「もういやです、こんなところ」

ジェーン・バーキンは潔癖だった。宇宙生まれの宇宙育ち、言うなれば無菌室育ちのような彼女が、彼女の言うところの「泥にまみれ悪臭漂う不衛生な土地」 である地球に滞在するなどということは、やはりどう考えても、彼女にとっては許されることではなかった。
最初こそ舞でも披露しているかのような足取りでぬかるみを避けていたジェーンも、いまや疲弊しきって足を引きずりながら消沈した顔で行軍している。そのうち覚束なくなった片足は、ヒルか何かが潜んでいそうな泥水の中に没していた。
「もういやです」
もう一度その言葉を繰り返すと、ジェーンは足を止めてしまった。泥水の中にはまってしまったのは、明らかに故意ではない。うっかり嵌ってしまった足は、どういうわけかそこから抜け出そうとはしなかった。
別段、泣き出すわけでもない。怒っているわけでもない。彼女の顔には虚無と呼ぶべき何かが張り付いていた。
「ジェーン、気持ちはわかるけれどこのまま遅れっぱなしじゃ今日中の帰還も難しくなる」
シロー・アマダは彼女を振り返り、歩みを再開するように促した。が、何の効果もない。ふるふると、まるで最後の力を振り絞っているように弱弱しく首を横に振りつつ、彼女は目を伏せた。
「もういいんです。そのうちジオンだって攻めてくるし、大体わたし、前線で生きていられるような女じゃないんです」
ジェーンは幼年学校から士官学校を経た、生え抜きのエリートだった。ジャブロー勤務が約束されている、将来の軍幹部がこんなところで泥と戯れているのには一応の理由がある。口に出してしまえば、「現場を体験してこいという一種の教育方針」 で片付けられてしまうものだが。卒業したての新兵である彼女が放り込まれたのは、地球連邦極東方面軍所属機械化混成大隊 第08MS小隊だった。
彼女の言葉を聞いて、確かにジェーンは自己をきちんと認識しているとシローは納得せざるを得ない。ここ数日彼女と行動を共にして、そのあたりはよく理解できた。
潔癖症とまではいかないのだが、食事の時もステンレス製のトレイに眉をひそめるし、テントも嫌がっているような風ではあった。現場を知らない、まるで貴婦人のような白い手のひらをエレドアなどは「お姫さん」 と皮肉っていたものだ。あながち間違っていないとは思うけれど。そしてジェーンは、自分がそのように思われているということも重々承知している。
上等なチャイナと磨きぬかれたシルバーで食事をし、天蓋つきのベッドで眠ったことしかない……わけではないだろうが、大方彼女のこれまでの人生は似たようなものだろう。泥にまみれてジャングルを這い回るなんてことはほとんどしなかったはずだ。
「もう、置いて行って下さい。隊長だけお戻りください」
その場にへたり込みそうなジェーンに、シローは頭を抱えた。
これは単なる子供のお遣いのようなものだ。カレンは「お嬢ちゃんのお守りかい」 と呆れていたけれど、正直に言えば間違いなくそうなのだ。エリートの育成のために、戦場の小隊一つの数日間をささげる。将来的な昇進のために必要最低限の儀式めいたスケジュールだ。大局的に見ればそれは意義のあることなのかもしれないが、常に生死の淵にある前線の兵士にとってはたまったものではない。いくらジオンの攻勢が穏やかな頃合であっても、それがいつまでも続くわけではない。
ジェーンは赴任早々に大隊から睨まれていた。毅然とした態度をしてはいたけれど、実際は深く傷ついていたに違いない。何しろまだ十代、戦況の悪化で教育年次が繰り上げられた末の、若年仕官殿だ。
もしかしたら彼女は、暴言を投げつけられる大隊に戻りたくないのかもしれない。だとしたら、ジェーンを連れ戻すのはなおのこと骨折りになるだろう。
シローは天を仰いだ。雲ひとつない空の、太陽がただ眩しかった。

「隊長、戻ってください」
ジェーンは繰り返す。シローは黙ったまま。
先を行く小隊の面々はどこまで進んだだろうか。ミケルはともかく、残りの三人は一端の軍人だ。放っておいても危険はないだろう。強いて言うならば彼らを差し置いてこんなところでぐずぐずしている自分に、問題がある。
装備品を捨て置けば――いやいや、それでは「課題」 をこなしたことにはならない。それは結果的に彼女の経歴に傷をつけることに他ならないのだ。
仏頂面で踏ん張っているけれど、本当は泣き出したいんだろう。
お手上げだと言わんばかりにシローがため息を吐こうとした瞬間、
「――いたっ、う、な、にこれ!?」
ジェーンは突然奇声を上げたかと思うと、それまでからは想像できない素早さで泥水の中から脚を引き抜いた。
何かを払うような手の動きを追ってみると、彼女のくるぶしのあたりに赤黒い軟体動物がはりついていた。ヒルだ。
「やだっ、」
錯乱したように、懸命にヒルを引き剥がそうとしているジェーンを、シローは止めた。
「落ち着け! 無理にはがしちゃ駄目だ!」
「はなし――隊長!」
シローはジェーンを無理矢理近くに座らせると、携行していたザックの中から薬品瓶を取り出した。かと思うと、その蓋を外してヒルめがけて振りかけた。
消毒用のエタノールをかけられたヒルは、たまらずジェーンの脚からもんどり落ちる。今しがた吸い出した血を吐き出しながら。
当然ジェーンは、血の気の引いた顔を覆う。シローは、無理からぬことだと思った。軍属とは言え女子、ぬるぬるした軟体動物が脚に張り付いていたなんて、考えることだってしたくないだろう。
いや……それではいけないのだ、と、彼は自分を叱咤する。一人前の軍人扱いをしないことは彼女への侮辱ではないかと。それでもどうしても、一見可憐な彼女を、少女扱いしてしまうのだ。彼は困惑していた。
ただし彼女は、それ以上に参っている。
「――ジェーン、」
呼びかけて、口をつぐんだ。
声も上げずに顔を覆った彼女が内心何を考えているのか、シローにはわかりそうもない。嫌悪か悔しさか、それとも怒りか。
シローはただ黙ったまま、ふくらはぎの傷口から血を絞っていた。ヒルの体液には、血液の凝固を阻害する成分が混じっているからだ。その後抗ヒスタミン剤を塗り、気休めの包帯を巻いて治療は完了した。あとは彼女が落ち着くのを待って、もう一度行軍するしかない。

腰を下ろした二人の頭上にも密林が広がっている。熱帯雨林特有の形の葉を広げ、その隙間からは信じられないほど鮮やかな青が垣間見えた。深い緑と青を眺めていると、地球に降下したときのことを思い出す。同じ色だからだ。ここまで綺麗な青は、地球でしか見られないものだろう。シローは目をすがめつつ感慨深い思いに浸る。コロニーには野生の動物というものがいない。当たり前かもしれないが、発生しようがない。公園で小鳥のさえずりは聞こえても、それは実際には厳密に管理されているのだ。密閉空間では生態系は崩れやすく、再生も地球と比べるとはるかに困難なのだ。
だからこうして空を渡る鳥や小川に遊ぶ魚を見ると、これこそが生命のあるべき姿なのだろうとも考えてしまう。何が正しくて何が間違っているのか――そんなことはしかし、戦時中に考えることではない気がした。
ただ今は、生き残ることだけを考えている。自分も、自分の仲間も。
ジェーンはしばらくしゃくりあげるようにしていたが、いつのまにかそれもやんでいた。どこからかせせらぎの音も聞こえる。
「足は痛むかい?」
シローは、彼女を見ずに尋ねた。
「……平気です」
か細い声は多分、疲れだとかではなくて照れなのだろうと思う。ミケルが言っていた「強そうですよね、あの人」 という言葉は中々的を射ているのだ。
「そうか。じゃあ、歩けるかい?」
「はい、すみませんでした」
「気にするな」
シローが手のひらでジェーンの頭をくしゃくしゃに撫でると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。だからサンダースの「しかし時折子供のようなかわいらしさも見せる」 という、聞き様によっては小バカにしているような台詞もそれはそれで真実だと思うのだ。
「もう、髪がくしゃくしゃです」
「それはまた、」
シローが二の句を告げなかったのは、何も彼女が密林でヘアスタイルを気にする余裕まで見せたからではない。文句を言いながらも見せたその顔が、心底嬉しそうに笑った顔があまりにも眩しくて、自分が何を言い出すかと自重しただけだった。
かわいらしいと思った。守りたいとも、思った。
ここが戦場で彼女が軍属でも、そう思うことだけは許されるに違いない。
そういう感情を大切にすることが多分、唯一人間らしくある方法なのだと信じているから。









後書
Thanks:mogueFile(photo)