ぬるぬるした二の腕は、多分汗のせいに違いない。
波打ち際に寝転んでいるかと思うくらい近い波の音と、寝心地のよくないベッドの固さ。僕は前髪をかきあげながら、彼女の肩口に唇を落とす。今日も晴れだ。こんな日はちょっとした音楽を聴きながら、潮が引くようにベッドを這い出たい。

僕は最近、魂の救済っていうやつはなんなんだろうかと考える。同時に、生きるということはなんなんだろうとも考える。
そういうとジェーンは、出会ってまだ二週間も経たない彼女は、まるで「アンタっていつまでも子供よね」 と、僕の幼少期を知っているかのような口ぶりで、笑い飛ばすのだ。
大陸の西の海岸近く、彼女と僕は小さな東屋の中で目を覚ます。日焼けした肌がヒリヒリするのか、ジェーンはうめくような声と一緒に身を捩じらせた。
「コーヒーがいい」
彼女はごねるような、妙に掠れた声で僕に甘えた。
「……当店はセルフサービスになっております」
これはジェーンの口調を真似ただけで、特に悪意があったわけでもない。が、彼女はお気に召さなかったのか、まったく恐ろしくもない目で僕を睨む。
「あたしは家主よ」
「そりゃ、そうだ」
僕は彼女がどうしてこんなところに住んでいるのか聞かない。し、彼女は僕がどうしてふらふらと放浪の旅を続けているのか聞かない。それで僕を家に泊めてくれるんだからまったく聖母様のようだ。最も、聖母様は食生活こそ清貧だが、ずいぶん爛れた暮らしをしているらしい。
ともかく僕は聖母ジェーンのためにコーヒーを淹れなければいけないわけだが、それはそれだ。
「ちょっと、」
粗末なベッドに横たわったまま、僕は彼女の体をまさぐる。真夏の体は汗でぬめって、そのせいで余計にエロい。ただし、ジェーン本人はこの僕の気分を理解してくれないようだ。
「ジョニィ、コーヒー」
「後でね」
後ろから羽交い絞めにして押し倒そうとしたら、するりと逃げられた。ついでに枕で頭もたたかれた。
「ばか」
ジェーンは素早く丈の短いガウンを羽織ると、コーヒーを自分で淹れ始めた。
さすが、「セルフサービスの聖母の家」 だ。
ところで僕のコッチも、セルフサービスということだろうか。
§
ジェーンの家が他と異なっているところというと、それはもう、枚挙に暇がないのだが、その中でも一際異様なのは、壁一面に貼られ、そして増え続けるシルクスクリーンの絵画群だろう。
それはほとんどが彼女の手による作品で、ところどころにもらい物や雑誌の切抜きが混じっている。
鮮やかな色ばかりなのは間違いなく彼女の作品で、海と空がモチーフになっているのも大体彼女のだ。
こうして寝そべって壁を眺めていると、未開の地で蝶の大群に囲まれたような気分だ。僕は落ち着かないけれど、彼女にとってはこれが最も好ましい状態に違いない。そのうちこれらは天井まで侵食していくんじゃないかと思っている。そう考えていたら、寝返りを打った拍子に天井が見えた。そこには一枚の「蝶」 がいた。
昨日まではなかっただろうに、いったいいつのまに。
僕は彼女の、決して大きくはない背丈を伸ばして天井に紙切れを貼り付けている様を想像し、笑った。
部屋の向こうからは呼び声が聞こえる。今日はセルフサービスは休みらしい。
§
彼女が波打ち際を歩きながら空を眺めたり――これは次回作の構想を練っているらしい――している、その横に僕がいる。
最近おなじみの光景になったらしく、西海岸の常連客は僕にも挨拶をしてくれるようになった。
僕はこの海岸が、比較的好きだった。その中でも特に、朝焼けの海が好きだ。海岸の向こうから太陽は出てこないけれど、だからこそぼんやり、薄闇からだんだんと明るくなっていく海を見ているのは格別だ。
そういうとき、僕はやはり考える。
こんな僕にも、魂の安息があっていいのだろうかと。
今まで生きた中でこんなにも穏やかな時間はなかった。享楽的に生きていたころも、あのレースに参加していた日々も、楽しかったといえば楽しかったかもしれない。
確かに今こうして海辺を歩いている日々はあまりにも平坦で、楽しいも楽しくないもない。
毎日思索にふけっている僕は、緩やかに死んでいるんじゃないかと思うくらいだった。
ただ、それでもやはりこれでいいのだと思う。
生きることに必死だった日々にも若かった頃にも、こんなふうに何かについて考え込んだことはなかった。こんなどうでもいい悩みは、生きるための必要最低限が満たされていないと発生しないに違いない。そう考えると今の僕は、かなり恵まれているんだろう。
§
カモメが飛んでいる。時折魚が跳ねる。沖へ行けば海洋哺乳類が潮を吹いたりするのが見られるかもしれない。

今日のジェーンは黙ったまま、波打ち際にしゃがみこんでいる。
まだ夜が明けて間もない海は静かだ。ほぼ規則正しく寄せる波の音は、頭の中まで洗い流してくれそうだった。

「何してるんだい?」

僕が尋ねても、ジェーンは振り向かなかった。

「ヤドカリいたの」
「そう」

子供みたいだなと思った。次の瞬間に、およそ子供らしからぬ発言が飛び出してきて僕は、ひどく驚いたけれど。

「魂の救済ってやつを、あたしも考えてみたのよ。それは神様が与えてくれる何かでもなくて、導いてくれるどこかでもないと思うの」

ざぶん、と押し寄せる波に、ジェーンがさらわれてしまいそうで、僕は彼女の隣へと向かう。
この数日、僕は僕の魂の安息は彼女から得られるものだと、彼女の隣にいることこそがそうなのだと信じて止まなかった。
だから彼女の言葉は僕の心に突き刺さり、それでいながら僕は、やはり彼女の隣から離れたくはなかったのだ。

「じゃあ、どうしたら魂は救われるのだろう」

なんだかすがり付いているようだった。僕は救いを求めているのだろうか。こんなにも穏やかな心でありながら、それでもなお、失ってしまったものや傷ついた痕のことを忘れられずに、たとえば眠っている間だけ泣きじゃくっているのかもしれない。ジェーンはそんな、僕も知らない僕の破廉恥なところを、知っているのだろうか。

「どうしたらあたしの魂は救われるのかしらって考えたの。別に、今のあたしは救われたいと思っているわけじゃないけれど」

ジェーンは笑う。どこからか流れてきた木切れで砂浜を穿り返して遊びながら。

「あたしはドロドロしたものを抱えたまま、天国に行きたくないと思ったの。死んでしまう瞬間に、この心が、魂が、全て美しいもので満たされていることが、あたしの魂の、救済ってやつだと思うの」

生きている間の魂は、美しかったり、そうでなかったり、きっとまぜこぜになってしまうから。
ジェーンのその言葉は本当に、実感を伴って僕の魂にしみこむ。ところで彼女は本当に尼さんにでもなったかのような言葉だ。昔昔、日曜日に訪れた協会の、あのかび臭いにおいすら感じそうになる。
人は好むと好まざるとに関わらず死んでしまう。いつか来るその日のために僕らはまた、祈るのだろう。
こんなことを考える僕も彼女も、また一歩死に近づいたのかもしれない。ただしそれは、忌むべき死ではなく、安息の中の死を達成するための重要な一歩だ。

「それは確かに、最高の死に方かもしれない」
「でしょう?」

しかし僕は、彼女の無邪気さが、彼女の魂の美しさが、僕を救済してくれると信じてやまない。けれど、彼女がそれら全てを見越して、僕をたった一人で立ち直らせようとしているのも知っていた。
セルフ・サービスの聖母は、流木を投げ出した。

「なんて言ってるけど、あたしはこういう、空と海とがよく見える場所で死ねたら、それで自分は十分満足して死ねるんだと思うわ」
「君らしいな」
「でも実際そうはいかないかもね。どんな場所にいても思い出せるように、あたしは海も空も、紙の上にとどめようとしているのかもしれない」

不遜な行為だわ。と、ジェーンは眉を顰めた。

「すばらしいことじゃないか」

僕は本心からそう思う。願わくば僕も数十年後、安息の中で息絶えたい。彼女の言うとおり、その瞬間にこんなに美しい景色があれば最高なことだと思う。
水平線の際は淡いイエローに、その上は透明にも見えるライトブルー。顔を上げてずっと上を見上げればまだ明けきれぬ夜の空に、星さえ見えた。
今日は暑くなりそうだ。僕は彼女の隣に腰を下ろし、砂浜についた腕に自分の腕を絡めた。手のひらが小さな彼女の手のひらを覆っても、彼女は何も言わず、ただされるがまま、海を見ていた。僕は彼女の顔を見ていたわけではないけれど、どこを見ているのか位、そのくらいはわかった。
なぜならば、やはり僕の魂は彼女に寄り添っているに違いないから。










後書
Thanks:mogueFile(photo)