蝉の鳴き声を聞いていると気が狂いそうになる。
視線を上げた先、窓の外には厭味ったらしいくらいの深い緑が広がっていた。全国的に見ればおそらく「都会」 に分類されるこの街は、イミテーションの森の数のほうが多いような気がする。もしかしたらそれはわたしの思い込みなのかもしれない。とにかく今のわたしは、何もかもが嘘っぱちに見えてしょうがなかった。
例えば今、わたしがいる教室。快適な温度と湿度をもたらしてくれる冷房の運転音だけがかすかに耳に届いて、時折耳鳴りのように頭の奥がうずいている。ここは夏なんかじゃない。窓の外の太陽も緑も蝉も幻だ。二重窓は外の音一切を遮断する。誰かが中庭を駆けて行ってもわたしには何も聞こえない。この世界に、今まさに一人ぼっちの気分だった。
全部全部、嘘に違いない。
こういう考えに一度とらわれるともうどうしようもなくなって、シャープペンシルを投げ出す。ノートの真ん中、綴じ目にきちんと放り出された黄緑色のそれを見ていると泣きたくなった。
受験が嫌とか、適当な理由をつけてこの気持ちを説明したい。わたしがどうしてこんなふうになっているかなんて、世界中の誰にも知られたくなかった。
窓ガラスに額をつけて、目を閉じる。
生ぬるい温度が気持ち悪いのに、わたしはそうすることをやめられなかった。もう一枚外側のガラスはきっともっと熱いんだろう。想像はできるし触れることもできる。でもわたしはそれを、しない。
全部全部、嘘だったらいいのに。
§
初夏の頃からわたしは健司を避けていた。
翔陽が負けてしまったあの試合を、わたしもあの場でずっと見ていた。
負けるなんて思ってもみなかった。それはわたしや、翔陽のバスケ部以外の生徒に限ったことじゃなかったと思う。負けるなんて、健司は思っていなかっただろう。負けるつもりなんて毛頭なかったに違いない。
今年こそ海南を降して全国へ。健司はそう言っていたから、健司が言うならそうなるに決まっていると思っていたから。
「試合? 見に来てもいいけど、俺は多分出ないよ」
そう言ってたのに。そう言ってたから、見に行かなきゃよかったのかもしれない。
見たくなかった。健司の涙なんて。
見たくなかった。全てが終わっても誰の助けも必要とせず、ただ現実を受け入れた強い健司の姿なんて。
§
どれだけ傲慢なのだろうかと自分で自分が嫌になる。怒り交じりの溜息は窓ガラスを曇らせることもなく散った。
きっと健司も、わたしがどういう気持ちでいようとも心を痛めることもなく表情を曇らせることもないんだろう。
わたしは多分、彼に必要としてほしかった。
だけど彼には必要じゃなかった。それだけ。
それがわたしの、不機嫌の理由だ。
健司の逆境よりも自分のそれのほうが大きくて悲劇的だなんて思っているのは、誰にも言いたくなかった。言えるはずがなかった。
だからわたしはずっと、健司を避けている。

避けていた、のに、
「おいこら花子」
教室のドアを派手に開けられて、喧嘩腰の声が襲い掛かっても振り返れない。咄嗟に開いた私の目がガラスの向こうに認めたのは一際背の高い集団が校庭横の日陰で休憩している姿だった。
しまった。練習してるバスケ部に気付かず、わたしはずっとガラスにぺったりくっついていたらしい。多分さっきまで休憩していた健司は、目ざとい健司はやすやすと、阿呆なわたしを見つけたことだろう。
「無視すんなっつの」
「……こないでよ汗臭い」
「なんだ見てたのか、練習」
「……見てない」
ほっといてよ。わたしあんたにあわせる顔だってないんだから。一人にしてちょうだい。
そう言いたかったけど言えなかった。これを言ってしまったら、もうどこにも戻れなくなる気がしたから。こんだけわがまま言っといて、別れたくないなんてムシがよすぎるにもほどがある。わたしだって心配だ。健司、もてるし、他の女の子が健司の心の隙間に入っていきませんようにって、祈るばかりだった。わたしが、誰も入り込む隙間もないくらいに埋めていればいいだけなのに。
「なあ、」
近づいてくる声と体が怖くて、思わずカーテンを被ってくるくると巻きつけてしまった。
「……お前それ、汚くねぇの?」
うるさい。確かに埃っぽいしカビくさくて気持ち悪いけどこれでいいのだ。
健司はため息混じりにそこらの椅子を引いて腰掛けた。そんな音と気配がした。
「花子はちゃんとさ、勉強してんだな」
かちゃかちゃいってんのは多分、わたしのノートとかシャープペンシルをいじっている音だろう。ノートをめくる衣擦れのような音の合間に、健司の「わかんねー」 っていう呟きも聞こえた。単に日本史の教科書をまとめただけのノートにわからないもなにもあったもんじゃなさそうだけど、健司が一体何を考えているのかとか、何を見ているのかっていうのはわたしにはわからなかった。たとえカーテンの中から這い出てその目を見つめてもわからない。同じように、健司はわたしの考えなんて知る由もないんだ。
「お前そこ暑くねぇの?」
「暑くない」
健司は鼻から大きく息を吐いた。呆れてるんだろう。
気づいて欲しい。健司、わたしはあなたに怒ってるわけじゃないし嫌いになってなんかない。わたしは自分が許せないだけだ。わたしはわたしの代わりに、健司に許されたいの。
「志望校はさ、変わってないんだろ?」
「……うん」
健司と同じ、都内の大学。
「俺はIH行けなかったからな、推薦はやばいかもしんない」
カーテンが氷になってしまったような感覚だった。
二人揃って同じ大学に行けたらいいねって言ってた子供みたいな約束にわたしは拘ってた。IHでいいとこまでいけばきっと推薦がもらえるから、そう言っていたのに。翔陽が負けちゃったときにわたしが一番考え込んでしまったのは、わたしたち二人が迎える次の春のことだった。打ちのめされている健司を差し置いてこんなこと考えてる自分が嫌だった。
それに、健司は涙こそ見せていたけれど、次の日にはもう落ち着いて、練習だって続けていた。健司、もうIHには行けないじゃない。わたしはどうなるの? どうして何も話してくれないの? 聞きたいのに聞けなかった。お前と一緒にはいられないけど、俺はバスケがしたいなんて、そんなこと言われたらどうしようって思って、何も聞けなかった。
それに、頭じゃ健司がバスケを続けられることを選んでほしい、そのほうがいいってわかってるのに、いざとなったときにわたしは多分、自分の感情的な部分をさらけ出して健司を困らせるに違いない。だからなるべく、健司とは接しないようにしていた。
でも、とうとうこの時が来てしまったらしい。
「今からじゃ遅いかもしれないけど俺、勉強もするからさ、今度いっしょに――」
「もう、いいよそんなの」
同じ場所で桜を見られないのは多分わたしへの罰だ。健司は選抜に集中したほうがいい。勉強して無理に同じ大学に行かなくたって、健司にはきらきらの未来が待ってるから。
わたしが我慢するから。きっと大好きな人のためなら我慢しなくちゃいけないときがあって、それは多分、今だから。
「……俺のこと嫌いになった?」
健司のこんな、不安そうな声は聞きたくなかった。
熱い涙を振り払うように首を横に振る。もう自分でも何がしたいのかわからなかった。
「嫌いじゃない! 好きだし、一緒にいたいし、でも健司は、」
厚地のカーテンの中に熱がこもって、流す涙の温度もわからなくなってきた。
「健司はわたしと別でもバスケができるところならそのほうがいいに決まってるもん!」
「――俺は!」
思い切りカーテンを引っ張り挙げられて、冷たい外気にさらされる。そのまま健司がわたしを振り向かせて、二人見詰め合ってしまう。緞帳のように背後に落ちるカーテンは、ここがどこだか一瞬だけ忘れさせた。
「俺は、諦めない。お前とのことだってバスケだって、なんだって」
健司は、ずるいと思った。
見詰め合って、彼の目をじっと見て、ようやくわかった。健司は全部ちゃんと考えてた。考えてくれてた。それが申し訳なくて恥ずかしくて目をそらそうとしたら、頬を捕らえられてキスされてしまう。教室で、誰か来るかもしれないのに、でも、今だけ世界が止まってくれたらいい。夏の午後にわたしたちだけ、二人きりで、一瞬でいいから。
「花子はずっとそれ、考えてたんだろ」
唇が離れて、とっさの自分の行動が照れくさくなったのか、健司はわたしのあたまを胸に抱えたままぼそぼそとしゃべりだした。顔なんて真っ赤に違いない。きっと、わたしも。
「考えてさ、自分のこと責めてたんだろ」
健司の手がわたしを優しくなでるたび、わたしの目から涙がこぼれた。汗をすいこんだ健司のシャツが、涙でしとどに濡れていく。
「ばか。俺だって男なんだから、もっと甘えろっつうの」
額をこすりつけるようにして頷くと、健司はいっそう強くわたしの体を抱いてくれた。
「そんなことゆったら、むちゃくちゃ甘えるから」
「いいよ」
「うっとおしいって言われても甘えるから」
「おう、どんとこい」
わたしはやっぱりこの人が好きだ。華奢に見えるくせに力強い腕に抱かれればとても安心してしまう。なんの保証もないけれど、ここにこうして、ずっといられると感じてしまう。でも健司を疑うことよりも、信じることのほうがずっと簡単だし、ずっと幸福だ。
「……健司、練習戻らなくていいの?」
「お前ほっといて行けるかよ。職権乱用で今だけサボりだ」
蒸し暑い夏の緑も蝉も知らない部屋の中は、取り残されたように、確かにわたしたち二人だけだった。ひやりとした空気の中でわたしはいつまでもメソメソしたまま、心地よい体温にしがみついていた。振り落とされることなどないと知っていながら、それでも。









後書
Thanks:mogueFile(photo)