「リディ様は現在、腐っておいでです」

仮面みたいな顔をはりつけた、マーセナス家の執事 ジーヴス は、眉をピクリとも動かさず、わたしには恭しいお辞儀を欠かさず、「腐っておいでです」 と、いつもの彼からは想像もつかないようなことを言ってのけた。わたしはちょっとだけ気圧されたような気がしたけれど、いつもどおりを心がけつつ彼に尋ねた。
「体調がわるいの?」
「いいえ、すこぶるご健勝です」
「なにかあったの?」
「特別なことはございません」
まどろっこしいなこの人。と、思いながら随分背の高いジーヴスに、お気に入りのつば広帽子を預ける。形が崩れないようにお願いねと念を押して。
「リディ様は本日も、つつがなく、いつもどおりでいらっしゃいます」
しゃあしゃあと答える顔の端っこには、わかる人にしかわからない慈愛のかけらみたいなものがくっついていた。ジーヴスの考えていることはよくわからない。でも彼はとても頭がいい。その彼が言うのだからきっとリディは間違いなく今日も、
「うじうじ悩んでるのね?」
「その通りでございます」
§
「リディ、わたし、ジェーンよ」
別荘の奥まった部屋の、重々しい扉をノックしても返事はなかった。
「……入るわよ」
両腕にめいっぱい力をこめてドアを押す。ジーヴスならばひょいと開けられそうなこのドアの前に、ちなみに彼がいないのはわたしがそう頼んだからだ。
親に決められた婚約者同士とはいえ、幸運なことにわたしたちは小さい頃から気が合った。よく遊んだし、よくケンカもした。それでも仲良くいられたし、仲良すぎて異性として見られてないんじゃないかと思ったくらいだけど。そういうわけで気心知れたもの同士、好きにさせてくれってこと。
「よいしょっ、と。……ごきげんようリディちゃん」
「ごきげん、よくない」
マーセナス家の坊ちゃんは、毛足の長い絨毯の上一面に紙を広げて、その上にこまごまとしたゴミみたいなものをぶちまけていた。
「うわぁ、なぁにこれ? なにか壊したの?」
「壊したんじゃない、作ってる最中だ」
不機嫌そうに振り向いた彼の手には、確かに何か、組み立てている途中のモノがあった。それにしても自己申告したとおり、ご機嫌はよろしくないらしい。
「何作ってるの?」
「見ればわかるだろ」
わからないから聞いてるんだけどなー。とは、言わなかった。
殿方は面倒くさいものです。と、お母様が仰っていたのをわたしはようく、覚えている。それから、そういう殿方をなだめすかして動かして差し上げるのがよき女の努めです。と、仰ってもいた。前時代的だなぁ、好きな殿方を、ってつければお母様も素直な女性になれるのになあ。両親のことを考えながら、わたしはリディの隣に陣取る。こうすると、不機嫌リディもちょっと甘えてきてくれる。そういうときのリディは、ちょっとかわいいのだ。
「ジェーン」
「なぁに?」
「僕は連邦軍に入りたい」
ぱちん、と音を立てて、リディの手の中の何かにまた一つのパーツが加わった。
正直、リディが言い出したことは意外だった。どうせまたお父上と揉めてメソメソしてるに違いないと、わたしは踏んでいたからだ。
「連邦軍?」
「うん。僕は、パイロットになりたい」
「パイロット……モビルスーツの?」
「うん」
リディの手は、床一面に広がったパーツの中から正確に、次に使うべきものを選び出している。
「そう言ったら、父には反対された」
「うん……それは、」
「僕は政治家になって家をつぐんだって。なんのためにジェーンと婚約させてると思ってるんだって」
なかなか、えげつないことを聞かされたなと思ってわたしは口を挟めなかった。おおよその見当はついていたけれど、わたしがリディの相手として、リディがわたしの相手として選ばれた理由なんてやっぱりそんなもんだろう。
「僕は、政治家なんてなりたくないんだ」
「リディ……」
わたしは誰にも肩入れできなさそうだし、リディの苦悩は随分前から知っているからこそ安易なことは言えなかった。パイロットになりたいって言うのは前から言ってたけど、軍に入ろうとまで考えていたとは思わなかった。リディ、きっとたくさん悩んだんだろうな。そう思うとわたしは彼のことがいじらしくかわいらしいと思うのと同時に、やっぱり何も言えなくなってしまう。
こんなとき、どうしたらいいのかわかりません。お母様、ジェーンにはまだ経験が足りないようです。
対照的に、リディは大人になっちゃったのかもしれない。ちらっと横顔を盗み見ると、なんだか別の人に思えた。
こんなに首が太かったっけ? 喉仏なんてあったっけ? 眉だって昔はもっと頼りない感じだったはず。目もぱっちりしてたのに、今はキリッとしちゃって。ふっくらしてたほっぺたは、今はスマートな輪郭をたたえて、わたしとはまったく別の性になってしまっている。
それに、手のひらだって大きくなってるし、腕の太さだってわたしとは比べ物にならない。座ってるからわからないけど、背だってもう随分離されてるんだろうな。
最後にリディに会ったのっていつだったっけ。
「ジェーン、」
声もこんなに低くなってたこと、わたしはいつから知らないんだろう。
「なぁに?」
「こんな僕は、情けないだろう」
「……どうしてそう思うの?」
リディは組み立てている途中の手を休めた。
「僕は、僕は……こんな家、出て行きたいと思ってる。でも、そうするのが怖い」
ぐっと握り締めた彼の手のひらに、わたしは触れてあげたかった。だれだって心細いときには、誰かに触れて欲しいものだとおもうから。
「ジェーンのことだって、家のことなんか抜きにして、僕は、」
けれどわたしの手が彼のそれを包むことはなく、だけど逆に、彼の大きな手に包まれてしまった。
思わず見詰め合ってしまって、リディは真っ赤な顔のまま何も言えずにかたまってしまっている。待ったほうがいい、んだと思うから、わたしは待った。そのまま、瞬きすら惜しかった。
「……僕、は、」
リディは結局、視線をそらしてバツが悪そうな顔をした。あらら、と、思っていると、ゆっくりと手のひらが離れていく。
わたしはなんだかそれが、惜しくなってしまって、追いかけるように手のひらを握り締めた。
「リディ、情けなくなんかないわ。ちゃんと考えてるじゃない。自分のことも、家のことも、わたしのことも。素敵なことよ」
「でも……僕は、」
「じゃあまず、その“僕”っていうの、やめてみない?」
「え?」
「言ってみて」
リディは照れくさそうだった。でも、ちゃんとわたしの目を見て、「俺は」 と、口にする。続きは、なかったけど。
わたしはリディがいとおしかった。まだ少しだけ子供の部分を残したままの彼が、やっぱり心から好きなのだ。
「リディ、わたしも決めたわ」
「何を?」
「あなたについていくの」
体を傾けると、わたしの頭がリディの肩にぶつかる。思っていたよりも硬かったけれど、恐れていたよりもずっとやわらかくて、あたたかかった。そしてリディの体は、わたしがぐうっと体重をかけてもびくともしなかった。リディは、大人の男の人になりつつあった。頼もしいなって思ったのは初めてで、少しだけどぎまぎしながらわたしは二の腕を掴む。
「あなたが軍に入ろうが、マーセナス家を出ようが、どんな暮らしぶりになろうが、わたしはあなたに着いて行きます」
「ジェーン、きみ、本気で、」
動揺してますって顔のリディを見上げて、
「うん。駆け落ちでもなんでも。わたし平気よ、大丈夫。リディと一緒なら大丈夫――」
笑いかけた後にその鼻をつまんだ。
「って、思えるような殿方になってね」
だって現実的に駆け落ちは無理だし、なによりリディならきっと、全部うまいこと折り合いつけれるくらいの度量はあるに違いないのだ。
「……ああ、わかった」
「よろしい」
えへへ、と笑うと、今度はわたしが鼻をつままれる。目を丸くしていると、くちびるに一瞬だけ、リディがふれた。
「……なに、」
「……おかえしだよ」
「……え、何に対する?」
「い、いいだろ別に!」
「よくないよお」
真っ赤になったまま、わたしはリディが飛行機の模型を組み上げるのを待っていた。待つつもりだったけれど、やっぱり間がもたなかった。
「あのね、」
「なんだよ……」
リディは機嫌の悪そうな声をしてるけど、これは照れてるだけだ。照れるくらいならやらなきゃいいのに……。
「うーんとちっちゃいころにもね、そのぉ……」
言いよどんでいると、リディは、というか、リディも思い出したのか、はっとしたような顔になった。厚い絨毯が敷き詰められた上に、音もなくプラスチックのパーツを落としたのをわたしは見逃さなかった。
「その話はいい」
「えぇー? あのときのリディ、」「いいって!」「すごく素敵だった」「ジェーン!」

あのとき、というのは、詳しくは知らないし覚えていないけれど、何かのガーデンパーティーだったような気がする。まだ四つか五つくらいのときだった。
立食しつつ歓談を楽しむ大人たちをよそに、わたしたちは二人で、噴水のふちに腰掛けていた。
リディは腕に色とりどりの小花を抱えていて、それらはあっという間に小さな花冠に姿を変える。ハウスメイドから教わったらしい。器用なリディにはきっと、造作もないことだったろう。
『わぁ、かわいい! おはなのかんむりね』
『ジェーンにあげるよ』
『ありがとう、にあう?』
『うん、おひめさまみたいだ』

「……あのときは、さすがにほっぺだったけどね」
「忘れろよ、そんなことさ……」
「やだ。すっごく嬉しかったんだもん。一番嬉しかったんだもん、絶対忘れない」
「一番ね……」
リディは呆れてるようで、でも多分その実照れ隠しだ。さっきから模型飛行機を組み立てる手がひどく緩慢になっているのをわたしは知っている。
彼の肩にもたれると、リディは鬱陶しそうにみじろぎをした。けれど決して邪険にはしてくれない。愛されていることを感じて、わたしはとても幸せになる。
「あ、やっぱり訂正、一番じゃない」
高原の清涼な空気が窓から入り込む。それを深呼吸で胸に招き入れると、ソーダ水が体中を駆け巡ったような感じがした。
「さっきのが一番」
「……馬鹿じゃないのか」
馬鹿でもいいです。そういうとリディは今度こそ、黙ってしまった。
「それね、出来上がったら、花冠がまた欲しいな」
「はいはい」
「リディはおうじさまだね」
「……はいはい」









後書
Thanks:mogueFile(photo)