濯機は、高校時代にフリマで二束三文で手に入れた古びたものだった。だましだましで使っていたのがとうとう壊れてしまったんだろう。
「修理に出そうかとおもったけど、給料日前だからお金なくってさ」
「……万事休す、だね」
お金がなくては新しいのも買えないし、コインランドリーも使えない。これが冬ならまだしも、夏だったのがなおさら運のツキだ。
けど、実家に帰って洗濯だけさせてもらえばって思ったらそうもいかないらしい。どうせプライドが〜とか言うに違いないので、わたしはそこには触れずにおいた。
「しかし! このプールの中なら洗濯もできる!」
「……ここで?」
「そうだよ。昔に帰るんだ。洗濯板はないけどな、足で踏み洗いすればいいだろ?」
「まぁ……できると思うけど……」
「ほらな。じゃあ、そういうわけだから」
言うや否や、琉夏くんは溜まりに溜まった洗濯物をプールの中に放り込んだ。どうせお金がなくて洗濯洗剤も買えないでいたに違いない、わたしの持ってきた液体洗剤を、キャップ三杯ぶんくらい振り掛けると、彼はプールに飛び込んだ。もちろん、足だけ。
「花子もやってみ? 冷たくて気持ちいいよ?」
ざぶざぶと琉夏くんが足踏みをするたびに、白い泡が大きくなる。入道雲みたいだ。確かにそれはとても楽しそうなので、わたしもサンダルのストラップを外してプールの中に飛びこんだ。
「わっ」
洗剤のぬめり、それからシャツか何かに躓いて、わたしは琉夏くんの胸元に倒れこむようにしがみつく。
「やだ、積極的」
「違うってば!」
なんやかやで支えてくれた彼の顔を見上げると、髪の生え際にうっすらと汗がにじんで、なんだかドキッとしてしまう。
それをごまかすように俯いて足踏みを始めると、ごぼごぼ、そんな音を立てながら泡がさらに大きくなっていく。
「ねぇこれ、洗剤入れすぎじゃないの?」
「そう? でも楽しいからいいじゃん」
「すすぎ残しがあったらにおいがつくんだよ?」
「マジ? じゃあたくさんすすぎもやんないとな」
そんな会話も足踏みしながらなので、なんだかとても間の抜けたものに思える。それに第一、琉夏くんはわたしの両腕を掴んだまま(転ばないように、だろう)なので、余計にシュールだ。
朝とは言っても夏なので、蝉が鳴くのも聞こえる。この家は木々も生えているから、蝉だっているだろう。随分近くから鳴いたり止んだりを繰り返す合間に、琉夏くんはこんなことを口にした。
「なんか、フォークダンス思い出した」
わからないでも、ない。
「懐かしいね」
「そういえば俺、花子とは三年間、毎回踊ったもんな」
「あ、ホントだ」
「すごくない? 運命だ」
「う、運命? 随分大きく出たね……」
そう言うと機嫌を損ねたのか、琉夏くんはむっとしながらわたしのおでこに、じぶんのそれをぶつけた。
「そうだよ、俺は運命だと思ってる。ずっと昔から」
「る、琉夏くん近い……」
ミンミンうるさい蝉も聞こえなくなるくらい。付き合い始めてしばらく経っても、わたしは全然、こういうことに慣れない。
逆に琉夏くんはお構いなしにくっつこうとするから、わたしは余計に離れようとする。
「花子は?」
「わ、わたっ……」
「言ってくれないとちゅーするよ」
「言わなくてもするでしょ!」
「うん」
言うや否やに唇が降ってくる。嫌だとかそういうわけじゃなくてわたしはのけぞってしまうから、自然、バランスを崩した二人がどうなるのかなんて自明だった。

「……」
「……ごめん」
プールの片側にしりもちをついてしまって、わたしも琉夏くんも下半身は水浸しになっている。
ごめんと謝られたけれど、わたしが謝るべきなんだろう。
「ううん、わたしがその、恥ずかしくって……避けちゃって……」
「じゃあもう一回ちゅー」
「……」
しれっとそんなことを言う琉夏くんに呆れて、ムキになって唇を突き出すと彼は笑った。
「ホント、オマエかわいい!」
「からかった! もう!」
「もう!」
わたしの真似をしてけらけら笑う琉夏くんを置いてプールから出ると、水を吸ったショートパンツがやけに重い。
「着替える?」
「ううん、持ってきてるし、洗濯が終わってからでいいよ」
琉夏くんはわたしの言葉にいささかがっかりしているようだった。こんなこともあろうかと、塗れても透けないように黒いシャツとデニムのパンツで来たのだ。
「琉夏くんが考えることくらいわかってるからね」
「え?」
きょとんとしたのもつかの間、彼はプールに身を沈めたまま笑った。
「……何笑ってるの?」
「ううん、そこまで理解してもらえたら、運命でもそうじゃなくてもいいやって思って」
手を差し伸べたのは、立ち上がるのを手伝ってもらいたいのかもしれない。
琉夏くんはわたしに理解されているようなことを言っていたけど、実際のところはまだまだ微妙なのだ。
この手を掴んだら、ひょっとしたらプールの中に引き戻されるかもしれない。そんな一抹の疑念がある。
でもわたしは、この夏のわたしは、それでもいいかな、なんてことを――思っていた。









後書
Thanks:mogueFile(photo)