その日、山田花子がアルバイトを休むという連絡を受けた不二山嵐は、拍子抜けしたというか、妙にがっかりしている自分を不思議に思っていた。
が、別に己の心情に大した意味はないだろうと結論付けた。女友達の中では話が合うほうだと思うし、部活のマネージャーでもあるから気も合う。そんな彼女とは昨日までに、学園祭での催し物の打ち合わせをしていたので、その話の続きができない、それで自分はがっかりしているのだろうと判断したのだ。
瑣末な事項に気持ちを傾けているのは、こういう人命に関わる仕事をする中で危険極まりない。気持ちの切り替えには、自信がある。
§
だから彼は彼女のことは頭の隅の隅に追いやって、夏休み中で客が増えたプールの監視員の任務を全うしていたのだから、視界の端に彼女の姿を見つけたときには驚いた。
「嵐くん!」
「おう……?」
彼は一方で、深く物事を考えるのは苦手だった。一体どういう理由で、アルバイトを休んだ彼女が、小学校にも入らないくらいの男児をつれてプールにやってきているのか、到底想像もできなかった。
「ごめんね、アルバイト休んじゃって。あ、この子はね、従兄弟の陸くんっていうの」
どうやら遊びに来た叔母と実母に子守を頼まれて、花子はアルバイトを休むことになったらしい。が、結局陸が「プールに行きたい」 とごねたため、結局彼女は温水プールに姿を見せることとなったのだ。
「陸くん、お姉ちゃんのお友達の、不二山嵐くんだよ?」
「よろしくな」
花子が紹介してくれたので、不二山は身を屈めて挨拶するのだが、陸は人見知りなのか、彼女の足の後ろに隠れてしまった。
「あら、どうしたの?」
いつもはこんなことないのに、と花子は怪訝な顔をしているが、たまたま通りかかった温水プールのバイトリーダーを見かけると「挨拶してくるから、陸くんをちょっとお願い!」 と言い残して去っていった。
残された男二人は、気まずくないわけがない。……と、思っていたのは不二山だけだった。
突然強い眼光で、陸は不二山を睨んだ。
「ねえちゃんの、カレシ?」
「は?」
牙を向かれて動揺したのか、それとも言葉の内容が意外だったのか、不二山は言葉に詰まった。それをどう理解したのか、陸は追い討ちをかける。
「花子ねえちゃんは、おれのだ!」
§
「そりゃ花子さん、もてますもん」
訳知り顔で頷くのは、男女混合のクラスメイト数人とプールに遊びに来ていた新名淳平だった。派手な柄が一際目を引くものだから、不二山でなくてもすぐにわかる。見つけてしまった後は速いもので、不二山は陸少年から投げつけられた台詞について新名の見解を求めていたのだ。
「もて……?」
しかし新名の言わんとすることは不二山には通じなかった。
「あんなチビでも男ってことっしょ? 花子姉ちゃんはおれの女〜 くらいに思ってんですよ」
最近のガキはませてるから、と、新名は何か思い当たる節でもあるのか心底嫌そうに顔を顰めた。
「そういうことなんか」
「……むしろそれ以外にどういうことがあるのか知りたいっすよ、オレは」
動物的なカンを持ち合わせる反面、どこか鈍い不二山に新名は呆れながら尋ねた。
「俺はてっきり、アイツは山田のことをカーチャン代わりに思ってるのかと」
「ああ、なる……」
“はば学のオカン”の名をほしいままにした花子ならさもありなん……と納得しかけた新名だったが、視線の先で遊んでいる二人を見る限りでは、やっぱり陸は花子のことを男として好きなのだろうと思う。
思うのだが、
「ほら、ああしてると親子みてぇだろ?」
不二山にはそう見えないらしい。それも強がっているわけでもなく、ただただ純粋に『微笑ましいことだ』 といわんばかりの調子で言うものだから陸が不憫になってくる。
頑張れ、少年。お前の敵はとんでもなく強敵だぞ、いろんな意味で。
「オレは、ごめんこうむるけどな……」
「なんだ?」
「いや、何でもないっス」
新名とて一時期花子に惹かれていたこともあった。が、部活動の時間に見るだけでも、この天然夫婦の間には入り込めない何かがあると瞬時に理解できてしまうのだ。ただ、悔し涙に身を引いたわけではなかった。あまりにも自然すぎて、自分が立ち入るところではないということが自分でもよくわかったからだ。
「変なヤツだな。まぁ、いいか。それよりお前、一緒に来てる連中に、注意するように言っとけ」
「ウス」
「夏休みで中学生も高校生も、羽目外して遊びすぎなんだよな」
不二山が愚痴をこぼすとは珍しい。ここ数日、色々あったのかもしれないなと新名は当たりをつけた。おそらく不二山も知らずのうちに花子に甘えているフシがあるのかもしれない。なんとなく元気がなさそうに見える今日の不二山を見ていると、その信憑性が高まった気がした。
花子も陸のお守りで大変だろうが、少しくらい話すのはいいんじゃないかと思ってそちらを見ると、
「嵐さん……」
「なんだ?」
「羽目外してるの、ガキだけじゃないかも……」
§
花子と陸は、浅い子供用のプールを出て、流れるプールのほうへ向かう途中だった。あとでアイスを食べようねと言いつつ、手をつないで仲睦まじく歩いている。その姿は、やはり陸には悪いが歳の離れた姉弟にしか見えなかった。
だからこそ、大学生くらいだろうか、若い男が声をかけてきたのだろう。
「お姉さん、弟君と一緒なの?」
「子守大変じゃない? 俺らが手伝おうか?」
言葉の上ではそう言っているが、狙いが何であるのか、それは陸にすら理解できた。
「……けっこうです」
陸をかばうように、毅然とした態度をとるが、男二人は簡単には引かなかった。
「アレ、つれねぇな。坊主、オニーサンがアイス買ってやるよ?」
幼い少年なら御しやすいと思ったのか、男は身を屈めて陸を懐柔しようとした。が、陸には通じなかった。
「いらない! 姉ちゃんにさわんな! あっちいけ!」
陸は持っていた浮き輪を振り回して男二人を追い払おうとするが、所詮子供の力でしかない。
「うひゃ、おっかねぇ」
おかしくてたまらないといった風に笑う男を見て、陸の目にみるみる涙が浮かんできた。自分では花子を守れないと、そう思っているのだろうか。結局守るどころかこうして手のひらを握って縋ることしかできない自分がふがいないと思っているのだろうか。
結局何もできなかった陸と、進退窮まった花子を助けてくれたのは不二山だった。
「ちょっとすいません」
「なんだよ」
「迷惑行為は遠慮してもらえませんか」
口調こそ穏やかだが、不二山の目には爛々と殺気めいたものが揺れていた。男たちもそれが伝わったのだろう、及び腰になってすごすごと退散していく。
ほっと息をついた花子が不二山に礼を言うころになっても、陸は握り締めた彼女の手から離れようとしなかった。
「ありがとう、嵐くん」
「気にすんなよ、これも俺の仕事だ」
「でも助かっちゃった。でもわたしもここで働いてるんだから、ああいうことする人にはちゃんと注意できるようにならないと……」
「そういうことは俺がやるからいいんだよ。でも、」
不二山はしゃがみ、陸の頭をくしゃりとなでた。
「がんばったな。姉ちゃん守ってるの、かっこよかったぞ?」
すると陸は張り詰めた糸が緩んだのか、腕を目の辺りに当てて「えーん」 と泣き出してしまった。これにはさすがに不二山も慌ててしまう。無頼漢から二人を助けた不二山に、新たに救いの手を差し伸べたのは、意外にも新名だった。
「ほらほらアイス、買ってきたから食べな?」
言うとおり、自販機で売られているイチゴ味のアイスクリームを差し出す新名に気づいた陸は、
「……うん」
けろりとしてそれを受け取ったのだった。
§
「結局新名くんたちに最後まで遊んでもらったの。陸くん、女の子たちにモテモテだったんだから」
まだ日が落ちない街を、二つの影が並んで歩く。そのうちの一つ、不二山の背中には、遊びつかれて寝息を立てている陸の姿があった。
「でも、お前のこと守ろうとして立ち向かっていったんだから、きっと将来いい男になるぞ」
「そうかなぁ……。うん、そうだといいね」
誰かたちみたいに喧嘩っ早くならないといいけど。そう言いつつ漏らすため息の相手はきっと幼馴染の兄弟のことだろう。
「でも嵐くんとも仲良くなってくれて、わたし、嬉しいな」
「仲良くなったか?」
「なってるよ? じゃないと、おんぶされないと思うし」
不二山は背中の陸を振り返ってみたいと思った。けれど起こしてしまうのが惜しくてやめた。
「あ、ごめんね、任せちゃって……」
「いいよ、こいつ全然重くねーし。お前んちもそんなに遠くないし」
こうしていると自分の父親のことを思い出した。同時に、自分も父親になるとこういうことが日常的に起こったりするのだろうかとも思った。
夕暮れの街を、人や車が行き交っている。その合間に、花子の携帯電話が震えるのが聞こえた。
「ちょっとごめん」
メールを開くにも一々断りを入れる彼女を、不二山は好ましく思っている。さっきの想像の続き、なんとなく、嫁にするならこういう女がいいのかな、と、不二山は無意識に考えていた。
きっと“はば学のオカン”の次に“嫁にするなら山田花子”の風評が立ってしまったせいだろうと彼は結論付ける。まだこの気持ちについては深く考えることをしないでおきたい、そんな彼の頬を、少しだけ暑さの残る風がなでていった。
「嵐くん、」
「ん?」
「お母さんたち、渋滞に捕まっちゃって遅くなるからごはん適当に食べて、って。よかったら食べていかない?」
地方から出てきた叔母を、花子の母親は東京まで連れて行ったと聞いていた。夏休みでどこもかしこも人が多いのだろう。
「いいのか?」
「うん。今日のお礼もしたいし、二人分作るのも五人分も同じだから」
「なんで五人なんだ?」
「だって嵐くん、三人分くらいは食べるでしょう?」
言い返せない。
「運動した後は疲れるからしょうがねえだろ」
「うん、わかったわかった」
くすくすと笑いを堪えきれない花子の横で、不二山は釈然としない顔をしたまま。
いつもとは違う家路なのに、背中の重みは心地よかった。
それが何故かについても、彼は深く考えることをしようとはしなかった。









後書
Thanks:mogueFile(photo)