虹のワルツ

15.理解と愛情無き同情(琥一)


交差点で信号待ちをしていると、寒さで体が震えているのか単気筒のエンジンの振動なのかわからなくなる。そう言っていたのはルカのやつだった。
瑞野の家まで、単車で20分ってとこか。まだ11月なのに、日が落ちるのは早く、風は冷たい。寒がりのルカをこうして迎えに行くのにも慣れたかもしれない。

てっきり、瑞野の家の前にいるもんだと思っていた俺は、誰もいない玄関先の表札を確かめに一々単車を降りなきゃならなくなった。瑞野……あってるよな。まさかルカのやつ、家の中に上がりこんでんじゃねえだろうな。
『はーい。コウ?』
インターホンを押して、何と挨拶するべきか頭を使った時間を返せ。聞こえてきたのはルカの声だった。
「おま……なにしてやが」
ブツン。切られた。人んちじゃなきゃ玄関を蹴っていた。ややあって、ばたばたと駆けてくるような足音がして、ドアが開く。
「てめえルカ!なにして」
ルカだと思っていた足音の主は瑞野だった。
「………………」
「…………」
「……こんばんは」
「違う違う!夏碕ちゃん、こうでしょ?“おかえりなさい、ご飯にする?お風呂にする?それとも……”」
隠れていたルカの頭に拳骨をくらわせると、ヤツはさすがに黙った。ちぇーとかなんとか聞こえたように思うが気にしない。
「帰るぞ」
「琥一くん、」
ルカの首根っこを掴んで引きずろうとすると瑞野に呼び止められた。
昨日は色々あって、正直顔を合わせるのが、少なくとも俺は気まずい感じがする。何の用かと振り向くと、瑞野が(よく見るとエプロンをつけていた)こう言った。
「ご飯、食べていかない?っていうか、用意してるんだけど……」
夕飯?

実家に比べればこじんまりとしたキッチンに入るとうまそうなにおいがした。コンロに大きな鍋が一つと、小さな鍋が一つ、かけられている。椅子に座ろうとすると瑞野に止められた。「手を洗ってきてね」細けえよ。
しょうがないのでルカと連れ立って洗面台で手を洗った。泡で出てくるハンドソープの匂いとか、水色でまとめられたマットやタオルが、俺たちの住処にはないものだったから、新鮮だった。
「おい、なんでこんなことになってんだよ」
ルカに聞くと、アイツは石鹸の泡で半分遊びながら「俺もわかんない」と言った。なんだそりゃ。

「うちの母さんが今日は出掛けて外で食べてくるはずなのに、どうしたことかしっかり準備していってるから……半分は、できれば消費を手伝ってもらおうと思って」
もう半分は、二人ともまともな食生活じゃないって美奈子ちゃんから聞いたから。
納得できそうな、そうでないような弁解めいた説明をしながら、瑞野は紅葉柄の小鉢(小鉢っつっても俺の手に丁度収まるくらいでかい)に筑前煮を綺麗によそって、俺たち二人の前に差し出した。ニンジン、レンコン、ごぼう、たけのこ、鶏肉、ところどころに鮮やかなきぬさや。ルカが「おいしそう」と、小鉢の中身を眺めている間も、瑞野は甲斐甲斐しく動き回って味噌汁と湯豆腐を順番に食卓に並べた。
「夏碕ちゃん、俺ごはん大盛り!」
「はいはい」
楽しそうに笑う瑞野を見て、ちょっと安心した。昨日のことはもう平気なんだろう。と、同時に、やっぱりルカは俺にできない、人を明るくさせるようなことが難なくできるやつなんだと思い知った。小ぶりの茶碗に溢れそうなほどのご飯を、ルカが嬉しそうに受け取っているのをぼんやりと眺めていた。
「琥一くんも大盛り?」
「――いや、普通で良い」
しゃもじと茶碗を手にした瑞野に返事をするのがちょっと遅れた。

ダイニングテーブルの片側に俺とルカが並んで、向かいに瑞野が一人で座った。
「いっただっきまーす!」
「……いただきます」
「はい、召し上がれ」
今の食生活はいうまでもないが、実家にいたころも和食はあまり食べなかった。煮物なんて食うのはいつぶりだろうと考えながら、レンコンを口に運ぶ。うまい。
「おいしい。夏碕ちゃん、いい奥さんになるよ」
「琉夏くん、それ母さんが作ったんだからね?」
わかってる?と言いながら、瑞野の顔は笑っていた。ルカもわかってて言ったんだろうことは顔を見ないでもすぐわかる。
「でも湯豆腐は夏碕ちゃんが作ったし」
「茹でただけじゃん……もー、褒められてるんだかけなされてるんだか……」
「褒めてるよ?」
じゃあ、ありがとう。瑞野は言うと俺に視線を移した。
「琥一くんは和食、大丈夫だった?」
「あ?なんでだよ?」
「だってコウ、アメリカかぶれだから」
それを瑞野に言ったのかよ。ルカは茶碗を持った左手をテーブルについていたがために瑞野に「行儀が悪い」とたしなめられた。いつか喫茶店で、小波にストローをいじるのが行儀悪いといわれたときはしばらくそのままだったのに、瑞野に言われるとすぐ直す。
「ま、たまには悪かねえ。美味いしな」
ルカが言った、いい奥さんになるというのは、何も料理のことだけじゃないんだろう。俺はそう思う。けど、
「よかった。二人とも偏った食生活だから、ちゃんと食べないと駄目だよ」
「はーい、お姉ちゃん」
ルカがふざけて返事をした。いつも笑って「またそういうこと言って」とかなんとかで流す瑞野が、ちょっとだけ黙り込んだ。
「どうした」
「ううん。兄弟がいたら、こんな感じだったんだろうなって思って。一人っ子だから」
二人がうらやましいな。
どうだろう。俺はルカの顔を見ることができなかった。かもな。それだけ言うと、俺は味噌汁の椀をとる。具は大根と白菜と油揚げだ。
それからとりとめのない話をしながら、一人っ子が一人と、元一人っ子が二人の晩餐会は終わった。

「ごちそうさま。お母さんによろしく言っといてね」
バイクを暖気している俺の横で、ルカが瑞野と話していた。
「片付けしなくていいのか?」
「大丈夫、食洗機に入れるだけだし」
瑞野はエプロンをつけたままで玄関先に出てきていた。
「気をつけてね」
「だってさ。コウ」
「わーってるよ。 ―じゃあな」
走り出したSRのミラーに、手を振る瑞野の姿がしばらく映っていた。
吐き出す息が白い。もうすぐ12月を迎える空を見上げると星が綺麗に煌いていた。はばたき市の空もわりと捨てたもんじゃねえなと、最近よく思うようになった。
ルカはずっと黙っていた。単車に乗るときにべらべらと喋ったりはしねえが、それでも一言も喋らないなんて珍しいこともあるもんだ。生命力というか、そういうものの影が儚いコイツが本当に後ろに乗っているのか不安になって軽く首を回すと、ルカは俺と同じように空を見上げていた。心配させんじゃねえよと心の中で悪態をついた後に、俺は自分にもうんざりする。別に甘やかしているつもりはないが、ずっと前からこうして気にかけているのが普通になっちまって、いつこの手を離せばいいのかわからなくなる。いや、離すんじゃない。誰かが奪っていくのを俺は待っている。そして、ルカの手を奪っていくのが誰なのかは、俺はずっと昔から知っている気がした。
交差点で赤信号につかまると、ルカが俺の肩を軽く叩いた。
「ご飯、おいしかったな」
「ああ」
「……コウ、俺さ、年末帰るよ」
「―そうか」
そうだ。いくらアイツが気が利いて料理が上手くても、ひっくり返ったってルカの姉貴にもお袋にもなれやしない。……嫁にはなれるかもしれないが、それはほぼ確実に、ないだろう。
もし今日、ルカがお袋のことを忘れてしまうんなら、俺は兄貴としてルカをひっぱたいてやるつもりだった。
いらん心配だったみたいだが。
「でもさっきも言ってたけど、美奈子ちゃんと夏碕ちゃんと四人で、West Beachですき焼きも良いと思わない?」
すき焼きか。
「そうだな」
四人いりゃあ、いい肉が食えそうだしな。クラッチをつなぎながら、ゆっくりとスロットルを回す。SRは海へ向かう。

20100719