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023...でかい背中

 スラム街の路地裏なんてもの自体、いつ足を踏み入れても危ない場所だっていうのに、急いでいたわたしはそんなことすら忘れていた。夕暮れ、橙色の暗い光すら届かない場所。たむろしていた男たちがわたしに向けた視線の意味なんてわかりすぎるくらいわかってしまう。
「なんだあ、てめえ」
 酒やけした声と、違法薬物のせいでうろんな目で、わたしの足が止まる。二十代くらいの二人組からのねっとりとした視線には嫌悪感しかない。どうしよう、と、たじろいでいるうちに、手前のほうに座っていた男が立ち上がった。
「俺たちと遊んでくれるのか? え? 嬢ちゃんよ?」
「やめとけよ、そんなしょんべん臭えガキ」
 ぎゃはは、と品のない笑い声が後から続いてくる。
「ああ? どこ見てんだ、いい体してんじゃねえか、なあ? あ」
 伸ばされた手が触れる寸前、わたしは踵を返して表通りへ走り出した。怖い。怖い!
 女とみれば見境なく乱暴する連中がいることなんて常識なのに、なんで忘れていたんだろう、なんで、こんなことに……!
「おい逃げんなよ! なあ!」
 男の声が近づいてくる。いやだ!
 もつれそうな足を必死に動かして、やっと表通りにたどり着く。気温が下がり始めた秋の夕暮、そこにはまばらな人影しかなかった。
 誰か、誰か、
「助けて!」
 しがみついたのは、大きな背中だった。数人で揃いのカーキのジャケットを着ている、だからきっとまともな人たちに違いない。そう思って、死にもの狂いで飛びついてしまった。
 いきなり見知らぬ他人に飛びつかれた彼は、特に声を上げるでもなくわたしを振り返って見下ろしている。無表情に近い顔には、よくよく見れば、といっていいくらいしか驚きが浮かんでいない。
「あの、ごめんなさい、わたし……」
 どうしよう。無愛想、というか、こっちもこっちで十分怖い。飛びつく相手を間違えた。わたしは何も言えずにその場で固まってしまう。どうしよう。絶体絶命、そう思ったのに、ジャケットの彼はごく自然にわたしを背中の後ろに隠してくれた。
 大きい背中。わたしなんて隠れてしまうくらい、大きい背中。
「なあに隠れてんだ? え?」
 さっきの男が追いついてきた。恐怖で強張った指先が、緑のジャケットの裾を握りしめてしまう。
「おい、その女をこっちに寄越せ」
「……」
 彼は何も言わなかった。何も言わず、ただその場に立っているだけだった。にらみ合うこと数十秒、男は諦めたのだろう、舌打ちするとねぐらへ帰る動物のように路地裏へと引き換えしていった。
 ジャケットの彼は上背も体格も、あの男より数段勝っている。腕力では勝てないと思ったのだろう。
 男の姿が見えなくなると、頭上から低い声が降ってきた。
「……上着、」
「え……あ!」
 緊張のせいで震えが止まらなくて、彼のジャケットの端にはわたしの指先が食いこんだままだった。
「ご、ごめんなさい!」
 あわてて手を放すと、表情を変えないままの彼と目が合う。太い眉の下の、強い目。一瞬身がすくむほどに怖いとすら思ってしまうけど、他人のわたしを何も言わずに守ってくれたのだ、悪い人のわけが、ない。
「あ、あの! ありがとう、ございました!」
 返事はない。
 頭を下げたままのわたしを置き去りにして、彼は大股で歩き去ってしまった。
 緑に、赤い線が入ったジャケット。大きな背中は、「CGS」という文字を背負っていた。

§


「お願い! 一生のお願いなの!」
 店先に現れるや否や、カウンターにぶつけるほどの勢いで頭を下げたわたしを、アトラは心底驚いたような顔で見ている(に、違いない。頭を下げているから見えない)。
「……どうしたの、ジェーン?」
「あのね、今度、今度でいいから、CGSに配達に行くとき、わたしも乗せてって欲しいの!」
「えっ? な、なんで……?」
 アトラが目を白黒させるのも無理はない。わたしはクリュセのいろんな店に食材を卸したり発注を受けたりする仕事をしているだけで、CGS相手に商売をしているアトラとは立場が違う。あそこまで行く理由なんて仕事上はあるわけがない。だから、こんなことを言い出すのは個人的な理由だ。
 もちろんアトラもそのあたりのことは察していた。だからわたしが先日の出来事と、彼にどうしてもちゃんとお礼をいいたいことと、それから、もう少し踏み込んだ、もっと下心に溢れた本音を打ち明けると、アトラは自分のことのように頬を染めて、「わかった! 協力する!」などと、力強くうなずいてくれたのだった。
「よかった……わたし、名前も聞いてなくて、アトラはさ、ほら、CGSの子と顔見知りでしょ?」
「顔見知り、って、何人かだけだよ」
「でもわたしだけじゃどうしようもなかった……ほんと、助かった……」
「えへへ……大事な友達の頼みだもん、このくらいお安い御用だよ」
「なんて名前なのかな、わたしのこと覚えてるかな、忘れちゃってるかな……」
 柄にもなく前髪をくるくるといじっていると、アトラは軽く笑った。
「覚えててくれるといいね」
 それはわたしと同じ、誰かに焦がれている瞳で、それを見たわたしもまたアトラに負けないくらい、頬を赤くしてしまうのだった。
「……うん」
 
 三日後、わたしの休日とアトラの配達スケジュールがうまいことかみ合って、わたしは初めてCGSの敷地内に入っていた。タダで連れて来てもらうのも気が引けたわたしがアトラの配達を手伝うのが終わると、どうやら昼の休憩が始まったらしく、半分はテラスみたいになっている食堂内は人でごった返しはじめた。
「あ! 三日月!」
 アトラが高い声を上げる。ミカヅキという名前には聞き覚えがあるどころの話じゃない。アトラの思い人だ。名前は知っていても顔を見たことはない。そういうわけでわたしもまじまじと三日月・オーガスの姿を見てしまった。
「アトラ、配達?」
「うん!」
 年の割に背が低い。というのが第一印象。で、その背のわりに声やしゃべり方が大人びている、というのが次の印象。
「そっちは?」
 その三日月・オーガスはわたしを頭からつま先まで素早く観察した。
「ジェーン! ジェーン・バーキン!」
「……三日月・オーガス」
 何やら緊張してしまって、大声であいさつをしてしまった。三日月は自分よりも(十センチほどとはいえ)でかい女に大声で叫ばれて、少しびっくりしたように見えた。ほんの少しだけど。
 彼もそうだったけど、CGSって表情に乏しい子ばっかりなんだろうか。そう思ったとき、金髪の巻き毛の子と、髪の短い男の子が言いあうのを周りが笑っていたりする。なんだか少し安心した。彼もきっと、ああやって笑ったりしていてほしいから。
「あのね、三日月、ジェーンは人を探してるの」
 アトラが話を始めてくれた。三日月はそれを聞いて、ちょっとだけめんどくさそうな顔をする。
「うちは警備会社だよ」
「そうじゃなくて……あのね」
「こ、この前街で、助けてくれた人がここのジャケット着てたの!」
 思わず前のめりになってしまうと、三日月は嫌がるように少し後ろに下がる。
「どんなやつだった?」
 話は聞いてくれるらしい。
「えっと、背が高くて、なんかすっごい筋肉で、髪が短くて……」
「それで?」
 そんなやつたくさんいるよと言いたげだ。そりゃそうだ。わたしは必死に思い出そうとする。大きな背中、背中に……。
「あ、上着に赤い線が入ってた」
「ああ」
 すると三日月は合点がいったらしい。まわりをきょろきょろと見回すと、少し離れたところを指差した。
「アイツじゃない? 昭弘」
「あきひろ……?」
 振り返った、そこに彼はいた。あのときと同じ、無表情のままに。


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20151106