「枝を落としたほうが、ようございますか」

 振り返った先の如月の顔は、わたしが考えていることに敢えて触れようとしない優しさに満ちていた。仇で返すようにわたしは彼女の言葉には何も答えず、再び梅の枝を見上げる。如月が言うとおり、生垣を突き破らんばかりの勢いで隣家に腕を伸ばしつつある梅の枝は落としたほうがいいかもしれない。たおやかさに隠れた無遠慮な息吹は、木肌をめくりあげるほどに現れているような気がした。
 ほころびもしない蕾が無数に広がっている光景は、この先いかに美しい景色が待っているのか知っていても、好ましくない感情だけを喚起する。今年の梅は灰色ににごった空を背景にして、よりいっそうそう思わせた。それもこれもすべて、わたしの心境ゆえに他ならない。
 顔をそむけ、最も東のほうにある枝先を、やはり無意識に見遣ってしまう。わたしがそちらばかり気にしていることには如月も感づいていたのだろう。先ほどの彼女の声に、たしなめるような固さがあったことは知っていた。
 枝が忍び込もうとするその家は静かで、人の気配すら感じられない。あの枝をばさりと落としてしまったところで誰も咎め立てしないに違いあるまい。
 常ならばそこがよく手入れの行き届いた庭だということをわたしは知っているが、今、あの庭がどうなっているのかわたしはよく知らない。
 如月はわたしの言葉を待つ間、一歩も動かずにそこにあった。彼女も彼女の母も、そして御一新の前から我が家に勤めていたという歴代の奥女中も、時の流れに取り残されたようなふるまいであったと聞く。
 従順であることは、果たして真に美徳と言えるだろうか。
 彼女にとっては子供か、あるいは孫かのような歳のわたしに、よくも付き合ってくれるものだと申し訳なくなる。
 わたしは踵を返し、母屋の方へ歩き始めた。玉砂利の道は三月にもなれば桃色を敷き詰められた、身の毛もよだつような美しさに満ちるだろう。ぞわりと総身が逆毛立つようだった。幼心にも、そして成長した今もおぞましさすら感じるこの庭を、にもかかわらずわたしは、今一度瞼の裏に焼き付けようと試みていたのだ。

§


 十一月のこの庭は、咲き始めの赤いさざんかで溢れている。
 十三年前もそうだった。
 彼は大きな目をした子供であった。ハーフである彼は、自分とはまったく違う容姿をしていたが、五歳かそこらだったわたしには、彼の出自など知る由もなければ推測もできない。ただ、あの頃わたしが知っていたどんな子供よりも、ずっと強い目をしていた。ずっと美しかった。
 わたしが見惚れたように見つめていたためか、彼もまたこちらをじっと見つめ返す。
 おそらく人生で初めて、七五三のために着物を着た彼は、居心地の悪さに対して控えめな反抗を、わずかに顔に浮かべていた。……ように思う。着慣れていたわたしにはどうということはないので、同じ年頃の少年がかくも辛苦たる表情を浮かべていることが不思議だった。
 わたしたちは何を語るでもなかった。近づきもしなかった、と思う。思い出してみればあのときの彼の強張った顔には、誇り高さゆえの拒絶すらあったかもしれない。
 ただ記憶にあるのは、赤い庭の中でこちらを見ていた存在に対する、鮮烈なまでの畏怖だった。

§


「そうね……。けれど、空条さんにご迷惑でしょうから、みなさんお戻りになってからにしましょう」
「はい。そのように、大奥様に申し上げましょう」
 小さく会釈するようなその動作は、わたしよりもずっとしとやかである。それが少し恥ずかしいような、少し悔しいような、そういう風に感じていたこともあった。しかし今はもう、それすら瑣末なことと思う。
 風が梢を揺らす。
 頭上の梅はまだ咲かないが、反面わたしの装いには、帯にも袖にも紅梅の花がちりばめられていた。裾が割れぬように気を配ることはもうしないが、やもすれば制服のときのように歩幅を広げてしまいそうになる。まだだ。まだ逃げ出すときではない。歩みにも意識を向けつつ、しかしわたしの心は垣根の上を軽々と超えていた。垣根の上だけではない。みっともなく湧き上がったこの感情だけが、ふわりと空に浮かんで、どこへでも飛んで行ってくれればどれだけよかっただろう。であればこのように、身を裂かれるような痛みを感じることもなかっただろうに。
 目を閉じる。夢想するのだ。わたしの魂は国境を越え、海を渡り、広くものを見て、多くを得る。そうしてたどり着いた先で、しかし目的としていた人物の前では結局何もできやしない。いくら言葉で飾り立てたところで、結局はわたしも肉体を持った生きた人間にすぎず、とどのつまり、望んでいるのは物理的な接触なのだ。
 あさましい。

「みなさんはいつ頃お戻りになるのかしらね」
 早く戻ってきてほしいものを、このようにしか言葉にできない。まどろっこしい会話をするのが嫌になってきたのは、高校生になってから、だろうか。わたしはともかく、同級生のほとんどは、制服が変わると同時に心の中まで少しずつ変化させているように思える。そしてその変化は、わたしにも及ぶ。己の意識の届かぬ場所まで、それは萌ゆる草木のようにいつの間にか手を伸ばす。いつまでも神子のように無垢な存在として扱われるのも嫌であるし、かといって自分がその“成長”についていけているかというと、けしてそうではないのが事実だった。もっと歳をとったならば、この情欲を、抱いている対象の本人に、あるがままにぶつけることもできるのだろうか。今はそれを考えることすら苦痛であるのに。
 古い垣根に覆われた、こんな年季の入った家に住んでいようとも、時の波には抗えない。わたしはどちらへ行くこともできず、宙ぶらりんなままの肉体を、そして魂を、この古家に自らしばりつけていた。
「ご心配でございますね」
 わたしはかつて、如月「さん」と、彼女のことを呼んだことがある。呼んで、そうしてひどく心地悪そうな顔をされた。使用人に対してそのような気遣いをするものではないと叱られたのだ。彼女たちは伸びるものを、刈る。変化を嫌い、伝統を重んじ、わたしたちを縛る。抗おうなどと考えたことはなかった。到底できやしないからだ。
 ゆえに、わたしも口をつぐみ、行動を起こさない。そのほうが楽だからだ。一応は庇護の下にあるのだから。
「ホリィさんのご容態もよろしくないと聞きます」
「はい。ですが、ジョースター様のほうで色々とお世話をなさっていると伺いました」
 彼女は、世話をしているという黒服の男たちに対しては好意的ではないらしい。何も如月だけではない。このあたりに住む人々の間では、なにやらきな臭い風体の輩が闊歩しているという、極めて辛らつな評価が飛び交っている。
 もっとも、悪評はそれだけではなかった。

 病床の妻を放って夫は何をしているのか。
 病床の母を置いて息子はどこをほっつき歩いているのか。

 まさかそれを、本人の耳に入れるようなことはさすがにしなかった。が、わたしはそれとなく、彼女の夫である空条貞夫氏について尋ねた。白い布団の中でホリィさんは、部外者にも関わらず腹を立てそうなわたしを慮ってこう言った。
 ――貞夫さん、今とっても大切なコンサートツアーの最中なの。だから、知らせないでって、わたしがお願いしているの。

 理解できなかった。
 不謹慎だが、もし何も知らされずに今生の別れともなったなら、貞夫さんは一体何を恨めばいいのだろう。あまりに残酷ではないか。あなたのためだと言って、当たり前の感情すら奪ってしまうのか。
 信じられない、といった顔をしてしまったのか、ホリィさんはわたしの手を取った。
 ――だいじょうぶ。絶対、承太郎とパパが解決してくれるんだから。

 わけがわからなかった。
 しばらく家を空けると一言だけ残してどこかへ行ってしまった承太郎に、わたしは何も言えなかった。ホリィさんの言葉から察するに、彼らがどこかへ行くことと、ホリィさんの回復には何かしらの因果関係があるらしい。
 ますます、理解できなかった。
 おとぎ話の騎士ではあるまいし、まさか世界のどこかにいる悪い魔法使いを倒せばホリィさんが救われるなんて、そんなことが現実にあるはずがない。
 けれどあの承太郎が、母親思いの彼が、こんな状態のホリィさんを残してどこかへ行くはずもないことは、わたしだって知っていた。
 知っていたから、搾り出すような「頼む」 の一言に黙ってうなずいたのだ。
 旅立つ前の、彼の沈痛な表情は暗い暗い夜の海に似ていた。
 幼馴染はまるで、得体の知れない濃霧に呑みこまれていくようだと思えた。
 しかし常軌を逸しているのはその実、わたしのほうかもしれない。広い世界に存在するものすべてを、わたしが正しく認識しているわけではないのだから。まして生まれてこのかた歩いていける距離を出たことのない、と言ってもいいほどに世間知らずのわたしが、何を知っているもないというものだろう。きっと承太郎たちのほうが、正しいに違いない。
 そう思ってみても、にじみ出るくやしさは隠せなかった。

「そうね。わたしが行ったところで、お邪魔になるだけね」
 少し嫌味が過ぎたかもしれない。わずかに緩めた歩みにも、如月は気づいただろうか。
「お邪魔ではないでしょうが、万が一流行り病などでしたらなりません。お嬢様に何かあっては――」
「わかっています」
 そうは言うものの、こっそりとホリィさんを見舞っていることは一度や二度ではないし、如月や祖母が気づいていないわけがない。黙認ではない。甘やかされているだけだ。所詮は、釈迦の手のひらなのだろう。
 先日、りんごを二つほど携えていった折には二人の知らぬ顔に出くわした。それまでは体格のよい、所謂「SP」 のような黒服の男性ばかりだったというのに、その日わたしを出迎えたのは、品のいい装いの、老婦人だった。初めて対面するのに加え、どうにも人見知りをする方であるから、とっさに何も言えずにわたしは硬直してしまう。しかし彼女はホリィさんの母親であることをわたしに教え、「スージーQって呼んでちょうだいね」 と、微笑んだ。中々達者な日本語で述べられた一連の言葉にはやはり不安の色が濃く、持参したりんごを綺麗にむいてくれた執事のローゼス氏も、同じく、なのだった。

 枯葉の一枚も落ちていない庭を踏みしめ、わたしは母屋へと、自室へと戻った。
 縁側から上がる折、背後――空条家のほうで何か嬉しげな声が聞こえたような気がしたが、きっと気のせいだろう。泣いているのは梢だけだ。
 はるか頭上の空では、うねるような風が吹いていた。
 
 空条承太郎がエジプトから戻ったのは、それから一週間後のことだった。