虹のワルツ

52.橙色した恋ごころ(夏碕)

午後の陽射しも夕暮れに向けて穏やかになり始める頃、散り始めた桜を横目に見ながら人気のない廊下を歩く。
特別室棟からは、吹奏楽部の管楽器の音がまばらに聞こえ、校庭では野球部の威勢のいい掛け声が飛び交う。
穏やかな午後なのに、どうしても憂鬱な気分をぬぐえない。
ため息をつきながら生徒指導室の前を通りがかると、いきなり開いたドアに飛び上がるほど驚いてしまった。
「あ」
「……琉夏くん」
生徒指導室から出てきたということは、また何かやらかしたのだろうか。口を開きかけた私を遮って、彼は顔の前で手を振った。
「何もしてないよ、俺」
「え、私だって何も言ってな……」
見透かされていたようで気まずくなる。入り口の前でこうしてうだうだと喋っていると、特徴的な咳払いが聞こえた。
「話し込むならそこをどいてからにしなさい」
氷室先生だった。
「はーい」
「すみません」
「ふむ。二人ともあまり遅くまで残らず、早めに帰宅するように」
施錠しながら言う氷室先生の言葉には、受験生なのだからという意味も含まれているんだろう。また、鉄の塊を呑み込んだような冷たく重い感覚が胸の奥で詰まった。

「何してたの?」
人気のない廊下は声が響く。琉夏くんに尋ねると、困ったように彼は笑う。
「なんか、進路指導で呼び出されてた。進学する気はないのかとかなんとか。俺、担任ともその押し問答したのにさ、疲れちゃった」
昇降口まで歩きながら、琉夏くんはゆっくりと(本当に疲れているのかもしれない)話してくれた。氷室先生は琉夏くんの数学のセンスをもっと生かして欲しいと思っていることや、一流大にいる先生のこと。
琉夏くん自身はどう思っているんだろうと尋ねようとすると、彼はスニーカーに足をつっこみながらやや投げやりに背伸びをした。
「あー、ホント疲れた」
普段の、のらりくらりとした琉夏くんを知っているから思わず笑ってしまう。気を遣わなくていい相手だと思っているけど、本当は琉夏くん、そう仕向けているんじゃないだろうか。最近、そう思うようになってきた。
私のそんな疑念をよそに、琉夏くんは廊下の窓枠に凭れて提案した。
「夏碕ちゃん、帰るんなら甘いもの食べていかない?」
「私と?」
「うん。たまには二人で放課後デートもよくない?」
まばたき一つとってもどこか浮世離れした雰囲気に、きっと他の女の子なら一も二もなく着いていくだろう。
「ごめん、ちょっと今から、カレンと会わないといけないから」
「そっか、花椿さんにヨロシクね」
今度遊ぼうねー、と言い残して琉夏くんは昇降口へ向かっていった。
もうじきオレンジ色に染まる陽射しを足元に受けながら、私は階段を上ってカレンのクラスへと歩を進めた。

「進路指導とか、もーメンドいよねぇ……」
教室に行くとカレンが自分の机にに突っ伏して唸っていた。大方進路指導で色々言われてげんなりしているんだろう。
「夏碕はどーすんの?」
私が来るまでに何をしていたのか、かきむしって乱れたような髪を整えながらカレンが尋ねる。
「決めてない……」
「えー……」
「えー、って言われても……」
なんでブーイングを受けなきゃいけないとかと釈然としないまま、春休みの間貸しっぱなしだった英語のノートを返してもらう。
カレンがファッションの勉強のために海外に行くっていうのは、それは知ってるけど、きっと先生方はそれが勉強しないことの理由にはならないと思っているに違いない。課題やら試験勉強やらに手をこまねくカレンに泣きつかれるのもあと少しなのかなと、少し寂しく思いながら、ノートを鞄の中にしまった。
その様子を黙って見ていたカレンが「あ」と声を上げた。
「ていうかさっきニーナと何してたの?」
さっき……というのは中庭にいたのを見られたんだろうか。
「相談に乗ってもらってたの」
「なんでニーナ?」
ワケがわからない、そんな顔でカレンは頬杖を突いている。
「たまたま。新名くん、進路指導室に資料運んでたらしくて」
「ふぅん?」
「……なに?」
「別に?意外と頼りがいあるよねあの子」
確かにそう思う。去年の今頃だったか、二回目に出会ったときも年下とは思えない雰囲気だったし、話をしてみると見た目から想像もつかないほど堅実な子っていうのがわかる。
「意外と……って、失礼だよ」
「ふぅん?やけに肩もつね?」
にやりと笑ったカレンの言わんとすることはわかる。わかるけど、それは誤解もいいところだ。
「そういうんじゃないよ……」
「わかってるって!夏碕はコーイチ君だもんね?」
呆れているような声音は、あのバレンタインの後に散々問い詰められたときのことを思い出させた。
なんで告白しなかったのかとか、色々言われた挙句に根性なしとまで言われた。すごく理不尽だと思うけど、その後励ましてくれるような友達がいるのはありがたい。
「なーんもしないまま三年になっちゃったし、もう伝説狙えば?」
疲れているのかなんなのか、珍しく猫背のカレンがのんびりとあくび交じりの提案をした。
「伝説?教会の?」
「うん。……あ、でもコーイチ君が伝説信じて教会に来たらそれちょっと、キモ……いや、意外にカワイーかも!」
しれっと毒舌を挟んだのは聞かなかったことにする。というか、教会の伝説にひっかかりを覚えた。
「ねえ、伝説って“王子を待ち続ける姫の話”だよね?」
「そうだよ?今更何言ってんの?」
中等部の頃から女の子たちの間ではずっと、憧れ交じりの噂の的だった教会の伝説。エスカレーターで進学してきた私だって、知らないはずはなかった。
それはカレンだって心得ているから、こんな風に聞き返されているわけで。
「え?……あ、その、なんか他にもあるんじゃないかなあ、って思って」
こう、花にまつわるものとか。特にサクラソウとか。
「他に?……あったかな……」
期待を込めた目をすると、カレンは腕を組んで考え込んでくれた。
「あ、そういえば」
「何?」
「恋する乙女がうさぎ跳びで教会の周りを100周すると恋が実る!……っていうのは聞いたことあるけど」
かすりもしなかった。身を乗り出したのを元に戻しながらため息もついてしまう。
「……何それ伝説じゃないじゃん」
「アタシに言われても知らないよ。二年が言ってたんだもん」
手がかりというか、何もつかめずに肩を落とした私を、カレンは怪訝な顔で覗き込んだ。
「どしたの?夏碕がそういうこと言うの珍しくない?」
「そう?」
「うん。……あ。ひょっとして、アタシがあんまり乙女乙女言ってるから影響されたかな?」
「……ぷっ、何それ?中等部から一緒なのに今更……」
「わかんないよー?」
今更。
ちくりとどこかが痛むのを隠して笑うと、カレンはさっきの琉夏くんのように背伸びをした。
「っていうかお腹へっちゃった。どっか寄っていこうよ?ウィニングの新メニュー食べたい」
言うや否や荷物をまとめ始めるカレンに急かされて、部室を後にした。外はもう日が沈み始めている。

「ねえ、例えばの話なんだけど――」
「なに?」
歩幅の大きなカレンと歩いていると、いつかのことを思い出す。もっとずっと、背が高い人のこと。
「もし、もしも今、三年生の転校生が来て、新体操部に入ったら……」
カレンは少しだけ歩を緩めた。私の言おうとしていること、気づいているのかもしれない。
「その子と私たち新体操部の三人、仲良くなれると思う?」
ちら、と顔を窺うと、無表情のような驚いているような顔があった。
考え込んでいるような顔にも見えるし、考えはまとまっているけど言葉を選んでいるような顔にも見える。すっと一瞬だけ目を細めた顔を、木々の影が横切った。
「なれるんじゃない?」
あっさりと言ってのけるカレンの歩みが止まった。
「そういうの、カンケーないと思うよアタシは。キューティー4だって、アンタたちだって、そうでしょ?」
アンタたちというのがわからなくて眉を下げると、カレンは笑った。
「アンタとバンビと、桜井兄弟」
「…………」
やっぱり気づいてたんだ。
「なんていうかさ、そういうの……疑うんじゃないけど、そう思ってるってのは、バンビたちが聞いたら多分、傷つくと思うな」
「…………そうだね」
それが気休めかもしれないと思っても、それでもカレンの言葉が嬉しかった。
「そういうわけで今の話はカレンさんが内緒にしといたげる!」
「うん……お願いね」
「任せなさーい!ただしウィニングは夏碕の奢りー」
「うん――ん?えっ!?」
「ウ・ソ。早くいこ!お腹と背中くっついちゃう!」
「あ!もう、食べ過ぎは駄目だよ!」
やけに明るく笑うカレンに手首をつかまれて、私は引きずられるように学校を後にした。

ローファーが走り抜けると、歩道に散り乱れた桜の花弁が舞い上がる。
後ろ髪をひかれるようで振り向くと、つむじ風が通り過ぎたように空間が揺れた。
視線を、自分の前方に戻そうとして顔を動かす。急に運動量が増えて、ぐらりと世界も揺れる。
考えることはたくさんあって、やりたいこともやらないといけないこともたくさんある。全部上手くできたら、それが一番いいのに、それはとてもむずかしいことで。
大人になったら、なんだってできるようになるのかな。

20101208