「お姉さま、何か浮かない顔をしていらっしゃいますね」
 思考の海から引き戻された先には、未だあどけなさの残る愛らしい少女がいる。最近、物思いにふけることが増え、そして毎回、わたしはこうして誰かの声によって現実に帰ってくるのだ。
「いいえ、なんでもないわ。心配をかけてごめんなさい」
 そっと自分の髪を耳にかけると、彼女も同じように、わたしよりは随分急いだようなそぶりで、髪を払った。二つ年下の彼女だけが、この華道部で唯一、熱心だと胸をはれる部員だろう。
「お姉さま」
 なぜこの学校に通う女生徒たちが、年上の女生徒をそう呼ぶのかわたしは知らない。わたし自身、誰かをそう呼んだこともないが、呼ばれることを嫌がるでもない。
 所謂「S」 という関係のことは聞き知っていたが、遠い国の話のように縁遠く、実感の沸かぬ言葉ではあった。
「お姉さまが卒業されるのが、寂しいです」
 彼女は本当につらそうにそんなことを言う。ありがたいと思う反面、そんなことでいちいち胸を痛めてどうするのだろうかとも考えた。この世界に変わらぬものなどないのだ。ひとつところにはいられないし、心が動くことを止めることもできず、人はいつか死んでしまう。
「そう……ありがとう」
 彼女がもしもこんなわたしの心のうちを知ったのなら、裏切りだなんだと責めるだろうか。そんなつもりは毛頭ないが、他人を傷つける甘い痛みを空想しては、打ち消す。
 暢気な彼女は、寄り添うようにして囁いた。
「わたくしのこと、忘れないでくださいね」
「ええ、あなたもね」
 あなたも、そんなくだらない考えはお捨てなさいね。

 帰宅途中のわたしは、むしゃくしゃとしていた。空は相変わらず晴れるでもなく濁った灰をしていて、すっきりしない光景を見たくないわたしは下を向いて早足になってしまう。
 忘れてしまいたい、捨ててしまいたい。
 こんな酷いことを考えているのだ。わたしのことなど放って、好き勝手に生きればよいのに。
 などと考えてみたところで、伝えない限りは意味も何もない。

――花子、

 低い声で呼ばれるたび、わたしはこの身が闇に溶けゆくような気分になる。
 そう、伝えなければ何を考えていてもいいのだ。そうに違いない。

 わたしはたぶん、承太郎を愛している。

 わたしが彼を如何様に思うても、彼がそれを知らなければいい。よしんば態度あるいは人の口から知ってしまったとしても、わたしは自らの口で吐露することなど決してしない。しないので、彼が追求することもないだろう。それが彼のやさしさに対する単なる甘えだとしても、わたしはそれに全力ですがろう。
 人が感じる別れの辛さは嘲笑い、己が感じるそれは崇高なものだと思い込んでいる。所詮わたしなどその程度のものだ。
 わたしは彼の隣を許されるほど、立派な人間ではない。

 本当は昨日、ひっぱたいてやろうかと思っていた。
 母親がああなっているのにふらふらとほっつき歩いてどういうつもりなのかと、もしも万が一のことがあったのならどうするつもりだったのかと、問い詰めてしまうつもりだった。
 ホリィさんの代わりに、などと弁解するつもりもない。わたしはわたしの内心の平穏のため、そうしようと思っていた。
 なのに。
 承太郎はひどく傷ついていた。ひどく疲れてもいた。
 言葉にこそ出さなかったが、もうどこにも帰る場所をもたない、捨てられて満身創痍の子犬のようだった。
 何も言えやしなかった。あんな目をした人を、これ以上痛めつけることなどできなかった。
 そしてわたしは、彼を慰め励ますこともできなかった。一見支えを必要としているように見えて、その実関わり合いになられることを、心の底から拒んでいる。
 ああ、わたしでは無理なのだ。
 すとんと心に落ちてきた結論はむごく、しかし、従うしかない事実でもあった。もしかしたらその檻を潜り抜けて、彼を癒す方法があるのかもしれない。けれど、わたしには無理だ。住む世界が、見ているものが、わたしと彼では違いすぎるのだ。
 わたしの理解が及ぼうと及ぶまいとおかまいなしに、わたしの知らぬ世界が彼の前に広がっているに違いない。それがおとぎ話か空想世界か、考えても詮無いことではあるのだが、とにかく承太郎は得体の知れない霧の世界に、その身を投じたのだ。
 そう、思うしかなかった。もちろん、打ちのめされる気分だった。望むと望まざるとに関わらず、感情の如何に関わらず、わたしたちの前には別離の道だけが示された。
 けれどそれでようやく、決別への踏ん切りもついたのも事実だった。

 ――おまえは大学へ行くんだろう。

 快気祝いを持っていったあの日、自宅まで送ってくれた承太郎は確認するようにそう問うた。

 ――ええ。Y女学院大学へ。
 ――おれは、

 承太郎は、常と変わらぬ顔をしていた。

 ――アメリカへゆく。



「花子」
 呼び止められてはっと気づいた先には、ジョセフさんがにこやかに立っていた。

§


 日が長くなった二月の夕刻、わたしたちは話題を選べずにいる。当たり障りのない会話、天気だとか気温だとか、そんなことを話しながらのっそりと歩いていては、帰宅するまでに沈黙の時の方が長くなってしまうに違いない。
 なんでも、散歩にでかけたジョセフさんは、あろうことか道に迷ってしまったらしい。見覚えもない道に、読めもしない漢字の標識で途方に暮れたところ、むっつりと黙って歩くわたしを見かけたとのことだった。
「あんまり険しい顔じゃったから話しかけていいモンか、ちょっとためらったがの」
「……すみません」
 ジョセフさんはわたしの隣を、車道の側をさりげない風に歩いている。これまたさりげない風に、歩幅を狭く保ったままで。この老紳士は、承太郎と変わらないくらい背が高いように思える――と、見上げた先のやさしいまなざしとぶつかってしまう。
 親しみやすい性格もさることながら、その目の色はあたたかく、孫の承太郎とは大違いだ。と、思った。おいくつくらいだろう、と、尋ねてみたいのをこらえる。こうして隣からちらちらと不躾に眺めている限りでは、本当の年齢について考えこんでしまう程度には若々しく思えた。
 承太郎もこんな風に歳を取るのだろうか。いいや、そうはならないだろう。彼はおそらく、ジョセフさんとは似ても似つかぬ頑固で偏屈な老人になりそうだ。
「どうかしたかの?」
「あ、いえ……」
 敏感なのだろうか。笑いをこぼしたわけでもないのに、ジョセフさんはわたしを覗き込んでくる。承太郎……孫と同い年なのだから、わたしもきっと孫扱いされているに違いない。そんな、穏やかな目だった。
 孫と言えば、ジョセフさんとスージーQさんの夫妻から「うちの孫にならないか」 と、目じりの下がった憎めない顔で迫られたことを思い出す。承太郎はうんざりしながら「やめろ」 と言っていたし、わたしもへらへらと笑いながらお茶を濁すばかりだったので、きっともうからかわれることはないだろう。
 そうだ。あれはきっと、社交辞令のようなものだ。
 だからどぎまぎするなんて馬鹿げているし、真に受ける必要だってない。第一、そんな未来は永遠に得られないのだから。
 この願いは、叶ってはならないのだから。

「花子は承太郎のこと、どう思っとるのかのう」
 あまりにも唐突だったので、わたしは歩みを止めてしまった。鞄を落としたりはしないが、唇はあっけにとられて開かれたままだということが自分でもわかる。
 一体何を言い出すのかと非難交じりの視線を向けてしまうと、ジョセフさんはすこしおどけたように、両手を挙げた。“降参”のポーズだ。
「すまん、変なことを聞いとるのはわかっとるんじゃが……」
「いえ……でもわたし、承太郎のことは、その……」
 なんだろう。承太郎とわたしは、なんなのだろう。
 友達? 幼馴染? 顔見知り?
 承太郎とこんな風に歩いたことがあっただろうか。小さい頃には、あったかもしれない。
 菜の花の咲く春の河原を、あるいはひと夏の命に燃える蝉にまぎれ、共に歩いたことはあったかもしれない。
「承太郎は、たいせつな、人です」
 必死で絞り出した答えはそれだけだった。嘘はついていない。わたしは彼のことを大切に思っている。自分が彼の重荷になるくらいならば、最初からついていかない覚悟を決められる程度には、尊重しているつもりだ。

 ふと我に返る。
 愛ゆえに身を引くのは、真に愛だろうか?

「そうか」
 ジョセフさんは目を細めた。嬉しそうにも見えた。憐れんでいるようにも見えた。
 憐れみ。そう感じてしまうのは、おそらくわたしがこの運命に満足していないためでもあるし、誰かに同情してほしかったからかもしれない。身を引くなどときれいごとを振りかざして逃げることは間違っていると、すがりついてでもついていけばいいではないかと、誰かに背中を押してもらいたかったのかもしれない。
 こんな自分が見透かされているようで、恥ずかしかった。
「ジョセフさん、帰りましょう。心配されてるかもしれませんよ」
 長い影を追い越す瞬間、承太郎とはまったく違う、異国のそれのような香りが漂った。
 アメリカ。
 承太郎もこんな香りをまとうようになるのだろうか。わたしなど忘れ去って、新しい日々の中に溶けてしまうのだろうか。
 きっと、そうなのだろう。そうなるべきであり、それが一番なのだろうから。
 承太郎がそう望むなら、わたしが入り込む余地などない。
 
 わたしは承太郎と離れるのが辛かった。それは嘘ではない。
 けれどそれと同じくらいに、あるいはそれ以上に、彼が「旅立つ」 という事実が妬ましかったのかもしれない。
 それほど仲がよかったというわけでもない。かと言って悪かったわけでもない。
 一体何がそう思わせていたのかわからないが、おそらくわたしはある種の、連帯感のようなものを承太郎に対して持っていた。だから、彼がアメリカへ発つのが妬ましく、悲しかったのに違いない。
 それも、身勝手な理論武装にすぎない。
 ただわたしは子供だったのだ。ものわかりのいいふりをして、その実何も言えずにいた臆病な子供だった。