唄歌い

 スペース・コロニーの住環境はかなり緻密に作られている。
 巨大な円筒形の建造物の内部には回転による重力が発生しているが、これは地球とほぼ同じ1Gである。また、コロニー内に植えられた木々は大気の自給自足を可能とするために不可欠なものであるが、光合成により酸素を発生させるためには太陽光が必要なのは言うまでもない。通常のコロニーならば円筒の内部を端から端まで縦に六分割し、そのうち三つが太陽光を取り込む窓となっている。窓と居住地は交互に配置され、窓の部分は「河」と呼ばれている。河の外側、コロニー外部には巨大なミラーがそれぞれ設置されているが、これが太陽光の進入を調整している。コロニーの自転はもちろん、月軌道付近を公転するコロニーは位置によっては過剰な太陽の光をその内部に取り入れぬよう、角度を自動調節しているのだ。もちろん、ミラーの角度調整は人口的な昼と夜を作り出す役目もあるのだが。
 しかしここサイド3は違っていた。ジオン・ダイクンの提唱する理論に共感したスペースノイドたちがこぞって入植を求めた結果、居住地の不足に陥り、終には河の部分を“埋め立て”て居住地を確保する運びとなった。そうして、外から見た限りでは完全に閉じられたコロニーとなったのである。
 現在サイド3は人工太陽によって昼と夜、そして四季を管理している。人工“太陽”と言っても、その実態は本物の太陽からは大きくかけ離れている。簡潔に描写すれば、コロニーの回転軸となる長大な蛍光灯だった。膨大なエネルギーの供給を可能としたのは核融合炉の現実化であったが、詳細に関してはここでは割愛する。
 スペース・コロニーは真空の宇宙空間で人が生存するために、細心の注意も求める。精密機器と複雑なシステムに影響を与えないよう、通信機器などのテクノロジーが低いのはそのためでもある。通常、無線での通信は上記の理由から禁止されている。したがってコロニー内に張り巡らされたネットワークは有線式のものであり、場合によっては使用を制限されることもあった。
 比較的自由に使えるのは、官公庁と軍部ぐらいのものである。そもそもが個人のアクセスを困難なものにしていることにより、個人から発信される情報というものは少なかった。


「LOVELESS」


 アストライアに関するものも含めて、注目すべきような情報には出会うことはなかった。
 アナベル・ガトー中尉は端末の電源を落とした。彼が使用していたのは軍施設に設置された端末であり、情報収集には適しているが検索の履歴が逐一、諜報部に送られる。されども後ろめたいことはないし、任務による調査なのだから諜報部も気にすらしないだろう。
 上層部を疑ったわけではないが、改めて調べなおしてみても新しい情報は得られなかった。
 やはり地道にアナログな手法を取るしかない。
 そして彼は私服で街に出た。念のため尾行を警戒しながら、あくまで一般人に成りすまして書店、喫茶店、ショッピングモールをはしごした。書店では経済学のコーナーに一時間ほど滞在し、専門書を数冊購入した。もし、彼を見ていたものがいたとしてもこれなら大学生だと思われるだろうと期待して。
 空が暗くなると、彼は軽く食事を済ませて大通りを歩いていた。時刻は二十時、平日ではあるが酒場にくりだすのに不自然な時間帯ではない。特殊なギミックが内蔵された腕時計で確認すると、彼は重い扉を片手で押し開けた。

「いらっしゃいませ」
 世事になんの興味もなさそうな目付きのボーイがちらりと一瞥を向けた。客はそれなりに入っている。素早く店内を観察しながら、ガトーはカウンターに腰を下ろした。先ほどのボーイはテーブル席にウォッカのボトルを運んでいる。カウンター内には二人のバーテンダーがいる。一人はおそらく店主と思われる、恰幅も良ければ人当たりも良さそうな初老の男性。もう一人は特徴的な髪型の若い男だった。頭の頂点付近で束ねた髪が何十本もの細い三つ編みにされ、肩の上まで垂れている。彼は、ガトーと同じくカウンターについているカップルの客と談笑している。
 ふと彼は、潜入捜査に仕えそうな女性の知人がいればと、感じた。
「ご注文は?」
 店主は小さなメニューを差し出した。
「ジントニック」
 最初に目に付いたものを注文した。酒を飲みに来たわけではないのだ。彼は不自然にならない程度に辺りを見回した。
 カウンターはそこまで広くない。座れるのはせいぜい七人程度。同じく隣り合った壁面にもカウンターのようにテーブルとスツールが大体十二脚ほどあるが、その向こうには何もない。今彼が座っているカウンターとは異なり、あちらのカウンターには酒や肴はボーイが運んでいくのだろう。ただ、テーブルの数は多く、深紅のソファの数はざっと二十と言ったところだった。さすがに大通りに近い店となると、この程度が普通なのだろうか。彼は自問した。こういう場所に来ることがめったにないので、彼には判断が出来なかった。
 カウンターは出入り口の近くにあり、ここに座っていれば客の顔を確認することもできそうだ。
 さらにその先へ視線をやる。カウンターから一番離れた店の奥に、漆黒のグランドピアノが鎮座している。その近くにはスタンドマイクと音響設備が備えられ、付近の天上には照明の用意もされていた。ここにも“歌姫”がいるのかと、しばらくそこを見ていたガトーの前にグラスが差し出された。

「“セシル”なら、まだだよ」

 からかうような笑みを浮かべた若いバーテンダーだった。店主はいつの間にかどこかへ消えていた。
 戸惑うような表情をしているガトーに、彼は続けた。
「お兄さんも“セシル”目当てなんだろ?」
 さも当然のように笑ってみせる彼に、ガトーはなんと応えればよいものか一瞬言葉につまった。
 “セシル”?
 ここに来る客がほとんどその“セシル”を目的としているような口ぶりだが、何かの隠語で、それはもしかすると、彼が捜し求めている何らかの手がかりかもしれない。そうであれば、この男はカマをかけているのだろうか。ガトーはゆっくりと息を吐いた。
 “セシル”
 比較的聞くことのある男性名だ。ひょっとして、自分がピアノを見ていたことから察すれば、ピアニストのことかもしれない。仰々しい気がしないでもないが、意を決して彼はバーテンダーに応えた。
「ああ。でも早く着きすぎてしまったかな」
「遅くなるよりもいいじゃないか」
 彼は笑った。どうやらガトーの心配は杞憂に終わったらしい。
 差し出されたジントニックを一口含みながら、どうやってあのポスターのことを尋ねるか思案していた。目の前にいる若いバーテンに聞いたところで心もとないし、聞くとすれば店主に対してだとはわかっている。ただ、もしもあのポスターの女が外部の、ただの雇われモデルだとしたら。それならそれで別の対策を練らなければならない。

 “あの女は、誰だ?”

「“セシル”はあと二十分で登場だよ、乞うご期待。――なんてね」
 グラスを磨いていたクロスをひらひらと振りながら、バーテンダーは背中を見せてカウンターの端に移動していた。
 もう一度彼がピアノの方へ視線を移すと、明らかに酒場の店員でない格好の男がピアノを弄っていた。
 バーテンダーも先ほどのボーイも白いシャツに黒いベストと蝶ネクタイだ。先程の男だけは、首元には何もつけていなかったが。
 今、ピアノの“蓋”を開けてスタンドマイクをその中に差し入れようとしている男の格好は、膝の辺りが破れたジーンズに黒いTシャツ、前髪が長く顔の半分が覆い隠されている。旧世紀のポスターをまとめたデザイン集で見たロック・シンガーのような風貌だった。大方、音響機材に詳しい人間で、それこそ外部から出張してきたような者なのだろう。彼は二本あるマイクスタンドのうち一本の角度を調節しながらピアノの中に自分までもぐりこむように調整をしている。もう一本のマイクスタンドには手も触れない。
 と、ピアノの脇のドアから黒いスーツを着崩した若い男が出てきた。

 彼が“セシル”なのか?

 彼はそのまま音響スタッフに何かを話しかけるとピアノの前に腰掛ける。演奏が始まるかと思えばそうでもない。第一、そうだとしたら店の客にも何らかの異変があるはずなのだから。しかし店内は依然として雑音に満ち溢れているまま。
 ということは、彼は“セシル”ではないのだろう。
 ピアノの前の彼は視線を上げてしばし固まった。近くにいたスタッフも同じほうを見ている。これくらいなら不自然に思われることもないだろうと、それでも少し緊張しながらガトーは彼らの視線を追った。その先には、ヘッドフォンを首にかけた男がミキシングマシンを調整する姿があった。彼は左手を上げた。何かの合図だろう。
 再び視線をピアノに向けると、ピアニストの男が鍵盤の上の手を軽く動かした。
 バック・グラウンド・ミュージックを邪魔しない程度の音量で、ピアノの調べが流れる。
 ようやく客の中にも気づき始めたものが出てきたようで、ちらほらとピアノを見遣っているものもいる。PAエンジニア――音響設備の調整をする――の男はあげていた左手でOKサインを作っている。それを確認したスタッフは先程ピアニストが出てきたドアにひっこみ、BGMが変わった。サックスのソロに差し掛かっていたジャズの旋律は途中から消えるように遠ざかり、代わりにウッドベースの低音が響き渡った。
「ほら、今から“セシル”のステージさ」
 カウンターのカップルの、男性客が連れの女に囁くのがかすかに聞こえる。

 では、今から出てくる唄歌いが“セシル”なのか?

 客も会話を止めてピアノの辺りを見つめている。いつの間にか、そこには静かなスポットライトが当てられていた。ピアニストに、一つ。そして主のいないマイクスタンドに、一つ。
 頭上のスピーカーからはまだウッドベースの単調な音が流れてくるだけ。
 彼は何故か緊張していた。初めての単独捜査だからかもしれない。ここまでしておいて空振りだったら、と考えると嫌な汗がこみ上げてくる。
 ジントニックのグラスについた水滴が一つ、革のコースターに向かってこぼれた。

 カクテルドレスの女性が姿を見せたのは、そのときだった。

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