指先は水と戯れ、鈴のような音を奏でる。俺のねむりの中へ覚醒を誘うように忍び込んできたにもかかわらず、そっと頬をなでるような甘さには粗暴な要素など何一つとしてない。
 うっすらとあけた瞼の隙間から、花子の指先が舞うのを見ている。窓から差し込むのは冷たい朝の光と、清涼な風。なんの変哲もない庭はまるで妖精の森のように見え、なんでもないはずの花子の横顔は、さながらその女王のようだった。俺に見えないだけで、実は背中に羽でも持っているのかもしれない。その羽で水面を叩いた音が、ピアノのように聞こえるのかもしれない。
 いつの間にか朝が来ていた。いつの間にか、眠っていた。テーブルの上には飲み散らかしたとしか形容できない様々がそのままになっている。花子が持ってきたシャンパンは、真っ先に二人で空けてしまった。弾けては消える泡のひとつひとつがたまらないように、目を細めて楽しんでいた花子を再び瞼に描いてみる。あまりにも楽しそうだったものだから、俺は当分あの笑い声を忘れられそうにない。これから始まる日々を思い、満面の笑みを浮かべた彼女の笑い声を。
『卒業おめでとう』
 軽やかにくすぐるピアノの音は、しかしだんだんと崩れ始めた。一つ音を外す、そうするとまた別の音も外れる。だんだんとめちゃくちゃになってくるが、演奏は決して止めない。これではまるで故障した噴水だと思い始めたころ、花子はピアノを弾きながら同時に笑い始めた。自分の演奏がおかしくてたまらないのだろう。そのくせ喉の奥だけで笑う様には妙な気品すら感じる。笑っている様すら水しぶきのようだ。くすぐられるようなこの感覚は、きっと外から吹いてくる風のせいだろう。
『これから、よろしくね』
 不意にむずがゆい言葉を思い出して、寝たふりを続けたくなる。もしも毎朝こんな風にして起こされるのだとしたら。そう考えると、不思議といやな気はしなかった。どちらがどちらを起こすのか、きっと毎日違うだろう。ピアノの音もきっと、毎日違って聞こえるのだろう。
「おはよう、聖司」
「……おはよう」
 ピアノも花子も唄うことをやめていた。わずかに熱を持った指先が、俺の額をそっと撫でていく。風はまだ冷たいが、これからきっと暑くなる。今朝も日差しは白く清潔だ。
 夏が、始まる。

夏のあなたは美しい。
夜が明けきらぬころ、東雲色のシーツに埋もれるあなたの腕が美しい。ゆるく作られた生クリームのような白の中で眠るあなたは、まるでこどものようだ。わたしは露落つまどろみの中で、限りのない無垢に触れていたい。


設楽 聖司|ときめきメモリアル Girl's Side 3rd Story