虹のワルツ

100. どちらの夢で逢いましょう

夕刻、喫茶店――

商店街の中にたたずむ古風な喫茶店の中は、五人グループのショッピング帰りの中年女性たち、外回りの途中らしい営業マンが席も年代もバラバラに三人、そこから離れて窓際の席にはノートパソコンを叩いているサラリーマンには見えない無精髭の男性。
そしてカウンターに、若い男女が二人。なにやら冊子やチラシの類を山のように積み上げて、女のほうがあれこれとまくしたてている。男のほうはいささかうんざりしているものの、どうにか集中力をつないで彼女の話を聞いているらしい。
結婚式の算段か、それとも新居の物色か。
カウンターの中の店員は、苦笑するでもなくシルバーを磨いているが、時折好奇心に満ちた視線をよこしている。

「ねぇ琥一くん、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」

頬杖をついていては説得力もないというもの。
桜井琥一はどうしてこんなことになったのか、カウンターのウォルナットの木目を追いながら意識を数日前に飛ばした。

夏碕から進路はどうするのかと聞かれたのが、一週間前のアナスタシア。
返事もうやむやに、どうしたものかと悩んでいたのが六日前。
父親が友人たちを家に連れ込んで、飲めや歌えの騒ぎをしていたのが、五日前。
そのときに話を聞いた、父の友人から電話がかかったのが四日前。
三日前の時点で、持ちかけられた「内装会社の従業員にならないか」 という話には傾いていた。
琉夏が北海道に向かう二日前の朝、それとなく話してみると背中を押された。
そういうつもりで話そうと思っていたところに夏碕から電話がかかってきたのが、昨日のことだった。

そして今日、彼の目の前にはおよそ集められるだけ集めたに違いない、大学や専門学校のパンフレットが広げられていた。この一週間に起こったことについては、まだ話せていない。

「お父さんの会社を継ぐのかなって思って、琉夏くんとか美奈ちゃんも言ってたし。だからね、私よくわかんないけど、建築系とかそういうところの、集めてみたの」

自分だってこの春から新大学生だろうに、よくもまぁ人の世話が焼けるものだと感心してしまう。
あれやこれやと説明を続ける姿を見ていると、楽しそうでもあるし、案外こういうことが向いているのかもしれないと、ふと将来のことに思いを馳せる。まあでもどの道自分が働いて養うわけだから夏碕の仕事は別に何でも……と、頬を緩めそうになったところで眉根を寄せた。
そうじゃねぇ。明日の食い扶持すら覚束ねぇ身で何考えてんだ。
琥一は気づかれないようにため息をついた。
大学とか専門学校は、出たほうがいいんだろうか。
そうかもしれないが正直勉強はもうこりごりだし、内装の仕事にも興味がある。そういう方面もやっておけば、後々実家の事業を拡張できるかもしれないし、と、素人判断の計画すら立ててもいる。もともとインテリアにもこだわってはいたし、自分には向いているんじゃないかと確信している。
のだが、

「でもね、やっぱり正直に言うとね、琥一くんが一流大に来てくれたら一緒にいられるのにって思っちゃう。
……今のなし!私は、関係ないもんね!」

こんな健気なことを言われると、ぐらりと揺らぎそうになるのもしょうがない。かわいい彼女のこんな言葉にぐらつかない男がいたら、いいや、いるわけがない。理屈じゃないのだ。

「ヒューヒュー!お熱いねえ、お二人さん!」

カウンターの中からあかりに茶化されるのもしょうがないだろう。もっとも、あかりはすぐに佐伯からチョップの刑を受けるだろうが……。

「え、ええっと、琥一くんは私のこと気にしないで、決めていいからね?」
「そうは言うけどよ……」

どうしたものかと腕を組む。
内装会社は東京近郊での仕事になるらしい。通えない距離でもないし、夏碕に会えなくなるわけでもない。確かに頻度は下がるだろうけど、このご時勢に高卒を正社員採用――しかも正規の手続きを踏まず――してくれるのは天恵とも言うべき僥倖だ。望んでいた自立にも一番近い。
しかし――
琉夏は多分来年の春には一流大に受かるだろうし、そうしたら琉夏と美奈子はべったりで、夏碕はいらぬ気苦労をするかもしれない。琥一を恨みはしないだろうが、少なからず嫌な思いはさせるだろう。

どうしたらいいのか見当もつかない。と、言いたくなった。

多分今自分が悩んでいるのは、贅沢に違いないんだろうと琥一は自嘲した。
それでもいい。
自分以上に悩んでいる夏碕の顔を見つめながら彼は密やかに笑みをこぼす。
この贅沢こそが、幸福に違いないのだから。

手に入れたかった、たったひとつの安らぎなのだから。

20130319