狂おしい恋の果て

最終話

天使にはもうもどれない


 聖母様、わたしはクリスチャンでもないけれど、感謝します。
 小さなわたしにとって、あなたは希望でした。ううん、違うかな。聖司がくれたから、希望たりえたのです。
 わたしは頭が悪いから、人智を超えたもののことはよくわかりません。わたしの支えは肉体を持った聖司と、彼がくれた実体をもったメダイユでした。
 わたしの愚かさや儚さが罪であったとしても、弱さゆえに得られたものがあったことをわたしは決して恨みはしません。
 わたしはわたしであることを享受し、物を考え感じ、愛を知ることができる人の子でいられることを感謝します。

§
 その建物の入り口付近には、両手を広げた女神像があった。
 メダイユの表側に、同じ格好をした聖母像が彫られている。
 祈るという行為や、或いは何かを願うということの浅ましさを厭うこと無く、わたしはごく自然にその女神像ではなく胸元の聖母像に告白した。思念を形あるものにするという行為は、それを受け取る者が存在しなくても貴いような気がした。
 一度も外したことのないメダイユは、「わたしとわたしでないもの」のカテゴリーからもはや逸脱しそうになっているような気がして、それゆえ聖母は超自然的なものではなくすんなりとわたしの中に落ち着いた。


「……さむっ」
 九月なのに、と文句を言いながらも小雨交じりの街の気温が低いのはしょうがないと自分に言い聞かせる。
 大体こっちは日本よりも高緯度なんだから、上着をもってくればよかったと後悔もした。
 足りないものはこっちで買おうとは思ったものの、この時間じゃどこの店も閉まっている。時差のせいでふわふわしているが、こちらはもう夜の時間だ。
 何かないかと思って、タクシーの中でわずかな手荷物をあさると聖司のストールが覗く。水族館に行った日に、返すのを忘れて持って帰ってしまったものだった。もうこれでいいや。
 無言のまま、タクシーは夜の街を走る。雨のせいか、人通りはあまりない。
 飴のようなパステルカラーの照明が通り過ぎて行く。濡れた路面にありとあらゆる光が反射した今日の街は、いつもよりもずっと明るいだろう。その光が、わたしの手の中のメモをかすかに照らしている。走り書きされた住所へは、空港からたっぷり四十分はかかった。
 こっちじゃチップを上乗せするのが常識なのかどうなのか、わからないけれど、とりあえず言われた額に少しだけプラスして紙幣を渡すと、タクシーのおじさんは懐っこい笑みを浮かべた。どういう意味での笑顔かわからないけど悪い意味ではないだろう。お金は多めに持ってきたし、今こそ使うべきときなのだから惜しむ気持ちもさらさらない。
 彼の住むマンションは周りのどの建物よりも高くそびえていた。比較的新しいほうなのだろうが、それでも他の、何十年も前からこの街にある建物から浮いているとは思えない。同じように、遠いところから来たばかりの孤独なわたしも、この街になじめるだろうか。
 くしゃみを繰り返しながら乗り込んだエレベーターの中は暖かかった。わたしが住んでいた安アパートと違って、壁にらくがきなんてないし、ワインレッドとベージュを混ぜ合わせたような色の床のタイルも品がいい。おまけに塵一つおちていない。ホテルと言われても信じそうなくらいだった。
 どうかこの、城のような彼の住処が、もう何もないわたしを拒まないことだけを、それだけを願った。それでももし彼に拒まれたとしたら? どうしたらいいのだろう。もうどこにも帰る場所などない。大見得切って出てきた以上、すごすごと戻ることもできやしない。
 拒絶される。そんな可能性は十分考えられただろうに、今になって思い当って、わたしは急に恐怖を感じ始める。目的のドアの前、わたしは被るように羽織ったストールを胸元でかきあわせて、インターホンをひとつ鳴らした。
 旧い映画のようなブザー音ではなく、間延びした「ピンポン」の音だけが雨の中に消えて行った。
 しばらく待っても、聖司は出てこなかった。出掛けているのか、それとも聞こえていないのか。
 遠いところからわざわざ来たのに、という憤慨は沸きあがらず、ただただ見知らぬ土地に一人取り残された寂しさだけがあった。
 くしゃみがとまらない。夜も更けていって、気温がどんどん下がってくる。
 これは風邪をひいてしまうかもしれない。
 かと言って暇を潰せるような場所も知らないし、連絡手段もないからここから動くわけにはいかなかった。
 ストールの下で二の腕をさすりながら、ドアの横にしゃがみこんだ。
 そのうち帰ってくるかもしれないし、部屋の中にいるとしても聖司は明日の朝には学校に行くために部屋から出てくるだろう。
 そう信じるほか、わたしにはできることなどなかった。
 ここからはもう、あの女神像は見えない。
§
 何か聞こえたような気がして、指先に戸惑いが生まれた。
 けれどこの防音室に何かの音が紛れ込む余地はない。来客の予定もないし、気のせいだろう。
 忙殺、という言葉のとおりに忙しかった。現状を望んだのは自分だし、余裕もないほどに自分を追い込んだのも他ならぬ自分だった。
 少しでも練度を上げようと思って毎日毎日ピアノの前にいる。見知らぬ土地で、飽きるという言葉も知らないように手を動かして、ようやく帰るべき場所に帰ることができたと実感できた。
 指先から、ハンマーが叩く弦までの僅かな距離と間すらもどかしい。もっと直感的に表現できるようになりたい。
 何度も何度も繰り返し鍵盤を叩いても物にならない悔しさしかない。尤も、すぐに到達できるようではつまらない。
 日に日に増していく手ごたえは感じているものの、どうしようもなく疲れるときもある。そういうときは、舟歌を弾くことにしている。
 簡単な曲ではない。ただ、穏やかで温かい旋律と和音が遠い昔のことを思い出させ、それは苦しいけれどやはり、俺が大事にしたいと思っている一つの記憶であり、感情だった。
 こっちに来てからというもの、時折そんなセンチメンタルな抒情ばかりを気にしている。らしくないのだと言い聞かせ、首を振りながら窓の外へ視線を移した。
「――雨か」
 そういえば、弥子がいるときはいつも雨が降っていたような気がする。それに雨の庭やら雨だれやらをせがんでいた、あいつは実は雨女じゃないんだろうか。いや、そうに違いない。
「迷惑なやつ」
 トリルがへたくそで、甘いものが好きで、猫も好きで、綺麗な灰色の目をしていた。
 今も俺の首にかかっている銀色のメダイユは、あいつの目の色に似ている。俺よりも、あいつに銀が似合う気がする。
 今度、今度会ったときは、取り替えろって、そう言おう。
 それがいつになるだろうか。俺が音楽院を出て、認められるようになるまであとどれくらい時間がかかるだろうか。
 全部が無駄ではないように祈りながら、それでも忘れられることの恐怖には抗えなかった。俺に新しい時間が訪れて、新しい世界が開けるように、弥子に対しても平等に新しい日々が訪れる。
 その中に存在する新しい人、物、景色。それらが弥子の姿をからめとって、俺に見つからない場所へさらっていくのかもしれない。
 俺は、焦っていた。

 もうすぐ夜の十時になりそうな頃、玄関先で物音がした。
 一瞬、体がこわばる。夏に引っ越してからまだ一ヶ月少ししか経っていない上に、俺にとっては初めての一人暮らしでストレスがたまっていたというのもある。それに、ここは日本ほど治安がいいわけでもない。
「鍵、かけたよな……」
 呟いた言葉に応えてくれる者もいない。当たり前だ。
 湯を沸かすために用意していた薬缶を火から下ろし、おそるおそる玄関のほうへ向かった。ドアの前に行って確認しても間違いなく鍵はかかっているし、おそるおそる覗き穴から外を窺っても何もない。向かいのマンションの柵が見えただけだった。気のせいかと思って踵を返すと、足を擦るような音が聞こえた。
 何か、いる。
 もう一度覗き穴から確認しても何も見えない。
 警察を呼ぶべきだろうか。いや、もし気のせいだったとしたら恥をかくのは俺だ。大体こっちじゃ……
 というかなんで俺がこんなに気を揉まなければいけないんだ。馬鹿馬鹿しい。
 そう思って放っておこうとは思ったが、気がかりの正体が判然としないまま夜を明かすのも気分が悪い。
「なんなんだよ……」
 そろそろとドアを開けていってもやはり何も見えない。イライラしていたのもあって、十センチほど開けたあたりから思い切りドアを開くと、何かに当たった音がした。
「でっ」
 ついでに変な悲鳴も聞こえた。慌ててドアの裏側を覗き込むと、紫色の布の塊がドアの脇に鎮座している。
 色と柄に見覚えがあった。あれは俺のストールで、去年の冬に弥子が持って帰ってしまったもので、
「痛い……」
 それがなんでここにあるのかとか、そういうことじゃなく、なんで目の前に、頭をぶつけて涙目の弥子が座っているのかというのが問題だった。
「……は?」
「痛いって言ったの」
 いやそうじゃなくて。
 弥子がブーツの底を床にこすりつけるようによろよろと立ち上がると、さっきの謎の異音と同じ音がした。
「なんでお前、ここに……」
 もう当分会えないと、会わないと思っていた覚悟が粉砕されて愕然とした。一方で拍子抜けもしていた。
 弥子は俺の間抜けな顔を一瞥し、妙にさっぱりとした顔で笑った。
「決めたの」
「はぁ?」
「わたし、もっと素直に生きてみようと思ったの。欲しいものは欲しいって言うし、もっと心から、幸せになりたいと願ってみる」
 弥子が言っていることの意味はわかったが、どうして唐突にそんなことをこの場で言い始めたのかが俺にはわからなかった。
「親のところにはもう帰らない。ちゃんと許してもらったわ。わたしはあの家じゃずっと安らげなかったって。これからもずっと。だって必要としてくれる人はみんな別々にいたんだもの。それを、わかってもらったの。わたしはここに来たかった」
「……」
 とんでもないことをやったものだと思った。反面、弥子ならばその切れる頭を駆使して良心の説得などさらりと済ませそうなものだとも思った。
 俺は混乱している。これから数年かけて自分を鍛えて、もう恥ずかしくない自分になったころに弥子を迎えに行こうと、一緒になろうと言おうとしていたのに、その目標が、目的が、俺の知らないところで俺を捕えてしまった。
「聖司に会いたいから来たの」
 そう、捕えてしまったのだ。俺は多分、もう弥子の手を離せない。
「駄目だって言っても帰らな――」
 こうして抱きしめる体の温かさだとか、柔らかさだとか、そういうものを知ってしまった俺は、俺たちはもう戻れない。
「お前は馬鹿だ」
「うん」
「お前はずるい」
「うん」
「約束したのに」
「ごめんね」
 これから俺たちはお互いを縛ってしまうのではないか。お互いの存在が、この先互いに待ち受けているかもしれないより良い未来を奪ってしまうのではないか。
 そんな恐怖は俺だけでなく、弥子もまた感じていることだろう。互いの重みを押し付け合い、受け入れ、もう二度と手放さないことの罪深さ、愚かさを。
「どこにも行くな」
「うん」
「ずっとここにいろよ、そうしろ」
「うん、うん、聖司、好きよ、愛してる」
 弥子は泣いていた。すすり泣くような控えめな声は、段々大きくなっていった。弥子が俺の前で泣きじゃくる、というより泣くのは初めてだった。わあわあ耳元でやかましいことこの上ない。
 昔は、たまに泣くくらいすればいいのにとは思っていたものの、やっぱりどこの誰が、女の涙を喜ぶだろうか。めんどうくさいことになったなと思いながら、俺もまた弥子の頭を抱えるようにして、やはり泣いていた。



『なあに、それ?』
『メダイユっていうんだ。かあさまからもらった。ひとつ、やる。ねがいごとが叶うんだ』
『ほんとう?……わたしがもらっても、いいの?』
『うん。だっておまえは、特別だから』
『トクベツ?』
『おれはおまえのことが、すきだから』
『わたしも、せいじくんがすき』
『……なあ、ガマンできるか?』
『うん?』
『おとなになるまで』
『何を?』
『おとなになったら、おれが、むかえにいくよ』
『……わたしを?』
『そうだよ。おとなになったら、ずっといっしょにいられるから』
『ほんとう?もうひとりじゃなくて、いっしょで、いいの?』
『やくそくする』



 いつかこの身に罰が降りかかる。我慢することができなかった俺たちは、己の未熟さゆえに味わうだろう痛みや悲しみを覚悟しなければならない。
 苦悩や辛さを排除することが救済だと言えるのならば、俺は多分まだ救われていないのだろう。
 同じように弥子もまた救われず、俺たちは多分一生、救われぬままにいるしかないだろう。
 それでも構わない。
 弥子が俺ではない誰かに救われるくらいなら、救われないままの弥子を、救われぬ我が身の傍において置きたい。
 弥子は自分が誰かに救われることで、そのことが俺を救済から遠ざけるのだと知っている。
 救われなくて、いい。
 それが救いにつながらなくとも、俺は祈り続ける。いつまでも、願い続ける。


 ああ、どうか。エゴイストでしかいられない俺を愛してくれ。

end

初出 2010.12.14
再掲 2015.5.27