息子と同い歳の幼馴染があれこれと世話を焼いてくれたと嬉しそうに語る母親の顔には、どうにも余計な意図が込められているようで居心地が悪い。こういうときはとっととずらかるに限る……と思っていた矢先に、今度は別方向からの援護射撃(おれにとっては追撃だ)が飛んできた。
「花子ちゃん、とっても礼儀正しい子ねぇ〜。ああいう子が孫娘になってくれると、嬉しいわねぇ〜ッ!」
 察するにあの幼馴染は、どうやらスージーQ……祖母とも面識を持ったらしい。それも、かなり好印象を与えるようなそれだ。確かに頼りになると思っていたからこそ、念のためにと思って彼女には一声かけていたのだが、何もここまで言われるほどに熱心に世話を焼いてくれたのかと思うと申し訳のなさが先立った。祖母の、年相応の皺をさらに深くした顔に浮かんでいるのは感心の念と笑顔である。どうか、花子がいらんことを吹き込まれていないことだけを祈ったのだが、おれの祈りは母親と祖父にもみ消された。
「きっとそうなるわよママ! 花子ちゃんは承太郎のお嫁さん第一候補よ!」
「なんじゃ承太郎、隅に置けんのぉ〜」
 見るも無残なほどに締まりのない顔になってしまった母と祖父が嘆かわしいこと限りない。大体なんだ第一候補とは。おれも花子もそんなこと、聞いたこともなければその気もないだろうに。
 馬鹿馬鹿しくて返事をする気にもなれず、おれは自分の部屋へと引っ込むことにした。お袋はもうなんともなさそうではあるし、ジョセフじじぃたちとの間につもる話もあるだろう。そうやって勝手に、自分が聞き分けのいい人間であるように振る舞おうとした。そうしなければならないと思った。この旅を終えて、おれはある決意をしていた。生家の居間で思慮深い男を演じることはその第一段階であり、最初の決別である。

 ――ミスタージョースター、どうやらDIOによって「肉の芽」を植え付けられた人間は、予想以上に多いようです。
 ――そうか……予想はしておったが……。
 ――しかも、把握している限りで七か国に二十九人。未確認ですが疑わしき者も含めると……。

 祖父はうまく動かない左手で眉間を抑えた。
 
 祖父はおそらく、いや、ほぼ間違いなく、もう第一線で動ける歳ではない。言葉にすると奇妙だが、一度死んだ身でもある。
 あの忌々しい因縁がまだ枝葉を残しているのだとしたら、まったく不本意ではあるが、この自分が引き受けるしかないのだ。

 決別。おれをとりまく、平穏な日々との決別。
 かくも大げさに思いつめる必要もないのかもしれないし、勝手におれが大事だと思い込んでいるだけなのかもしれない。後になって思えば、このときのおれは数多くの“死”に接し、自覚はなくとも参っていたのだろう。それが根拠だ。
 帰国の途にひそかに決意したこの心は、祖父にだけ話している。
 いくらかほっとした、そんな顔をされた。
 ――お前まで巻き込んでしまうことは、申し訳ないと思っている。
 そう詫びる祖父がやけに小さく見えた。
 ――巻き込まれたのはお互い様ってヤツだろ。
 ――そりゃあそうじゃが、お前はまだ若い。
 お前はまだ若い。そう言われたとき、この因縁を引き受けることが未来を奪われる暗示のようで少しだけ嫌な心持だった。祖父が左手を失った理由は旅の途中で聞いていた。おれも何かを失うのだろう。腕の一本くらいですむならばいいほうに思えた。二度と返らぬ命に比べれば。

 ぎしぎしと鳴る床を踏みしめ、なんとなくあたりを見ないようにして自室へと歩む。周りを見ないのはおそらく、この家が思ったよりも狭いとも広いとも、感じたくなかったからだろう。常の自分には考えられないが、今のおれはどうにも、感傷的なものにとり憑かれたが最後、ずるずると引き込まれ、最終的に取り殺されそうな気がしていた。
 ぎょっとした。立ち止まった自室の前で、赤い紅葉の形を認めて。それが血のように見えたことが、原因ではない。油断していたのだ。唐突に突き付けられた、決別すべき過去に。ここにあって当然のものを、なぜ忘れていたのか。古い襖にそんなものが張り付いている理由を、思い出してしまいそうなのを慌てて堪えた。
「やれやれだ……」
 十年以上前からずっとここにあったものなのに、今日のおれにはおぞましさすら感じられる。これもきっと、センチメンタルか何かがおれに感じさせている幻覚に違いない。
 悪夢を振り払うようにして開けた襖の先、久しぶりに戻った自室は、何かが変わっているような気もしたし、変わっていないような気もする。しかしなぜか、まるで自分の居場所ではないようにも思えた。
 最低限の掃除だけは誰かがしてくれていたらしく、障子を開けて日差しを招き入れても、寝ぼけ眼の教室でよく見る、あのちらちらと舞う埃は見られなかった。人の生きる気配などがまったく感じられず、いっそうここがどこであるのかわからなくなる。
 いらいらしていたのかもしれない。おれは障子を開け放して庭に面した縁側に腰を下ろし、ポケットから煙草を取り出した。咥えながら見渡した庭に、こんなにも狭かっただろうかとわびしい感想を覚えるが、数日前まで広大な土地を旅していて麻痺したのだろうと思うことにする。
 昔は、なかなか気持ちがいいものなのでもう誰も叱らないのをいいことに咥え煙草で庭を闊歩していた。ごく稀に、隣から控えめな咳払いが聞こえてくることもあった。それは口やかましい家主の婆さんではなく、同い年の――
 ぎくりとする。やはり思い出してしまう。考えてしまうのだ。
 紫煙がたなびく先を目で追うと、蕾をつけた枝が隣家から伸びているのが目に入った。なんの枝だろう。おれはそんなことも、知らない。知らないままに、決別しようとしている。
 知らないままでいいのか? そう自問することもない。どうせ捨ててしまう、忘れてしまうことなのだ。ならば最初から何もないものと変わらない。
 吸い込んだ煙が、ゆるゆると口の端からだらしなくこぼれる。おれは見るでもなく見ていた。枯れ木のようでもあり、同時に風情も感じさせるような枝を。
 そのうち、まだ花も咲いていない、節だけが目立つその枝に招かれているような気がしてくる。それは勝手な思い込みだった。招かれているわけはない。歓迎されるとも思えない。
 思い上がるな。

 ――この腕以外に、失ったものもある。この左腕とは比べ物にならんほど、かけがえのない命をだ。

 おれだってすでに失くした。こんな因縁には関係などないのに、あいつらはこんなことに巻き込まれて、死んだ。
 だからもう、これ以上失いたくないのだ。おれはこれ以上何かを抱えてしまうことが、恐ろしいのだ。

 ――アメリカに来る、か。ワシがアメリカに戻ったときは女房と二人だったなぁ。

 もう何度も聞かされた話を蒸し返されて、なぜだか無性に、花子の顔が見たくなった。
 あいつを、無関係な人間を、巻き込みたくない。だからもう関わらないほうがいい。おれはこの、息の詰まるような狭い世界で生きていくことにしたのだから。
 なのにおれの理性は案外脆かったようで、気がつけば半分も吸っていない煙草をもみ消し、取るものもとりあえず外へと踏み出していた。
 さすがに庭までは手がまわらなかったのか、枯れ落ちた葉を踏み鳴らして門扉へと急ぐ。焦げたような色のくすんだ枯葉の山には、赤い紅葉などあろうはずもない。
 あの紅葉は――。
 あの襖に穴を開けたのはおれと花子だった。ふざけた結果の惨事をお袋からはとがめられるかと思いきや、「千代紙があるから、これで隠しちゃいましょ」 と暢気な提案をされての、あの補修だ。お袋が切り抜いた千代紙に、まだ小さな手のひらが不器用に糊を塗る。ふっくらとした頬の少女が、それをそうっと、襖に貼り付ける。
 花子の貼った紅葉はまっすぐに、おれの貼った紅葉は、ほとんど真横を向いていた。
 花子の頬は紅葉のように赤く、それよりもずっと柔らかかった。
 やわらかく、生命力にあふれている。


「あら……」
 なのに、いざ対面してみると気まずさが先立って言葉が出てこない。それは家のまん前で偶然出くわした彼女のほうも同じらしく、萌黄色のショールのあわせを押さえたまま何をするでもなく突っ立っているのだった。
 エジプトへ旅立つ日もこんなふうだったと記憶している。ばったりと出くわした花子の、真紅の小紋が目を刺すようだった。枯れ葉にまみれた世界で、そして冬の灰色の中で、彼女はとても、あざやかな命だった。
 きゅっと真一文字にむすばれた赤い唇がふいに緩む。
「おかえり、なさい。……わたしが言うのも、変だろうけれど」
「いや……」
 いつぶりだろうか。久しく見ていない花子は少し、やつれているような気がした。病人だったお袋がああも溌剌として、健康体のはずの花子の指先が細くなっているのは皮肉にも思える。
 白梅が控えめにあしらわれた裾や袖を見ていると、梅の香りがほのかに香っているような錯覚すら感じた。おれは梅の花がどんなにおいであるのかも、知らないというのに。
 この幼馴染は、厳格すぎるばあさんの言いつけで家では四六時中着物を着ているらしい。元をたどれば花子の家は京都にある友禅染の老舗なので、理解できるといえばできる。おれが七五三のときの着物は花子のところで仕立ててもらったらしいし、おれたちが知り合ったのも確かそのくらいのときのことだろう。
 おれは今でも思い出せる。赤い振袖をまとい、射抜くような視線を寄越していた花子を。
 東京に家がある理由は聞いたことすらないが、おれが聞いたところでなんになるわけでもないだろう。それ以外の格好は、女子高の制服しか、おれは知らない。
 ああ、そうだ。おれは捨てるまでも忘れるまでもなく、花子のことを、知らないのだ。十年以上も前から幼馴染として振る舞っているにも関わらず。
「花子、」
「なに」
 気まずい沈黙というのは、初めて味わう気がする。おれはごまかすようにああ、と、声を上げ、かけるべき言葉をようやく見つけた。
「お袋が世話になったらしいな」
 花子は「たいしたことはしていない」 とかぶりを振った。思慮深い幼馴染は昔から賢く、まるで自分の家にいる大人たちのほうが子供のように思えてくる。
「お元気なら、いいのよ。わたしは本当に何も……」
 彼女は言葉を選んでいるのか、口元に細い指先を持っていく。たいした意味などないに違いないのに、どうにもそれが、こぼれそうな言葉を押しとどめているように見えた。
 なにを堪えているのか、おれは知りたい。もしもそれが、その言葉が――
 何を考えているのだろうか、おれは。おれにとって花子はなんだ? そして、花子にとっておれはなんなのだろうか?

 花子が指先を元に戻す。その動作になぜかほっとして、おれは人知れず息を吐いた。
「本当になにもしていないから。ああ、そうだ。これどうぞ」
 桃色のちりめん風呂敷をそっと差し出す彼女は、それが快気祝いであると告げる。思い出したような息遣いは、おれとの遭遇が予期せぬものだったから、だろうか。
「ホリィさんによろしく、お願いね」
 視線を合わせようとしない彼女がじれったく、おれの声は知らずのうちに険しさを含んでいた。
「お前が渡せばいいだろ」
「ご家族水入らずのところにお邪魔するのも気が引けるから……」
 伏せられた彼女の睫は扇のようだった。放射状に広がる優美さの息遣いを、おれは視線で追おうと試みる。こぼれた吐息の白が、霞のようにそれを遮った。
「おれが持って行ってもしょうがねえだろ」
 渡すほうと受け取るほうに半分ずつ拒絶された菓子折りは、中途半端な位置に浮いたままになっている。花子は気を利かせたんだろうが、おそらくその通りに受け取ることなどおれには、できなかったに違いない。
「上がっていけよ。そうじゃねえと、おれがじいさんたちに何言われるかわかったもんじゃねえ」
「でも、」
「お袋が呼んで来いって言ったんだ」
 どうしてそんな嘘をついたのか、そのときのおれにはわからない。しかしどうやら天か運かが味方してくれたらしく、見計らったように白い牡丹雪がはたはたと散り始めた。
 花子は空を仰ぐ。目じりのあたりにふれた雪で一瞬体をびくつかせながら。
 おれの肩にも頭にも、重たい雪の片が覆いかぶさる。花子の顔は、不安がるような色を帯び始めた。このまま二人して突っ立っていたら、体を壊すに違いないとでも思ったのだろう。
「……だったら、少しだけ、お邪魔しようかしら」
 言った後に伏せた顔が、ほんの少しだけ朱に染まる。この慎み深い女は、己の言葉を恥じているのだろうか。桃色の頬を見ていると、彼女が生を謳歌していることを、呼吸を繰り返してものを食らい、眠ってはまた目覚めるであろうことを突き付けられる。
 眩しかった。
 凍てつく冬の空の下で、花子だけが、生きていた。
 後から思い返せば、きっとおれは、花子と離れたくなかったのに違いない。彼女のぬくみから離れたくはなかったのだ。
 生きているものがここにもいる。
 あの旅の日々、いっそ呪われているとすらいいたくなるような運命に彩られた狭い世界以外にも、おれのまわりには手を伸べてくれる存在が、世界があることを実感できた。それは他ならぬ花子のおかげだった。
 おれはジョースターの因縁を引き受けなければならない。しかしそれが、日のあたる世界との決別を意味するわけではない。
 きっとそれを、花子を家に連れて行くことで確認したかっただけだろう。

§


 自宅へと戻る花子に「アメリカへ行く」 と告げると、彼女は寸の間目を見開き、静かに一言述べるだけだった。
「そうなの」 と。
 雪はいつの間にか、やんでいた。