虹のワルツ

59. 現実と虚構の狭間に君がいる(夏碕)

私の、高校最後の夏が終わった。

なんだか自棄気味の新体操部のメンバーと打ち上げと称してファミレスで騒ぎ、そのあと家に帰って自室に入ると虚しいくらいの沈黙が私を襲った。
鞄を床に置いて、ベッドサイドに腰を下ろして目を閉じる。
今までのことが、所謂走馬灯のように思い浮かぶこともなかった。目を閉じても開けても、真っ暗なままに先は見えなかった。

本当に、散々な時期が続いていた。
部活と勉強は両立できない一方、祖父母からはプレッシャーをかけられ、琥一くんには避けられているような気がするし、琉夏くんには……なじられた。
美奈ちゃんは推薦入試のための予備校の特別講座で忙しく、カレンは『オジサマから鬼のように課題出されてしにそう〜』らしいし、ミヨも、二人ほどじゃないけれど受験生だから忙しいようだった。
そんな大事な友達の大事な時期には、相談することなんてできなかった。
親には心配をかけたくなかった。
部の仲間には、部長として弱っているところを見せたくなかった。

深呼吸をすると力が抜けたようで、そのまま上体をベッドの上に横たえた。冷房も入れていない真夏の部屋は蒸し暑く、空気がよどんでいる。
シャワーで汗を流したいのに、それすら面倒なくらい、何もする気が起きない。

私は私で、自分の問題くらい解決できると思っていたのに、あの日の琉夏くんの言葉を聞いて冷水をかけられたようにギクリとした。
佐伯さんとあかりさんが、赤の他人なのに私のことに気がついているのも、そう言われたときに、怖くなった。
結局私も、弱っているフリだけをしてもそこには踏み入らせない、そんなずるい人間になっているんだろうか、と。
ううん、琉夏くんがずるいとは言っていない。
だって彼が抱えているだろう、“あまり似ていない同い年の兄弟がいる”という、私には想像もつかない事情をペラペラと他人に話すほうが、どう考えたってありえない。それこそ、想像するのもおこがましいような苦しみを人知れず抱えているに違いないのだから。
私は人に心配をかけまいとしてきたはずなのに、それが出来ていなかったのかもしれないと思うとショックでしょうがなかった。
美奈ちゃんは、いつだって琉夏くんのことを心配していた。それを聞いているだけだった私でさえ、彼女の苦しさは十分に感じることができた。
“どうしたら力になれるのだろう、どうして話してくれないんだろう、ひょっとして私なんて必要とされていないのかもしれない、だから話してくれないのかもしれない”
そんな感情を周りの皆に感じさせていたとしたら、と考えれば考えるほど、ドツボに嵌っていくように気が滅入った。
そのせいにはしたくないけれど、全国へ行けると言われていたはずの新体操部は県大会で敗退した。

私のせいだ。
そうやって、人のせいにするよりも、自分を責める方が楽だと思っていた。
なのに琉夏くんのあの言葉がきっかけで、自分を責めるというのは、本当は卑怯なことなのかもしれないと、思い始めた自分がいる。
自分を責めながら、それでも心のどこかで、本当は誰かのせいにしたいのにガマンしている謙虚な自分を感じて、かわいそうな自分に酔っていたのかもしれない。
なんて見苦しいんだろう。

悲しいのと寂しいのと悔しいのと、混ざり合って自分でもどういう気持ちなのかわからなくて、なのに涙だけが零れた。
蒸し暑いはずなのに粟立つような嫌悪感を感じて、自分の体を抱いた。本当は自分じゃなくて、誰かにそうされたいのだということは十分にわかっていた。
そうしたらますます涙が零れてしまって、片手を伸ばして椅子の背もたれに掛けたタオルを引っ張ろうとしたのに、私は多分気が昂ぶってうっかりしていたんだろう。勢い余ってヘッドボードに思いきり手をぶつけてしまって痛みに顔をしかめた。涙とごちゃごちゃになって、酷い顔をしているに違いない。
ぶつけた手をさすっていると、カチリと何かの音がした。
なんだろう。
電気もつけないままの部屋の中で目を凝らしても何も見えず、その代わりに軽やかなメロディーが聞こえた。
とてもゆっくりとした、オルゴールの『虹の彼方に』が、ほんの少しの間暗闇の中に響いて、途切れた。
北海道で買ったオルゴールをヘッドボードに置いていたのが、さっきの弾みで少しだけ動いたんだろう。
久しく螺子を巻くこともなかったそれに手を伸ばそうとして、ヘッドボードをまさぐった。暗闇の中で、しかも顔はシーツにつけたままだからどこにあるのか見当もつかない。毎日目にしているはずなのに、それがどこにあるのか忘れてしまっている自分が悲しくて仕方がなかった。
しばらく彷徨っていた右手もシーツの上に落ちて、私はしばらくぼんやりしていた。
教えてもらった歌詞を口ずさんでみようとして、けれど震える唇がそれを許してくれなかった。

ぼろぼろと泣いているだけじゃダメだっていうこともわかってる。私にはまだずっとやらなきゃいけないことがあるのもわかってる。
だけどどうしたら立ち直れるのか、それがわからなくて、私は携帯に手を伸ばして、眩しい画面から一つの番号を呼び出していた。
今だけでいいから、すがりたかった。

『もしもし?』
5つまで数えたけれど途中で数えることをやめた呼び出し音がやむと、とても懐かしい声が、ノイズを伴って聞こえてくる。
安心と、でも迷惑をかけてしまって申し訳ない気持ちで涙がボロボロとまらなくて、何も言えずに携帯を握り締めるしかなかった。
『……瑞野?』
「――っ、は……い」
返事になっていない返事をすると、向こう側で息を呑んだような気配がした。
「ごめんなさい、っ……わ、わたし、」
『どうした、何があった』
やや早口で、けれど優しく尋ねてくれる琥一くんの声が愛おしくてしょうがなくて、スカートの握り締める指先に力を込めてしまっていた。
「違うの……あの、あのね……何もないの」
『……今どこだ?』
「じ、ぶんのへや…………あ!ほんとに何もないの、大丈夫……声、聞きたかった、だけだから」
私の言葉の合間に、鍵の束を掴んだような金属の触れ合う音が聞こえた気がした。それは多分バイクの鍵だろう。
もしかしたら琥一くんは、私のところまで来てくれるのかもしれないと、その可能性に気がついた私はようやく冷静さを取り戻しつつあった。そこまでしてくれる彼の思いやりをとても嬉しく思う反面、迷惑をかけるわけにはいかないから、と、私は深呼吸をする。
「ごめん、なさい……こんな時間に変な電話しちゃって」
『いや……』
困惑気味の声は、迷惑に感じているよりもむしろ、本当にここまで来なくていいのか訝しんでいるように聞こえた。
大好きな人の、優しさが向けられたことが嬉しいはずなのに、どうしても胸がつまって苦しくなる。
本当は今すぐに抱きしめられたいなんて、大胆なことを考えている自分が恥ずかしくて、しばしの間私は口を開けなかった。
『…………部活のことか?』
「え――」
私を驚かせたその一言はあまりにも意外すぎた。知ってるの、とか、見てたの、とか、私が尋ねるために口を開こうとするまでも時間がかかっていたけれど、それと同じくらい時間をかけて
『…………綺麗だった』
と、きっと恥ずかしそうに、言葉を搾り出す琥一くんの、耳まで赤くなった顔が目に浮かんだ。
見に来てくれたこと、褒めてもらえたこと、聞いたこともない言葉を聞けたこと、全部が嬉しくてありがたくて、また嗚咽を漏らしそうになる。
「う、ん…………ありがと……」
それだけ言うのが精一杯だった。
『なんつーか……残念だったのかもしれね――残念だったんだろうけど……いや、俺がこういうこと言うのも違うかもしれねえけどよ、』
「うん」
『少なくとも俺は、俺だけは、お前の……三年間がどんなものだったかわかった。新体操は、詳しくねえけどよ。審査員とかが評価しなくても、』
「う、ん」
『一生懸命になって頑張って、やりきったんだろ?俺は、それ自体がすげえことだと思うし、伝わった』
「…………っ、」
『お疲れさん。……頑張ったな』
現金な私は、例え大勢の人から評価されていなくても、その言葉を聞けただけで報われた気がした。
ううん、実際報われたんだ。
こんなに満たされるような気持ちになったのは初めてだった。
確かに部活で結果を残せなかったことは、私を苛む原因の一つではあったけれど、それが一番辛いことかって言われたらきっとそうじゃなかったのだと思う。
部活のことと、もっと色々なことが交じり合って、私は自分のことを責めるしかできなくなっていて、それが色々な意味で一番つらかった。
平気だと思っていたのに、やっぱり私は弱かったんだ。
何も言えずに小さな嗚咽を漏らす私を、琥一くんは携帯の向こうでじっと待っていてくれた。それがとても嬉しかった。
きっと誰だって、たった一人、無条件に自分のことを認めてくれる誰かを欲している。それは誰でもいいわけじゃなくて、その人じゃなきゃ意味がなくて。
私はその“誰か”に最大限の褒め言葉をもらえた、きっと今この瞬間世界一幸せな人間だと思っている。
『精一杯やったんだ、胸はっとけよ。な?』
「うん……うん……そうだよ、ね」
『ああ』
ちょっとだけ笑っている、彼の細められた目が思い浮かぶ。
「ありがとう。なんか、すごく元気になれた」
『……本当か?』
「本当だよ。勢いで電話しちゃって、話しながらどうしようって思ってたけど、やっぱり電話してよかった」
みっともなくも、鼻をすすりながらそう言う私は、心からそう思っていた。
今まで溝が出来ていたような、わだかまりのことなんて頭から消えていた。
『変な気、遣ってんなよ。……俺は励ましたり相談にのったりするのは得意じゃねえかもしれねえけど、』
「そんなことない」
私が今までよりも力強く口にすると、また息を呑むような気配がして、束の間の沈黙が訪れる。
『――そうか。ま、とにかく俺でいいなら話を聞くぐらいいつだって出来るから……つーかそれぐらいしかできねーから、電話くらいもっと気軽にかけろよ』
「うん、本当に……ありがとう」
『ああ。……もうこんな時間か。ゆっくり休めよ?』
家に帰ったのは10時すぎくらいかなと思いこんでいたけれど、今は何時になっただろう。私がぼんやりしている間に、ひょっとして12時近くなっていたとしたら、琥一くんに申し訳ないことをしたなと、反省した。
「あ、ごめん……。琥一くんもね」
『俺はいいんだよ。……じゃあな』
「……おやすみなさい」
通話が終わった待ち受け画面には、23:34と表示されていた。本当にはた迷惑な時間に電話をしてしまって、自分の浅はかさに猛省した。
でも、それよりも電話して励ましてもらって、何より久しぶりに声を聞けたことが嬉しくてしょうがなかった。
ぐちゃぐちゃになった顔をタオルでゴシゴシと拭いて、満足感の中で私は体を横たえ、目を閉じる。
久しぶりに、ゆっくり眠れる気がした。

20110324