その日の庭はひたすらに明るく、橙色の太陽の、しかし白い光に照らされていたように思う。
おれがアメリカに発つ日であり、花子の卒業式の日だった。おれは中退してアメリカのほうに編入することが決まっていたので、毎日ぶらぶらと暮らしていた。その、最後の日だった。
もうおれは、一ヶ月ほど前の自分が抱えていたつまらん絶望をほとんど克服していたと思う。この先の未来に対して感傷的になるでもなく、ただ淡々と、やるべきことについて考えていた。
縁側でぼんやりと煙草を吸っていると、やにわに玄関のほうが騒がしくなる。来客に対してお袋が、甲高い声で応えているらしい。
「あらぁ、花子ちゃん。どうしたの? 今日は卒業式じゃなかったかしら?」
「お早うございます。お見送りにいけないので、ごあいさつに来ました」
「まぁ本当? わざわざありがとうね。待っててね、承太郎を起こしてくるから」
ほどなくして小走りの足音が近づくので、おれはゆったりと煙草をもみ消した。
「あら承太郎、起きてたの。花子ちゃんが来てくれてるわよ」
「ああ」
花子とも当分会えなくなるに違いない。そのときは、その程度にしか考えていなかった。
ネイビーのダッフルコートを畳んで袖にかけた花子が縁側に姿を見せると、少しだけ鼻の頭に皺を寄せるのがわかった。煙草のにおいが残っていたのだろう。
えんじ色のセーラー服に白いスカーフ、髪にむすんだ白いリボンがよく映える。思い出した。おれはいつか、この制服が「花子らしい色だ」 と言ったことがあった。
花子は静かに床を踏み、おれの前に現れた。
「お別れを言いに来ました」
§
妙にさっぱりとした顔の彼女と並んで、しばらく庭を眺めていた。
言葉など一言もなく、時折ヒバリやうぐいすが鳴き、まれに自動車が表通りを走って行く。
玉砂利の敷き詰められた庭は、誰かが歩けばすぐにわかる。ゆえに――家人が気を遣っているのかもしれないが、まるで二人きりでここにいるような気になった。こんなことは、初めてじゃないだろうか。
「ホリィさんも、アメリカへ行くんですってね」
花子が口を開き、そんなことを言う。
おれがアメリカへ行くことになった今となっては、この家にわざわざお袋一人が残る理由もない。それに、親父はツアーが終わればボストンのレコーディング・スタジオに缶詰めになることがわかりきっていたので、ならば……ということになったらしい。
「さみしくなるわ」
花子は目を細めていた。
お袋も同じことを言っていたような気がする。これまでも花子はよくお袋から料理を教わっていたが、そこへさらに祖母まで混じってケーキだのクッキーだのを焼いているここしばらくの光景は、さすがに女三人寄ればかしましいと言うだけのことはあった。無論、実際にしゃべっていたのは身内の二人ではあるが、それでも二人だけのときとは比べ物にならないくらいにやかましい。
さすがの祖父もこれには気圧されていたようだったが、「これもあと一週間ほどじゃからのう」 と言いつつ寂しそうな目もする。おれはまったく逆で、よくもここまで盛り上がれる(お袋と祖母だけだが)ものだと、なぜか揃って着物にたすきがけの三人の背中に呆れるだけだった。
けれど、花子が別れを惜しんでいる相手が本当は誰であるのか、おれはうすうす知っていた。惜しんでいるのは、彼女だけではなかったのだから。
「別に今生の別れでもねえだろ」
「そうかしら」
ひとつ瞬きをした彼女は、まっすぐに背筋を伸ばし、真正面を向いていた。
花子が今までずっと、わずかにまとっていた花曇りの日のような影はもうない。日のさした庭で、すらりと咲いている花のようだった。
おれはふと、アメリカにも桜の名所があることを思い出した。花子を、連れて行ってもいいかもしれない、とも。
「戦前じゃああるまいし、アメリカなんて、あっという間だ」
別に花子を慰めようと思ったわけでもないし、自分が言葉通りに感じていたわけでもない。口から出た言葉は、エジプトまでを旅した身としては半分納得できるような、半分鼻で笑い飛ばしてしまいそうなものだった。花子は正座したままの姿勢を崩さず、脱力したように息を吐く。横目で見てみると、なだらかな額が朝日を受けて白く見えた。
「そりゃ、あなたにとってはそうかもしれないけれど」
「誰だって一緒だろ」
案外、気負いするほどの旅でもないと思うものだ。飛行機の中で寝ているうちに到着するようなものだし、別に乗せた人間次第で航行時間を変えるわけでもない。と、そこまで考えて、飛行機をよく墜落せしめる人間が身内にいたことを思い出して顔をしかめた。
花子はおれの様子に気づくことなく、庭を眺めたままに続ける。
「だってわたし、一人じゃ電車にも乗れないもの」
さすがに唖然とした。したが、仕方のないことなのかもしれない。花子の通うY女学院高等部は徒歩圏内だし、花子が遊び歩くという話も聞いたことがない。
「おかしいでしょう? 昭……もう平成だったわね。平成にもなってこんなの、おかしいわよね。あの家にがんじがらめにされてたせいね」
まさかとは思うが自転車にも乗れないのかと聞くと、なぜか胸を張って「もちろん乗れない」 と応える。これは確かに、平成の世にありながら――
「まるで生きた化石だな」
花子はおれの皮肉を聞き流す。
「大人になったら、たくさん悪いことをしようと思っているの」
「なんだ、悪いことって」
「……わからない。でも、いい女の子は天国へいけるけど、悪い女の子はどこへでもいけるそうよ」
花子はうふふ、と、笑った。楽しそうな笑い声だった。
おれには彼女の背中に、みずみずしい一対の翼すら見えるようだった。
花子はどこかへ飛んで行ってしまう。そんな、気がした。縛られるためにアメリカへ行くおれと、ここに残りながら、しかし精神的な自由を手に入れるだろう花子。
隣同士のおれたちの、明確な決別だと思った。おれは花子が少しだけうらやましい。きっとこいつは、そのさだめすら跳ね返してしまうだろう。しなやかでしたたかな、白い翼で。
「あの家のせいだって言ったけど、本当はわたしが何もしようとしなかったからだって、わかってるわ」
困ったように彼女は笑う。見たことのない種類の笑顔だった。
「品行方正なおまえが夜遊びでもしたら、あのばあさん、ぶっ倒れかねないからな」
「……そうね」
後になって思えば、このときすでにばあさんの具合は芳しくなかったに違いない。これからほどなくして、花子が家督を継ぐことになってしまったのだから。
「でも……たとえばあの生垣が、もしも竹で編んだようなただの垣根だったら、よじ登って怒られるような思い出ができたかしら」
花子が指差した先には、桃色の花をつけた生垣がある。なるほどあれをよじ登るのは強度的に不可能だろうが、普通の垣根ならば、そしてこどもの重さであればできたかもしれない。
なぜ花子はそんなことを言い出すのだろうか。
「そんな思い出が、ちょっとだけ欲しかったの」
その言葉に、たじろいでしまう。おれはごまかすように、花のことを尋ねる。
「ありゃなんて花だ」
「さざんか」
さざんか、と口の中で繰り返し、しなび始めた花の数を数えてみようとして、やめた。
「あのままでいいだろ。別に、よじ登ったりしなくても」
「してみたかったのよ」
それがどういう理屈なのかはわからなかった。
ただなんとなく、あの生垣はやわらかい花をつけるものでよかったとも、おれたちはこれでよかったのだとも思っていた。
花子の言うとおり、特に思い出と呼べるものがあったわけではない。花子は今もそうだが、おれですら子供のころはおとなしく、一緒に遊ぶことなどほとんどなかった。
それでも確かに、花子の言うとおり、生垣を乗り越えるようなやんちゃを発揮する機会があったなら、と、考えると心残りを否定できない。
ふとこんなことを考えた。もしもおれにこんな因縁がまとわりつくことがなかったなら、そして、花子がのびのびと翼を広げて生きていたなら、どんな未来が広がっていただろうか。
未練がましい「もしも」 は、考えたところで何の意味もない。
おれは、振り切るような声を聞いた。
「春は、なんだか悲しくなるわね」
花子はその、大きくはない手のひらをおれに向けて差し出した。なんだと思って見ていると、アーモンドのような目がおれを覗き込む。
「手、」
「あ?」
「手、出して」
珍しくなんの脈絡もなくそんなことを言いだす花子は、こどものようだと思う。
大人しく手のひらを上に向けて差し出すと、ほっそりとした白い両手が添えられる。
冷たい指先だった。
「なんだよ」
まったく意図するところがつかめずに、しびれを切らしたおれが問う。まさか手相を見ているわけでもあるまい。いいかげん引っ込めようとしたおれの手のひらを、花子は自分の頬に宛てた。
ゆっくりと一度まばたきをするだけの時間だった。たったそれだけの間、花子はおれの手の、その温度を確かめるように触れていた。一瞬は永遠のように思われ、やわらかい彼女の頬は石造りの像のようにも思えた。
彼女はこの朝に何を思うのだろうか。
あるいは、未来の花子は今日の日を思い出して何を感じるのだろうか。
そしてその頬は去る。わずかな熱はあっという間に奪われ、今しがたの出来事は夢幻のように霧散した。
「さよなら。いつまでも、お元気で」
言うと花子は、たたんでおいたコートと鞄をひっつかんで、玉砂利を蹴散らしながらかけて行った。石畳の上を往かず、軽やかな音だけを後に残して彼女は消える。
おれは、えんじ色のスカートがゆらゆらと翻るのを、いつまでも目で追おうとしていた。
何故だろうか。おれはなぜ、こんなにも喪失感を味わっているのだろうか。
別にかけがえのない存在だと、花子には申し訳ないが、思ったことはない。
花子はおれにとって、ただの幼馴染だったと思う。とは言ってもやかましくないところは好ましかったし、まれに見せた達観したようなまなざしには畏敬の念すら感じたこともある。
だがそれも今日で終わりだ。
すべてが今、懐かしい過去になってしまった。
§
「花子はもう帰ったのかのう?」
玉砂利の乱れる音を聞きつけてか、ひょこりと顔を出した祖父は――祖父もまた、一抹の寂しさを浮かべていた。地面を見つめ、口髭を撫でながら苦笑交じりにこんなことを言う。
「足跡がきれいにのこっとるわい」
「卒業式に間に合わねえんだろ」
思わず返した言葉が適切だったかどうか、考えることもしなかった。走り去った方角から目をそらすと、無性に煙草が吸いたくなる。なぜか内ポケットから上手く取り出せず、おれはもたもたと裏地に指先をすべらせるばかりだった。
祖父はおれの様子を指摘するでもなく、暢気な声を空に向ける。
「お祝いをせにゃあならんだったなぁ……」
「またいつか会えるだろ」
そうは言いながら、なんとなくおれは、もう花子には会えない気がしていた。ほとんどそれは確信に近かった。
ようやく取り出した一本を一度取り落として、おれはごまかすように乱雑に咥えた。咥えたまま、去り際の彼女を思い出した。思い出そうと試みた。
こうしてぼんやりとしているうちに、花子は過去になる。花子との日々が、数えるほどもない思い出が過去になる。
らしくない思考に陥ったおれを呼び戻したのは祖父だった。
「……承太郎はやっぱりリサリサに似とる」
昔、母にも言われたことがある台詞を再び耳にする。あのときはどんな場面だったか忘れたが、「承太郎ったら、そういうクールなところは本当におばあちゃんにそっくりねぇ」 と言われたのだ。
またそんなことを言われる理由はつまり、顔色一つ変えないおのれの冷たさのせいだろうか。
「悪かったな」
「いや、そうじゃあない」
祖父は決して、呆れてそう言っているのではなさそうだった。ではどういう意図なのかと思い、咥え煙草のまま顔を上げると、よくわからない笑みを浮かべた祖父が口元をちょいちょいと指差す。
「……やれやれだぜ」
まさか、ひいばあさんが同じことをしていたというのだろうか。
どういうわけかおれは、煙草をさかさまに咥えていた。