虹のワルツ

57.いいよそれで、いいよだから(琉夏)

どれくらい時間を潰していたのかよく覚えていない。
商店街のコンビニの前にぼけっとしゃがみこんで、道行く人たちをずっと眺めていた。
7月ももうすぐ終わる、夏休みの繁華街は浮き足立ったカップルがイヤでも目に入る。

『なんで?』
『その、花火大会の日は予備校の模試が――』

羨ましいような妬ましいような感情がどろどろ巻き起こって、いたたまれなくなって顔を俯けた。
幸せそうな人なんて、見ていられなかった。


「すみません、こんな時間までお邪魔しちゃって……」
「ああ、いいよ。それより送ってく」
あれっ、と思って顔を上げると、聞き覚えのある声の主はやっぱり見覚えのある顔だった。
夏碕ちゃんと…………誰だろう、あの男。
立ち上がると、痺れかけた足にじぃんと痛みが走る。無理矢理元に戻そうとして、俺は足早に向かいの喫茶店に近づいた。
「あいつこういうとこはトボけてんだからな……」
俺と同じくらいの背、整った顔。年上だろうか。
連れて行かないで。
その人は大事な人。俺の大事な人の、大事な人。
大事な人?

誰が?


「夏碕ちゃん」

そのときの俺って、多分情けないツラだったんだろうと思う。
じゃなきゃ、キョトンとした顔で振り返った夏碕ちゃんが説明をしてくれるまで、殴りかかりそうな顔を隠せていなかったに違いない。
自惚れだろうけど、俺は人が考えてることにけっこう敏感な方だと思う。夏碕ちゃんは、真実を語ってくれた。
「……なんだ、そういうことか。焦っちゃった」
「え?」
俺が言ってることがわからないというより、そういう言葉を聞くとは思わなかったって顔の夏碕ちゃんは、まだここにいてくれる。
ねえ、俺はただ、大切なものを奪われるあのどうしようもない憎悪に似た気持ちを、誰にも味わって欲しくないだけ。そう思ったら、誰かが笑うだろう、そんな気がした。「本当はお前が全部独り占めしたいだけだろう?」
違う。うわべだけでもいいから、俺は俺のためには何も望まない自分で、いたい。

「おまたせー。忘れ物取ってきたよー」
妙に間延びした声に振り返ると、美奈子と同じような髪型の女の子(に見えるだけで、年上かもしれない)がいた。背後から突然殴りかかられたような感覚で心臓が大きく跳ねる。こんなところに美奈子がいるはずがないのに、やっぱり罪悪感のせいでおかしくなってるみたいだった。
「遅い」
「だからごめんって!痛い!」
チョップし合っている二人は子供っぽくて、些か毒気を抜かれたような心持の俺は呆気に取られてその様子を見ていた。夏碕ちゃんは、笑っている。
俺はその笑顔を憎いとさえ思っている自分に酷い嫌悪感を感じた。
「……どちらさま?」
彼女は俺をしげしげと見つめて、それから夏碕ちゃんと喫茶店のお兄さんの顔を交互に眺めた。
「友達です。ばったり出会っちゃって」
友達です。そうです友達です。でも大事な人です。弟のように思っていて欲しいです。
「どうも」
なんとなく会釈をすると、彼女はにっこり笑って「よろしくね」と言った。髪型だけじゃなく、似ている気がした。
「あ、えと、それじゃ私、琉夏くんに――彼に送ってもらいますから、これで」
「そう?それじゃあ、また遊びに来てね?琉夏くん、も!」
「気をつけてな」
「はい、ありがとうございました」
踵を返した視界の端に、見回り中の警察官の姿が見えた。それも含めた景色にギクリとして目を伏せてしまった俺に、夏碕ちゃんが気づいていないといいのに。

「よかったの?」
「うん。来てくれてちょっと助かっちゃった。あんまり私が、お二人の間にいるのもね、アレだし」
むっとする夜風が吹いて、前髪を乱した。ああ、あの二人がカップルって、そういうわけか。
「俺、ダシにされたとか?」
夏碕ちゃんは笑う。そして何か言っている。白い歯が僅かに覗いて上下に動くのを、俺は無感情に見つめていた。
「うーん、それもあるけど琉夏くん、なんか辛そうだったから」

『模試のほうが大事?』
『え――そんな、そういうんじゃ……』
『―――ゴメン。比べるまでもないよな。お前にとって大事な時期だもん』
『琉夏く――』
『じゃあね』

「気のせいだよ。俺はいつもどおり」
「そう?」
「そうだよ」
「でも、」
つっこんで聞いていいものか迷っているように、上げた手をまた下ろす動作。なんで今日はこんなにイライラするんだろう。耳障りなくらいに、自分のピアスが揺れるのが聞こえる。
くどくどと遠慮がちに追求されるのがもどかしくて、思わずカッとなってしまっていた。
「でも何?なんか聞いたの?美奈子からさ。アイツがなんか言ったから回りくどく、俺に聞いてるの?」
回りくどいのは美奈子だ。なんで俺に直接言わないんだ。
もう目の前に誰がいるのかわけがわからなくなっていた。本当は誰でもよかったのかもしれない。
「……そうじゃ、ないよ。私は気になったから――あ……美奈ちゃんと何かあったんだ、そうでしょ?」
「ないよ」
「嘘、さっき自分で、」
「関係ないだろ。なんかあったって、そのくらい自分でなんとかする、っていうか出来るし、俺そんなにガキに見えるの?別に誰の助けもいらない。一人でいい」
言いながら、何をやっているんだろうかと思った。
撤回しなきゃとも、思った。
なのに俺の口は止まらず、なお悪いことに夏碕ちゃんの顔も見ずに元来た道を振り返り、走っていた。
商店街の方へ近づくにつれて、息切れが酷くなる。頭の中をいろんな人の顔がよぎった。みんな、笑っている。
何が楽しいのか俺にはわからなかった。


見回りの警察官の姿は、商店街から消えていた。見たくもなかったけれど見てしまったアイツらは、まだここにいるんだろうか。
うとましく思っていたはずなのに、今はアイツらが俺に絡んでくることを望んでいる。バラバラになりそうな俺がいる。
深呼吸をした瞬間、聞きなれたくもないけれど聞きなれてしまった、あの忌々しい声が聞こえた。
「おお?琉夏じゃねーか」
顔を俯けて息を整えている間も、俺を挑発するためのくだらないセリフをポンポン吐き出す。よくもそんなに考え付くものだと最近じゃ呆れてすらいたのに、今日はすべてがあいつらの思惑通り、俺の神経を無闇に刺激した。
「テメェ女と一緒に逃げたんじゃなかったのか?あ?」
「琥一の後ろにひっついてたと思ったら今度は女の尻か!情けね―……」
ニタニタ笑いながら近寄ってきた鼻ピアスの男の顔を、力いっぱい殴っていた。殴ったのだと、遅れて気がついた。
こいつが倒れこむまで、俺は自分が何をしたのか認識できていなかった。
「がっ……!……て、めェ……」
鼻ピアスが唾を吐きながら立ち上がるのを尻目に、ガタイのいい金髪が俺の胸倉を掴んだ。怒っているのか憎んでいるのかよくわからない目をしている。
「……喋りに来たんじゃねえよ」
鬱憤晴らしに来たんだ。中学の頃みたいに。
「今日はいつもと違うみてーだな」
「来いよ」

思い通りにならないことが悔しいなんて、子供じみているにもほどがあると思った。
花火大会に行きたかった。アイツと。
俺たちだけじゃなく、コウと夏碕ちゃんも一緒に。二人ずつだけど四人で、花火大会に行きたかった。
花火大会だけじゃなく、ずっとそうしていられたらいいのに。
俺の思うとおりにならないなら、いらない。
そう言える潔さすら俺は失って、もうどんな駄々をこねればいいのかわからなかった。

20110320