虹のワルツ

44.会える日にはバツ印を(琥一)


SRのタンクに映った自分の顔は、どう見たって愛想がいいとは言えない。どちらかというと、というかそのまんま、ルカが言うとおりの悪人ヅラってやつなのかもしれない。そう思うとますます眉間の皺が深くなっていくような気がする。
スポンジを持った手を止めてため息をつくと、磨き上げられた黒いタンクがかすかに曇った。
「ヒュー、気合入ってるな」
頭の上からルカの声が降ってくる。West Beachの自室の窓から身を乗り出してこっちを見てたらしい。
見上げると、意地の悪い笑みの上にチェシャ猫のような弓なりの目を載せている。
「バカ、そんなんじゃねえ」
「先週洗ったばっかりなのに?」
「……そりゃオマエ、……ここんとこ乾燥してたからな。砂埃が積もって――」
言いかけて、ルカがニヤニヤ笑いをいっそう強めたことに気がついてやめる。
「…………悪いかよ」
「ううん?」
窓枠の上で組んだ両腕の中に顔をうずめているのは、潮風の冷たさの所為じゃないだろう。
「きっかけがないと、踏ん切りってつかないもんな?」
「……何の話だ」
「え?さあ?」

ルカの言うきっかけも踏ん切りも、別に俺がどうにかしたわけじゃなかった。

“琥一くん、今度の土曜日の夕方、ヒマ?”

文字にするとたったコレだけを言うのに、アイツはたっぷり20秒は費やしたんじゃないだろうか。
今週の水曜日、昼休みだったか。三学期の初めに窓際の席を引き当てたおかげで、俺はこのところ穏やかな午後の日差しの中でぼうっとしていることが多い。
その日も例のごとくグラウンドを眺めていると、傍らに人の気配を感じた。顔を向けると瑞野が立っていて、なにやら物言いたげな視線を俺に向けている。
「なんだオマエ、どうした?」
そう問うしかないだろう、こんな状況だったら。俺の問いに、アイツは質問で答えた。それが例の、20秒の質問だった。
「え……っと、……琥一くん…………こ、今度の土曜日の夕方、その……ヒマ?」
「――ああ、空いてんな」
ちょっと驚いて返事が遅れた。頬杖の一部になっていた左手を頬からはがす。
ヒマかどうか聞いてきたくせに、俺の予定がないことを知るとアイツは何やら落胆したような顔を一瞬だけ見せた。
「あ……えと、ライブのチケットがあるんだけど……」
尻切れトンボになった申し出に驚くしかなかった。理由は二つ。
一つ目、コイツからそもそも、どこかに出掛けようなんて誘われたことがなかったから。
二つ目、しかも目的地がライブハウスなんて、一番行きそうにないところを自ら選んだ……わけではないのかもしれない。
「友達が、チケットくれたんだけど、その……あ……」
爪が切りそろえられた綺麗な指先を口元に持っていって、言いよどんでいる。失礼ながら笑いたくてしょうがなかった。
ライブハウスなんて、今時のちゃらちゃらした音楽しか流してないに違いないと思っているから行ったこともなければ行こうと思ったこともない。
けど、ここで断ったりすれば、こういうことに場馴れしていない瑞野は大ダメージを食らうだろう。痛恨の一撃ってやつだ。
見くびっているわけじゃないし、逆に買い被っているわけでもない。ただ――
「ああ、かまわねえよ」
「えっ」
上気した両の頬に手を当てて、目をまん丸に見開いている。
「なんだ?」
「――あ、ううん!なんでもない!えっとそれじゃあ、待ち合わせとかは……」
俺がライブハウスに行くっていうのは、そんなにおかしいことだろうか。
まあそれはともかく、浮き足立っている瑞野からチケットを受け取ると、『OPEN 17:30  START 18:00』の文字が躍っていた。
派手なチケットだな。しかしどのくらいの時間、ライブハウスに拘束されるんだろうか。
「土曜か……」
「どうかした?」
「いや、遅くなるんなら先に晩飯食っといた方がいいんじゃないかと思ってな」
瑞野は「ああ」と納得したような顔で二三度頷いた。
「ええと……それじゃあ……」
「……せっかくだからどっかで飯食ってから行くか?」
「へっ」
裏返ったような瑞野の声で、俺は一瞬「まずったか」と、後悔していた。
変な勇気は出すもんじゃねえか。痛恨の一撃を受けたのはこっちだったかもしれない。
「い、いいの?」
そうではなかったようだ。むしろ会心の一撃。
「それなら……私、商店街にいいお店を知ってるんだけど」
どうかな、とはにかむ彼女の髪が、窓から入ってきた風に揺れた。
喫茶店で、ランチセットみたいなものを時間の限定なく出しているらしい。トマトソースのパスタが美味いんだとか。
「へぇ、じゃあそこでいいか」
「うん……じゃあ、場所は商店街の入り口で、時間は……」
「4時半でいいか?学校終わって、一旦着替えてから集合な」
遅くなって、制服で繁華街をうろうろするわけにはいかねえ。俺はともかく、コイツが補導されでもしたら大事だ。
「わかった。商店街入り口に、4時半ね?」
「おう」
話がついたので、瑞野からチケットを一枚受け取った。
『Only you』と書かれているのは、イベントの名前だろうか。
「……琥一くん」
「あ?」
顔を上げると、流れた髪を耳にかけながら瑞野が笑っていた。
「――ありがとう!」
満面の笑みっていうのは、こういう笑顔のことを言うんだろう。見たこともないくらいに楽しそうなのを見ていると、俺まで嬉しくなる。
それには多分ちゃんと理由がある。
瑞野が喜んでいる理由は俺が誘いを受けたからで、どこかほっとしているのはきっとこんなことをするのは人生で初めてだからで、その初めての相手が俺だってことで、また俺は喜んでいた。


「……青春だ」
緩みそうになる口元を、歯をくいしばることでこらえているとルカの声で我に返った。
「あぁ?」
チェーンに挿されたオイルの余分を飛ばすべく後輪を空回しさせるために立ち上がった俺は、ついでにルカのほうを見上げた。ニヤニヤしてやがる。つーか、俺の今日の予定を一体誰から聞いたんだコイツは。大体見当はつくけど。
「お兄ちゃんにもようやく春が来て、俺すげえウレシイ」
「何抜かしてんだバカ」
相手をしている暇はない。待ち合わせまであと30分だ。
センタースタンドを立てたまま一度SRに跨ってエンジンをかける。咳き込むような音の後に、小さな爆発音が一つ続いた。乗り始めた頃は、俺もルカもキックスタートが出来なくて苦労したもんだった。今となっては一発でかけられるけど。
俺はギアを一速に入れて、クラッチを切ったままSRの正面に立つ。丁度、スロットルとクラッチが左右逆になるように。こうしないとチェーンから飛び散ったオイルが脚を、というよりは服を汚すから。ルカは気にしないようだが俺は気にする。そもそもアイツは俺の服着やがるし……いや、整備はほとんど俺がやるからいいのか。
左手を逆にまわして地面から浮いている後輪を回転させ始めると、単調な音が冬の空に吸い込まれていった。

20101005