花京院典明

 千夏の内面は夜明けの海になっている。あの日、僕が死んだあの日の空と、とても似ているように思えた。薄紫の水面がどこまでも続いている。漣が陽炎のように揺れ、脛の半分くらいまでをやさしく洗っていた。規則正しく聞こえてくる波の音は、きっと千夏の心音なのだろう。
 静かだ。とても、静かだ。
 穏やかで無感情な静寂が世界を満たしている。清潔な朝日に照らされた水面を、僕はじっと見ていた。
 なぜならば。
 僕は待っているのだから。その穏やかな表面が張り裂けるときを、僕はじっと待っているのだから。

 メロンコリーそして終りのない悲しみ。

 口に出してみれば、この言葉はなんて寒々しい響きだろうかと思う。悲しみに終りがないなんて、本当なんだろうか。いつまでもいつまでも、重苦しい鎖を引きずったまま生きていくなんて、そんなことが許されていいのだろうか。そんなことを、誰かに強いていいのだろうか。それは間違っているのでは、ないだろうか。
 太陽が、昇っていく。いや、あれは本当に太陽なのだろうか。
 僕は結局、明ける空を見ることができなかった。だがそれも、そう思い込んでいるだけかもしれない。死んでしまった後のことがどこまで真実なのか僕にはわからないのだから。


 風が吹いている。
 波音が聞こえる。
 誰かが歩いてくる。

 さざなみが揺れる。

「頼みを聞きいれた覚えはねえが、」

 僕は知っている。ずっと前から知っていた。承太郎は必ずここへ来ると。
 しじまの中をざぶざぶと歩んでくるのは、その力強さは、生きている者にだけ許される所業だ。僕の背後から迫ってくる生命力の象徴。僕の大事な親友。歩みを止めた彼のほうを、僕は静かに振り返った。

「とんだ貧乏くじをひかされたと思ったぜ」

 十年分歳をとった友人は、僕の顔を見るなりそんな愚痴をもらした。愚痴を言っておきながら、感情が読めない。承太郎はあの旅のころから感情を表に出すことは少なかったけれど、今はそればかりでなく、いつも無表情でいるんじゃないかと心配になる。

「ごめん、でも君なら、なんとかしてくれると思ったのは事実だ」

 そうやって何もかも押し付けてきてしまった気がしないでもない。もしも僕が十年後の今も生きていたなら、少しは承太郎の手助けもできただろう。たとえ財団がらみの仕事でなくても、話し相手ぐらいにはなれたかもしれない。そう思うのは、傲慢だろうか。寄る辺ない心を持っていた僕は、承太郎という友人を得て心強さを手に入れた。だから僕は、彼に少しでも恩返しがしたかった。でもきっとそう言ったら承太郎は鼻で笑うに違いない。
 感情を隠すのが上手くなった承太郎は、読めない顔のまま鼻息をつく。何かを言いかけて開いた口を、しかし彼は再び閉じた。
「――どうして何も、聞かないんだい?」
「何から聞いていいのかわからん」
 投げやりな態度だけど、途方に暮れているようにも思えた。立派な大人になったんだろうに、どこか子供のようなところがまだある。
「千夏とは、話した?」
「いや」
 僕は外の世界のことなど何も知らない。僕は外の世界に対して何もできやしない。
 僕がこの中で千夏の前に現れることができたのは、彼女が無意識に僕を望んでくれたからだ。僕が能動的に何かをできるわけではない。きっとそのうち千夏は僕のことなんかいらなくなってしまって、僕は海水浴の浜辺に取り残された夏の忘れ物のように、省みられることもなくなってしまうに違いない。
 そんなのはいやだ。死んだ身でも、寂しさはよくわかるのだから。
「でも、出会うことは、出来たんだね?」
 承太郎は少し、ぎょっとしたような顔になった。
「まさかとは思うが、お前の差し金か?」
「差し金って、随分な言い方じゃないか」
「違うのか?」
 僕が「心外だ」みたいな顔をすると、少し楽しそうに承太郎は笑う。旅をしていた日々に時が戻ったような気がした。もう僕には、時間なんて関係のない言葉なのに。それでも生きていた日々のことは、明確な過去だ。
「――ここは、」
 何から話したらいいのか、それは僕にもわからないことだった。今ここにいる僕の思考とはなんなのだろう。ここにいる僕は、かつて生きていた僕と連続しているのだろうか。それともこの僕は千夏が思い描いている、僕の姿をした幻影か何かなのだろうか。あまりにも不確かな存在であると自覚しているがゆえに、僕は何を話せばいいのかわからなかった。
 それでも僕は、ここにいる僕が僕であると信じたい。千夏と触れ合い、承太郎と旅をした僕なのだと信じたい。
「ここがどういう場所なのか、僕にも詳しいことは、正直に言うとわからない。けれど、僕はここで、杜王町がどんな出来事に巻き込まれるのかを知った」
 本当は、もっと先のこともぼんやりと知っている。けれど、もう僕には手も届かないくらい先のことだ。僕が手を出してはならない未来のことなのだ。
「あの子は自分が一人ぼっちだと思っている。昔は僕がいたけれど、もう僕は、死んでいる。僕では無理なんだ。僕はもう、あの子を守ることができない」
 承太郎は何も言わない。ただ穏やかな波の響きだけが静寂を乱している。
「死んだ人間が世界に干渉することはとても難しい。僕がここに留まっていられることも本当は……間違っているんだと思う。けれどここにいるから、僕は千夏にヒントを与え続けることができた。僕ではない誰かが、誰かたちが、君を待っていることを。一人じゃないんだと、伝えることができた」

 杉本鈴美という女の子については、僕も詳しくは知らないのが事実だ。だけど僕と杉本鈴美は、多分良く似ている。僕が守りたいものと彼女が守りたいものはあまりにもかけ離れているけれど、僕だって彼女がこの街を守りたいと思うのと同じくらい強く、千夏のことを守りたいと思っている。

――あたしはここに来てよくわかったの。あなたもあたしも、さようならを引き伸ばしているんだってことに。大切なことを胸に抱えてはいるけれど、ほんとうはそれだけじゃあないのよね。
 不思議ね、死んでしまったはずなのに、悲しいとか怖いとか、忘れられたくないだとか、そういうことを考えると、胸のあたりがきゅうっと締め付けられるの。悲しみは終わらない。そうなのかもしれない。
 わかってる。今度こそさようなら、なのよ。寂しいけど。でも、あたしたちのほうが、変なのよね……。

 僕もまた、別れの予感に気づいていた。
 かつて星の砂の海に呑み込まれた僕は、あたたかな風となって彼女の頬に触れた。それで最後にするつもりだった。なのに、僕にすがる千夏の魂は、一抹の未練を抱えた僕の魂とひかれあい、結果僕はガラスの檻に閉じ込められてしまった。
 出してくれなんて言わない。ここにずっといてもいい。だけど僕は知っている。それが絶対に、間違っていることを。
 水面が、少し大きく揺れた。千夏、泣かないで。
「きっと僕が生きていたとしても、いつまでも僕だけを頼っていてはいけなかった。だから、きっとこれでよかったんだと思う。……僕はずっと後悔していたんだ。スタンド使いである僕たちにはお互いしかいないのだからと言ってしまったことを。千夏の未来を狭めるようなことを、口にしてしまったことを」
 そんなことはうぬぼれていると、思い上がりだと言われるだろうか。いや、言ってほしかった。
「ずっと僕のことを考えていてくれる、それは、本当言うと少しだけ嬉しいんだけどね。でも、忘れられてもいいんだ。そのほうがいいかもしれないんだ。重たい鎖みたいに、あの子の脚に絡まっているなんて、みっともないだろう?」

 僕はたぶん、断罪されたかった。
 この身勝手な魂への罰を与えてほしかった。
 それが千夏でも承太郎でも、杉本鈴美でも誰でもいい。誰か僕の魂をひっぱたいて、ひきずって、ここから連れ去ってくれればよかった。
 承太郎、僕が救ってほしかったのは千夏じゃない。僕は、僕は――
「花京院」
 静かな凪のような目が、僕を見つめている。何の感情も宿さないような深い海の色が、僕は少しだけ恐ろしかった。それでも僕は知っている。彼はいつだって、やさしさを含んだその強いまなざしの色を変えなかったことを。
「鎖を引きずって生きていくのか、どっかで捨てちまうのか、引きずっていくとしてそれを重いと感じるかどうかなんてのは、本人が決めることだ」
 承太郎は胸ポケットに片手を突っ込んだ。きっと煙草を取り出そうとしているんだろうけど、何かに気がついたのか、何もつかまないままの手のひらを元通りに戻す。
「お前がどうこう言うことじゃねえ」
 挑発的な笑みはあのころのままで、僕はまた、あの旅の日々に戻れたような気持ちになった。
「お前の親戚――はとこだったか? まぁとにかく、信じてやれよ」
 きっとできるさ。そう言われているようだった。僕は許されたのだろうか。許されたかったのだろうか。
 一陣の風が吹き抜ける。シュプールのように広がる波の軌跡が、僕と承太郎の間を駆け抜けていく。
 今、僕の目の前にいる承太郎は僕の知っている承太郎だろうか。それとも僕の身勝手が生み出した、幻想にすぎないのだろうか。
 いいや、そんなはずはない。僕は承太郎を、僕のことを信じてくれた彼の言葉を信じる。そして彼が背を押してくれたのだから、僕は千夏のことも信じようと思った。
「ありがとう、承太郎。君に出会えたことは、僕の人生のよろこびだ」
 僕は本心からの感謝を伝えたかったのに、承太郎は「冗談きついぜ」と言わんばかりに、眼前で手のひらを振る。
「よせよ気色悪ぃ」
 案の定の返答に、僕らは二人して笑ってしまった。笑う二人を白み始めた空が包んでいく。
 承太郎の足は砂のような光の粒子になって、さらさらと解け始めた。さようならのときが来た。それは、僕だけじゃなく承太郎も理解しているようだった。
「……最大級の褒め言葉をありがとよ。じゃあな」
 また明日会えそうな気軽さで、帽子のつばを引き下げながら承太郎は消えた。
 さようなら、空条承太郎。
 僕は君という友人に出会えたことを心から幸いに思うし、誇りに感じている。僕は君の人生に、僕という存在がよいものとして刻まれることを願っている。
 さようなら、承太郎。

 風が吹いている。
 波音が聞こえる。
 誰かが歩いてくる。

 さざなみが揺れる。


 また、波をかき分ける足音が聞こえてきた。目を閉じてまた開けたとき、僕の目の前にいるのはきっと千夏に違いない。
 ああ、ついに来てしまった。別れのとき。永遠の決別。
 世界の終わりを僕は思い描いている。それは夢幻でも嘘でもなく、必ず到達する、未来と今の光景。

 ドームの天井は、割れる。ついに割れてしまう。
 爆撃機でもとびうおでもない。この瞬間を誰かが望んでいたわけでも、ないのかもしれない。
 それでも彼女はここから飛び立つことを選ぶだろう。終わらない夢から覚めることを決意するだろう。
 その肩に、小さな頭に、白く透明な虹の破片がふりそそぐ。
 まるで雪のように。
 まるでやさしい雨のように。