メロンコリーそして終りのない悲しみ

 空条承太郎が目を覚ましたとき、テーブルの上のコーヒーはまだ温かいままだった。
 なんとも不思議な夢を見たものだ。夢かどうかは、わからないが。
 そう思いながら小さく伸びをすると、斜め前のソファに花京院千夏がその小さな体を収めている後姿が見える。ぴくりとも動かない様子から察するに、彼女も眠っているらしい。
 否、あの世界の中にいると言うべきか。
 まばたきをして、承太郎は視線を落とす。テーブルの上にはまだ電話機の子機が乗ったままだった。フロントへ返しに行こうかと腰を上げかけて、ため息混じりに元の体勢に戻る。
「承太郎さ〜ん!」
 年の離れた叔父があわただしくロビーを駆け抜けてくるのが見えたからだ。ほかの客は仗助の大声やら切羽詰ったような顔やらにぎょっとしているし、ベルマンもフロントのボーイも顔色こそ変えずとも内心は鼻白んでいるに違いない。
 それもこれも、通話の最中に意識を失った(に違いない)自分を案じてのことだろうと思えば無下に責める気にもならないのだが、それにしたってもう少しやりようはあるだろうと言いたくなる。
 きっと仗助は眠っている千夏に気づくだろう。どうして彼女がここにいるのかも尋ねるだろう。そうしたら、承太郎は一切合切を彼に説明しなければなるまい。
「やれやれだぜ」
 もう一度受話器をテーブルの上に放り投げ、彼は帽子のつばを引き下げる。同じタイミングで仗助は彼の向かいのソファに、だいぶ行儀のよろしくない勢いを伴って腰を落ち着かせた。背後のソファの千夏にはまだ気づいていないらしい。
「よかった〜! 無事だったんですね!」
 暑い中を走ってきたのか、額には汗が浮かび息は荒い。シャツの胸元も色が変わっているのを目の当たりにして、承太郎はドリンクカウンターへ向かって手を上げた。
「心配かけたな」
「あ、いや、いいんスよ!」
 大げさに両手を振る仗助に、承太郎はボーイが持ってきたメニューを差し出す。
「なんでも頼め」
「え、いいんスか?」
 コーヒー一杯八百円からのメニューに恐縮しているのか、仗助の歯切れが悪い。
「気にするな。……どうせ元を正せば支払うのはお前の親父だからな」
「え? あ、ああ……経費とかそういう……」
 それでも何か釈然としないのか、仗助は首を二三度ひねっていたものの、結局アイスコーヒーとシャーベット三種盛りを注文した。その遠慮のなさが、遠慮をしなくなった仗助が、承太郎には少しだけほほえましい。
「それで承太郎さん、なんで電話急に切っちゃったんです?」
「……それはな、」
 どこから説明したものか。承太郎はこめかみの辺りに指先を添えて考え込む。承太郎自身がまだ完全には理解できていないのに、半分以上当事者でもない仗助はなおのこと話を飲み込めないだろう。
 ロビーには昔観た映画で聴いた、モーツァルトの協奏曲の第二楽章が流れている。その静かな旋律を掻き分けるように、少しあわただしい足音が二人のほうへ近づいていた。正しくは、二人の背後にいる千夏のほうへ。
「おじいちゃん、」
「いや、すまないね、千夏」
 承太郎は、忘れ物を届けにきたと千夏が言っていたのを思い出し、仗助は「千夏」と呼んでいる男性の声に驚いて、それぞれ老人と少女のほうへ顔を向けた。
「あっ」
「あ」
 祖父に忘れ物を手渡すために立ち上がった千夏と、思わぬ事態に腰を上げてしまった仗助。気の抜けた声でお互いを認識する二人の顔に、承太郎は笑いそうになる。たっぷりと書類の入ったクリアファイルを抱えた千夏という少女の顔を、承太郎はこっそりと観察した。
 花京院典明には、あまり似ていないと思った。髪の色味は同じような赤だが与える印象はまったく違うように思える。どちらかというと、祖父である花京院氏のほうが典明には似ていると思った。事実、仗助と会話する孫を見つめる氏の姿に、典明の姿を重ねてしまい、息苦しささえ感じてしまった。

 メロンコリーそして終りのない悲しみ。

 承太郎は誰から聞いたわけでもない言葉を胸中につぶやく。
 その悲しみは親友が残したものかもしれないし、自分が勝手に植えつけてしまった妄想なのかもしれない。
 終りのない悲しみは千夏の中にも、彼女の祖父の心中にも、そして仗助の記憶にも刻まれているのかもしれない。
 自分ではどうしようもない、何かへの、終ることのない感情の波を抱いたまま、それでも生きていく。生きていかねばならない。
 けれどそれは多分、つらいばかりではないのだから。そんな思いをすることができるのは、本当は幸福なことなのかもしれないのだから。

――でも君はもう、そんなこと知っている。千夏は、大丈夫だね。

 夏の午後に風が吹き抜けた。風が通り抜けていくような構造ではないというのに、ロビーをかき乱すほどに強い風が吹き荒れた。
 あるものは髪を抑え、またあるものは衣服の端を抑える。抱えた荷物が飛ばされないように、必死でしがみつくものもいる。誰もが大切な何かを捕まえている中、千夏は胸元のクリアファイルの中身を、宙にばらまいてしまった。
「――」
 白い紙の束はばらばらになって飛んでいく。吹き抜けの天井へ向かってらせんを描くその様は、鳥がはばたいていくようにも見える。
「あーあ……こりゃすげえや……」
 少年が呆れ、少女がうろたえる。
「あっ、あ……ご、ごめんなさいおじいちゃん」
 老人は快活に笑った。
「嵐のようだねえ」
 その言葉が表すとおり、まさしく嵐のように駆け抜けた風はやみ、かき乱された紙の束はゆっくりと舞い降りてくる。誰もが奇妙な光景に目を奪われ、しばし時を忘れたように静まり返る。
 男は、親友が悪戯な笑みを浮かべてそこに立っているような、そんな錯覚を感じた。少女もまた、同じ方を見ている。その頭にも肩にも、白い鳥が舞い降りていた。

――さようなら。またね。皆にはまた、会えるのだから。

 今日の杜王グランドホテルは実に騒がしい。
 鳥が羽ばたいていくような音とともに、たくさんの紙が降り注ぐ。それにかき消された「フルートとハープのための協奏曲」は、もう誰の耳にも届いていなかった。