「あのさあ、なんでこんなことになってるか、わかってるのか?」

俺が呼びかけてもジェーンは返事もしなかった。
蝉の鳴き声と、遠い空を往く飛行機の音。夏休み前のプールに響く音はそれだけだ。
俺とジェーンは制服のまま、デッキブラシ片手に、水を抜かれたプールの底に立っている。
一学期の授業で使う前に掃除が済んでいるから、汚れなんてたいしたことはない。だからといって、突然プール掃除なんて仰せつかって「はいそうですか」 と納得できるわけはなかった。

「……点検で水抜いたから、ついでに掃除しようってことだったんでしょ」

ジェーンは片手でやる気なさそうにデッキブラシを前後させている。
俺はそれを横目に、いらだつのも隠さずにため息をついた。

「そうじゃないだろ。大体、点検のついでに掃除するつもりなんてなかったに違いないんだよ」

俺たちが掃除をさせられているのは罰だ。じゃあなんの罰かっていうと、

「なんで俺に水なんてかけたんだよ」
§
もちろん、最終的に二人で水遊びをしている形にはなっていたけれど、そもそもの発端はジェーンが、蛇口を俺に向けて放水したのが原因だった。
ただ校庭近くの水飲み場を通りがかっただけなのに、ジェーンはどうしてそんな奇行に出たのか。俺はそれが知りたかった。

「水遊びしたかったから」
「……なんだよ、君、有無を言わさず人に水をかけるのが水遊びって言うと思ってるのか?」
「だって水遊びしようって言っても絶対カミーユはイヤだっていうじゃない」
「当たり前だろ」

制服でそんなことする馬鹿がどこにいるっていうんだ。
俺は腹立ち紛れにデッキブラシをごしごしとこすった。汚れなんて微々たる物で、余計にこの行為の虚しさが強調されるようだった。
ともかく、水遊びをしていたら、校庭で野球部を指導していたアマダ先生に見咎められて、「水がもったいないだろう」と「受験生が遊んでいていいのか」というお小言をもらった。
そしてそのお小言に反するように、プール掃除を言いつけられたのだ。彼の中では受験生はプール掃除はしてもよくて、水遊びはしてはいけないらしい。どっちも大いなる時間の無駄だ。
思い出してイライラを募らせていた俺は、ジェーンが近づいてくるのに気がつかなかった。
ついでに、ジェーンがホースを持っているのも気がつかなかった。
点検の業者が忘れていったのか、ご丁寧に水圧を高めるヘッドがつけられたホースからは、猛烈な勢いで水が迸る。その行き先は、持ち主がジェーンであることから容易に想像できると思うが、他ならぬ俺だった。

「……」

頭のてっぺんから足の先まで水浸しになってしまった。
俺はもう言葉もない。水の勢いに吹き飛ばされたデッキブラシのほうへは行かず、ジェーンからホースを奪う。
本当に腹が立っていた。ジェーンはなぜか、浮かない顔をしていた。気づかないフリをして、同じように水浸しにしてやろうかと思っていたのに、自分が浴びた水の勢いがいっそ痛かったのを思い出して、やめた。
流しっぱなしの水が、スコールのように足元で音を立てている。
また、頭上を飛行機が飛んでいった。並行に描かれた二本の筋はいったいどこへ向かうのだろう。
俺はホースの先から流れる水を手ですくい、ジェーンのほうへばしゃばしゃかけてみた。反応しない。

「なんだよ、どうしたんだよ」

そこで初めて、俺はジェーンがどこかおかしいのだと気づいた。
唐突に水をかけてきた時点で気がつくべきだったのかもしれない。

「どうもしないよ……」
「嘘つけよ、なんか……変だ」
「いつも変だもん……」

いいや、いつものジェーンはこんなこと言わない。
明らかに元気がない。落ち込んでいる。

「なんかあったんだろ、言えよ」

彼女の肩に手をかけて、頭一つ低い位置の顔を覗き込もうとした。手から落としたホースは、手綱を放たれた暴れ馬のように跳ね回り、

「あ、」
「わっ」

二人の体をさらに塗らした。
§
俺は水遊びをするために学校に来たわけじゃないので、タオルなんて持っていない。もちろんジェーンもそうだ。だから二人とも濡れ鼠のままでプールサイドに腰掛けている。腰掛けたまま日差しを浴びて、服が乾くのを待っている。

「言っとくけどさ、何があったのか言わないと、俺はもうお前と口もきいてやらないからな」

半分以上は挑発、というか、軽い気持ちで言葉にした。それがジェーンの心をえぐるなんて、俺には想像できなかった。

「……ひどい」
「はぁ?」
「なんでそんなこと言うの? ひどいよ……」
「ひどいって……こっちが言いたいよ、わけわかんないのに水浸しにされ、」
「だってもう会えなくなるかもしれないのになんで口きかないとか言うの?」

ジェーンが何を言っているのかわからなかった。

「ジェーン、何言って」
「わたしカミーユのことが好き」

息継ぎせずに言い切った言葉のせいで、なおさらわけがわからなかった。

「……八月になったら引っ越すの。外国よ、遠い国なの。わたしもう、戻ってこられないかもしれない。だから、だから最後に言いたかったの」

ジェーンは、泣いているのだろうか。俺にはわからなかった。金縛りにあったみたいに、体を動かせなかったから。

「八月って……もう、すぐじゃん」
「……うん」
「なんで……言わなかったんだよ」
「言ったってしょうがないこと、あるでしょ」
「わかんないだろそんなの。お前だけ残れよ、こっちにさ。住むとこだってどうにかなるだろ」

言ってる自分でわかっている。そんなこと言われたってジェーンはもうどうしようもないのだ。困らせたってしょうがないのに。

「なるわけないよ」
「あるよ」
「なんでカミーユ、そんなこと言うの? もうどうしようもないんだよ?」

ほら、絶対彼女は泣いている。
ようやく水遊びの理由がわかった気がした。言葉で上手く説明できないけれど、要するに自棄になってたに違いない。
確かにもうどうしようもない。だけど、納得できるほど大人じゃなかった。

「じゃあお前は! 俺が文句も言わずに、“じゃあバイバイ”って、それでいいのかよ? わかってるよ、俺だって、どうにもならないのくらい。だけど俺の気持ちだってお前の気持ちだって、そんな理屈で左右されないくらい、どうにもならないだろ!」

わけがわからなかった。なんでこんなこと言っているのか、何を言ってるのか全然わからなかった。そしてジェーンは、とうとう泣き出してしまった。
俺は別に怒ってない。怒ってるけど、ジェーンに対して腹を立てているわけじゃない。

「ばか」

思い切り、肩に手を回して抱き寄せた。塩素のにおいにまみれて、鼻の奥がツンとするような気がした。

「……寮に入るとか、あるだろ」
「うん」
「考えようよ、俺も手伝うから」
「うん、うん……」

しゃくりあげる彼女の呼吸を感じながら見上げた空には入道雲がそびえていた。
夕立が来る。激しい雨になればいい。そうして洗い流した後に残るものは、純粋なものだけでいい。

「泣くなよ、馬鹿」
「だって」
「……俺は笑ってるジェーンが好きだよ」

いまだ流れ続けるホースの水を止めないまま、プールサイドの時間は過ぎていく。
夕立は、まだ来ない。









後書
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