遥かなる影

 まごうことなく、その女はポスターの女だった。それはひとまずアナベル・ガトーを安心させたのだが、彼はそれ以上の落胆を感じていた。
 昨日は確かに、アストライアに似ていると思った。しかし今本人を見てみればそんなことは欠片も感じられない。むしろ、似ていると思うほうがどうかしていると言える。
 結局、振り出しに戻るのかと、舌打ちの一つもしたくなる彼を置き去りに、店内の客は“セシル”の登場を拍手で迎えていた。観客の誰とも目をあわさずに、やや俯いたまま曖昧に微笑んだ“セシル”はマイクスタンドの前で軽く息をすった。その音も、唇を開く湿ったような音も、彼の耳に届いた。ざわ、と背筋が粟立つのがわかる。が、彼は次の瞬間には“セシル”の歌声に聞き入っていた。

「LOVELESS」

 盛大な拍手で“セシル”が見送られた後には、再び雑然とした雰囲気だけが残った。ただ、違うのはほとんどの客が“セシル”の歌について会話をしていること。カウンターのカップルの女性客は未だに興奮冷めやらぬような顔をしている。

「お兄さん、何か飲まないの?」

 先程のバーテンだった。三本のカクテルグラスの脚を指先に見事に挟み込んでいる。彼の視線の先には、半分ほど残したまま温くなってしまったジントニックがある。どうするの、と訴える眼のほうへグラスを押し返しながら、
「ドライマティーニ」
「ウチの、けっこう辛いよ?」
 ガトーは一瞬、こういうところになれていないのが見破られたのかと冷や汗をかいた。が、バーテンの顔にはそういう意図は見えず、つまりこの店のドライマティーニが真実辛口であることを、彼は善意から確認しようとしているのだ。彼はそう結論付けた。
 まるで見栄をはっている大学生にでも見えたのだろう。それはそれで素性を隠せているのだろうが、些か釈然としないものがある。
「構わない」
「あ、そう。じゃあちょっと待っててね」
 カウンターの背面に設置された棚からドライジンとドライベルモットのボトルを取っている彼に、ガトーは声をかけた。
「何故“セシル”なんだ?」
「え?あの子の歌を聴きに来たんじゃないのかい?」
「いや……“セシル”は男の名前だろう?」
「ああ、そういうこと……」
 彼は顔も上げずにミキシング・グラスにボトルの中身を注いだ。軽くステアしながら、
「知らない」
「は?」
「知らないよ。大体、セシルって名前が男のものだなんて今初めて聞いたし」
 肩を竦めながらおどけた表情をするバーテンは、どうやら何かを隠そうとしているわけではなく、本当に無知なのだろう。頭がいい人間に見えない。ある意味口が軽そうだが、この男から情報を聞き出すのは不可能だなと考えていた彼の隣のスツールに腰を下ろす人間がいた。

「あら、セシルっていうのは確かに英語圏では男性名だけど、フランス語圏じゃ列記とした女性名よ。
 ――ジョセフ、ギムレットをお願いね」

「あ、ヴィオーラさん。お久しぶり。相変らずの博識ぶりだね」
 ガトーにドライマティーニのグラスを差し出しながら、ジョセフと呼ばれたバーテンは感心したように笑顔を作った。一方のガトーはといえば、なぜかばつの悪いような、しくじったような後ろめたい気になっていた。
「“セシル”の出番は?」
「今さっき終わったところだから、次は二時間後」
「そう……やっぱり間に合わなかったのね。で、今日こそは“セシル”に会わせてくれるのかしら?」
「そういうことは俺に聞かれてもねえ」
 隣に座った女は、勝気そうな顔付きにグレーのパンツスーツがよく似合っている。歳は二十代の半ばほどだろうか。ドライマティーニのグラスに手をつけず、ガトーは気取られないように彼女を観察した。
 “セシル”に“会う”?
 それがそのままの意味なのか、それとも何か他の意味を含んでいるのか。どちらにせよ、身に纏っている雰囲気はごく普通の女と比べ物にならないくらいに冷たく、刺々しい。軍人だからこそ感じてしまうのだろうか。
 他の客はおろか、カウンターで会話をしたバーテンすら何もなかったようにシェイカーの準備をしている。この、いわば殺気に感づいたと気取られぬ方がいい。さらに付け加えるなら、自分もこのような雰囲気を出さないようにしなければならないと、彼は感じた。無意識に、体が女性客から離れようとしていた。
「“セシル”に会いたいんなら、あのスタッフの人たちとか、店長に言ってくださいね」
 ジョセフがギムレットのグラスを持って女性客を嗜めるように言うと、手をひらひら振って憮然としている。
「はいはい」
「なんでまた、“セシル”にそんなにご執心なんです?」
「それは秘密」
「まあ……確かにカワイイですけど――あ、もしかしてヴィオーラさんって、」
「ソッチの趣味なんてないわよ。冗談だって笑えやしない」
「あれっ。でも、ぽいですよね? 言われません? ところで女のヒト同士って、けっこうエグそうだけど普通よりエロそうでもあるよなあ」
「アンタがそういうこと言っていいわけ?客の前でさ」
「あ、スイマセン」
 ジョセフとヴィオーラはへらへら笑いながら彼に頭を下げた。どうでもいい。
 この女から何らかの情報が聞きだせるのかもしれない。そうは思ってみたものの、堅気とは思えない女にどのように接触し、どうやって有効な情報を聞き出せばいいのかわからない。そもそも情報が有用なものとも限らない。
 結局ヴィオーラとやらは何の意味もなさそうな会話をバーテン(ジョセフと呼ばれていた)とぼつぼつ続けるだけで、最後にウィスキーをシングルで飲み終えて帰っていった。
 それを見るともなしに見送って、ガトーもまた勘定を済ませる。
 何の収穫もなしに今日もまた宿舎に戻るのかと思うと、気分が重くなる一方だった。

§

 勘定を済ませて店を出、彼はしばらく街をゆっくりと歩いた。行きがけには尾行対策を入念に済ませたが、帰りはどうしたものかと思案していた彼は、違和感に気づいた。
“尾行られている”
 人通りはかなりある。余談だがこのわずか数ヵ月後にジオン公国は国家総動員法を発令する。未だ民衆はそのような緊迫感を感じることなく、仕事帰りに飲んでいる者やら、路地裏には花街の呼び込みも顕在していた。
 誰が尾行てきているのかは不明瞭だが、誰かにずっと見られている気配がある。なるべく人ごみの中に紛れようとしたのだが、如何せん彼そのものが人より頭一つ出ていればそれだけで目立ってしまう。
 相手がわからずとも、軍の宿舎に出入りするところだけは見られてはならない。
 ゆったりとした足取りとは裏腹に、彼の心は焦っていた。こんなことならさっさと宿舎を出てどこか一般のマンションに引っ越しておくべきだったと、今更後悔していた。視線だけを忙しく動かして、どこかに隠れられそうな場所はないか探す彼の目に、黒い影が映った。

「こっち……」

 その影はキャップを目深に被り、顔を見せないように慎重を心がけた動作をしていた。高めの声とやわらかい手のひらがなければ、女だとはわからなかっただろう。
 かけられた声に誰だと聞く暇もなく、彼女は彼の手をとって小さな書店の中に入った。
 こんなところに隠れたところで何になろうかと眉をひそめたガトーを気にすることもなく、彼女は店の中を足早に突っ切った。奥に行けば行き止まり、ますます不利になる状況に、彼はいっそ手を振りほどこうと思った。そうしようとした瞬間、彼らの視界が突然開ける。
 書店の入り口が二つあっただけのことだった。入ったときとは反対側の通りに出ると、彼女はゴミの散乱するビルの隙間にガトーを押し込んだ。
「何をす、」
「黙って」
 滑り込むように彼女も入ってくる。軍人ゆえによすぎる体格が、窮屈さをいっそうのものにする。しかも、隣には得体の知れない女。何がなんだかわからぬまま、通りのほうを伺う彼女と同じ方向を見ていた。
 一分ほどそうしていると、書店の入り口から走り出してくる者がいた。
 さっきまでカウンターで隣り合わせていた女だった。苦々しい表情で通りを見回した後、掌の埃を払うような仕草をして、彼女は人ごみに消えた。
 何故、彼女が自分を追っているのか。などと自問するのも馬鹿馬鹿しい。むしろ、あの女がどこまで気づいているのかの方が心配だった。
「あの人、いつも私を追いかけるんです」
 キャップのつばに手をかけ、彼女が口を開いた。体を動かさないところから察するに、まだここから出してはくれないらしい。彼女が動かした肘が、彼のわき腹を掠めた。そういえば仕官学校時代も今も女性とこのように接近することはなかったと、今更気づいたかのように彼は顔を赤くした。
「Je suis desole」
 一瞬何を言われたか理解できなかったガトーの顔の下で、黒い髪が流れ落ちた。路地裏の饐えた匂いをかき消して、甘酸っぱい香水の香りが鼻先に広がった。
 ややきつめの化粧を施した女の顔が現れる。スポットライトを当てられることを前提にしているその顔は“セシル”だった。さっきまでのドレス姿ではないにしろ、その艶やかな髪の色もマイクに充てられていた唇の形も、間違いなく“セシル”だ。
 尾行されていたことに気づいていたのを隠すべきか否か、何故自分を助けるのか、そもそも最初にどうやって口を開くべきか考えていたのが即座に固まる。そうして、思わず口に出しそうになる。
 “何故、君が?”
 髪に指を通しながら、“セシル”は彼を見つめた。やや上目がちに。何も言えない彼に一度だけ首を傾げて彼女は勝手に得心したように口を開いた。
「あ、ゴメンナサイって言いました。英語、まだよく使えなくて」
「……は?」
 つながりも文法もおかしな文章に、今度はガトーが眉をひそめた。何とか意味だけは通じるが、ひどい訛りだ。アクセントもかなり妙なところにある。が、それでも意志の疎通を図るには問題のないレベルではある。あれこれを素早く計算して、とりあえず問題なさそうな疑問を彼は“セシル”に問いかけた。
「なんでここに?」
「あなたこれ、忘れてました。ジョセフに頼まれて、休憩のついで」
 ビニールの袋を差し出され、たどたどしい台詞を噛み砕きながらそれを受け取ったガトーは、自分が昼間に買った本を店に置いてきたのだと理解した。
「……わざわざすまない」
「どーいたしまして」
 かすかに洩れる息と一緒に、セシルは笑った。
 マイクを前にして歌っているときの色気はどこへやら。こうしているとまるで高校生でも相手にしているような気になってしまう。
「帰らなくていいのか?」
 言外に“ここから出たい”とガトーが訴えたのを“セシル”は敏感に気づいたのか。彼女は考える素振りすら召せず、
「早く帰りたいですよね、でも私はお願いがあります」
「は?」
「さっきの女、調べてほしいのです」
 息が止まりそうになるのを悟られまいとしても無駄なように思えた。
「何故?」
「さっきも言ったけど、あの女、いつも私を追いかけます」
「……」
「そういう“シュミ”の人かもしれないと思いました。けど、」
「けど? なんでそれを俺に頼むんだ?」
「敵の敵は味方」
「なるほど」
「じゃあやっぱり後つけられてたの、気づいてましたね?」
 勝ち誇ったように笑う“セシル”に、しまったと口をつぐんだときにはもう遅かった。
「しかし私はただの大学生で……」
「普通の大学生なら、つけられたりしません。貴方はきっと、後ろ暗い何かがある。違いますか?」
 ぐっと息を呑むのが、ガトーには自分でもよくわかっていた。尾行ていた女もだが、核心に近づいているのかどうかが問題なのだ。只単に頭の回転が速く、勘がいいだけなのかもしれない。が、その場合にしても野放しにしておくわけにはいかない。
「……」
「頼みました。私、またステージがあるから帰ります」
 “セシル”は髪をなびかせて走り去った。ネオンの海にピンヒールの足音をさせて。
「――冗談じゃない」
 彼女が去ったあとに香水の匂いが微かに漂っていた。深くそれを吸い込もうとしたガトーは、消えてしまった残り香の代わりに埃っぽい空気を吸い込むだけだった。

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