夏の始まりの理科室は、オレンジの夕日に満ちてまるで、世界が終わる日のようだった。
この赤い頬もわからなくなるほどの光が、先生の頬の輪郭を、同じオレンジで縁取っている。
睫も髪の毛先も同じ色を浴びて、現実感がどんどん薄れていく。夢見心地のわたしは、ふと、こんなことを漏らしていた。

「もうすぐ花火大会ですね」

その声に先生は顔を上げた。伏せていた睫の下からキョトンとした目が現れて、わたしは突然に現実に引き戻される。
先生が今顔を上げるまで何をしていたのか、そもそもわたしは何を言ったのか、どうしてここにいるのか、全部思い出して、体中の血が地面に向かって落っこちていくような気分になった。
いつものように夏季補習が終わってからわたしは理科室に来た。それは毎日の恒例で、先生は、暑いからという理由でコーヒーはないけれど、そのかわりに冷蔵庫の中から冷えた麦茶を出してくれる。それがわたしの夏休みの日課で、先生にとっても日課かもしれないけれど、それを喜んでいるのはわたしだけかもしれないなんて思っていて――
毎日わたしは先生に話しかけている。猫のこと、家のこと、食事のこと、クラスメイトのこと、部活動のこと、それから夏休みのこと。
どこへも行く予定はないと笑った先生が、どうしてだろう、悲しかった。
時折見せる先生のそんな顔が、わたしはときどきどうしようもなくやるせなく感じてしまう。
わたしは先生の悲しみを癒してあげたいだとかそんな大それたことは考えていないし、できるなんてことすら思ってもない。
だけど怖いくらいにオレンジ色をした狭い世界の中で、先生はわたしの手も届かないような、別の世界にいるように思えた。

「浴衣、買ったんですよ」

先生の手を掴んで、こっちに来てくださいって言えたらどんなにいいだろう。先生、こっちの世界にいてください。わたしの傍にいてください。どこにもいかないでください。
そんなこと、恋人同士でもないのに誰が言える? わたしはただの高校生で、先生は先生にしかすぎない。
そう、わたしたちの間には、薄っぺらいのにとんでもなく深くて高い壁のような溝のようなものがある。そんなことは昔から知っていた。
卒業したらその壁はなくなる――まではいかなくても、限りなくゼロに近くなるんだろう。
でも卒業まで、あとどのくらいかかるか知っているの? 大人にとってはそんな月日は鼻で笑ってしまうような時間だろう。だけど子供のわたしには、この一秒すら重く苦しい。
わたしは、だから、今すぐに先生を呼び戻したかった。

「そう、花火大会に着ていくんだね」

先生はわかりきったことを、薄い笑みを湛えたまま口にする。わたしは、どんどん焦りに支配されていく。紅潮する顔を自覚していながら、それを止められない。オレンジ色の夕日が心からありがたかった。

「はい」
「みんなと一緒に行くのかな。君は、西本さんや小野田さんと仲もいいし、氷上君、佐伯君なんかも来るのかな」
「いえ、佐伯君はきっと、お店がって言って来ないと――」

先生、そうじゃないんです。わたしは花火大会の日、誰の手をとって、誰の隣を歩きたいのか、もうちゃんと理解してるんです。言葉にできないだけで、わたしは、わたしは――

昔読んだホラー漫画で、「血の涙を流すマリア像」 っていうのがあった。蓋をあければなんてことはない、夕日に照らされた彼女の頬が、まるで涙を流しているように、オレンジ色に輝いていただけ。
わたしもそう見えているのかしら。それとも本当に泣いているのかしら。
先生は何かの書類に記入していた手を止めて、わたしの顔をじっと見ている。
世界というものが、自分が知っているだけの人やものだけで構成されるものだとしたら、わたしはこの気持ちを知られ、拒まれた瞬間に世界に見捨てられるような気がした。
そんな世界の終わりの日に、やっぱり鮮やかすぎる夕日の赤はこの上ないくらいに似合っている。

「山田さん、」

先生はわたしを苗字で呼ぶ。苗字でしか呼んでくれない。きっと先生の世界には、花子という女の子がいないのだろう。
もしもその世界に、花子というわたしが現れたら、先生はわたしのことをどう見てくれるんだろうか。

「先生、わたしは」

やっぱりただの生徒だろうか、

「花火大会に、」

それとも一人の女として見てくれるのだろうか。

「先生と一緒に行きたい」

見つめ合った先には普段と変わらない先生がいて、世界はこれっぽっちも壊れていないことを思い知らされる。いっそこの世界が終わってしまって、全然別のわたしになってしまいたかった。そうなればよかったのに。

「……その日は用事があるんです」

先生は残酷に優しい。わたしはうなだれることもできずに、ただやわらかい微笑みを見ていた。この微笑は、人だって殺してしまう気がする。
事実わたしの心はズタズタだった。先生を恨む気持ちはない。ただ、自分はなんてことを言ってしまったんだろうかと、してもしょうのない後悔ばかりしていた。
あれほど口に出してしまいたかった気持ちは、言葉にした途端に全部がわたしを切り裂く刃になる。残酷だ。世界は、残酷だ。

「戻ってくるのが夕方なので、もしも君が花火大会に、みんなで行くのなら」

先生はふいと視線をそらした。夕日をまともに目に入れて、眩しそうに目を細めている。

「――駅の辺りで会えるかもしれませんね」

もしも先生の世界にいない花子という女の子が、この光景を見ていたら。
彼女はきっと笑うのだろう。
もしかしたら花子という女の子は、少し大人になった彼女は、そのときわたしと入れ替わってしまうのかもしれない。先生がわたしを見つめる先に、花子という名のわたしがいる。
夕日の中で笑う先生を見ていたら、不意にそんなことを考えてしまった。先生は残酷だけど、やっぱり優しかった。その優しさは、理性が押し留めきれなかった、彼の深層の一部と考えてもいいんだろうか。そうだったらいい。
未来の二人が夏祭りに行く度に、この夕日の色を思い出していたい。









後書
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