虹のワルツ

64. わがままなのは理性か感情か(琉夏)

夏碕ちゃんと俺がやってきたのは一流大学だった。
夏休み中に企画されていたオープンキャンパスは部の大会の日程が被ってしまったせいで来れなかったので、今からでもちょっと覗くくらいでもしてみたい、とのこと。
特に異論はなかったし、どこにでも付き合うと言った手前もあって俺は大人しく夏碕ちゃんに付き合って移動した。
大学前のバス停で、そういやカイチョーって大学はここに通ってるんだっけと思い出したけど、今更どうすることもできないし夏碕ちゃんもいるし、大体怒られてもどうでもいいやと思いなおした。
大きく開けられた門をくぐるときも、守衛さんのいる詰め所の前を通り過ぎるときも、特に何も言われなかった。大学ってけっこういい加減なところなんだろうか。

「なんか静かだね」
「うん、授業中なのかもね」
確かにまだお昼にもなっていない。
ところで俺たちだけでうろうろしたってどうしようもない気がするけど、夏碕ちゃんは一体どういうつもりなんだろうか。何か見たいところとかやりたいことがあるのかと聞くと、
「あ、ゴメンね……。興味ないところにつき合わせちゃって……」
「いいよ」
具体的にどうするという答えが返ってこなかったので、俺はちょっと笑った。雰囲気だけでも……そういうつもりだったのかもしれないし。
構内には意外にもたくさんの木が植えられていて、時折梢が風に吹かれてざわめいた。ちょっと、いいところだなと思ってしまう。
「大学ってさ、90分授業だろ?」
「らしいね。高校の、ほぼ二倍だね」
俺はちょっと耐えられそうにないかも。そういうと、夏碕ちゃんが意外そうな顔で笑った。
「あれ?ちょっと進学する気になってた?」
「……ううん、俺には向いてないよ」
サボリ癖があるし、勉強することが好きじゃないしやりたいこともないし。ちゃんと勉強する気のある人が行くのが一番だ。先生になりたいって思ってる美奈子みたいな人が。
そういうと、夏碕ちゃんは暗い顔になった。俺のことでなく、自分のことで何か心配事でもあるんだろうか。
「なんか、悪いこと言っちゃった……よな」
「あ、いいの。私、進学する気はあるのにやりたいこと、見つけられないから……」
変な話だと思って尋ねてみると、
「祖母がね、若くして家庭に入った母さんの分まで私に期待してるみたいで、大学もいいところに行きなさいって。小さい頃からずっとそう言われてて、自分でもなんとなく一流大に行くのかなっては思ってたけど、自分の意思で“行きたい”って、そう思ったことが、なくて。美奈ちゃんがやりたいこと見つけて頑張ってるの見てたら、なんか、なんていうか……このままでいいのかなって思って」
「自分が納得できる理由がないってこと?」
「うん……。琉夏くんの言うとおり、目標のないまま大学に行ったってしょうがないって思うし」
でも、俺のクラスでも『なんとなく進学』ってヤツが少なからずいる。さっきの俺の言葉は自分が進学しない意思表示のための弁解だったけど、それをまともに考えちゃう夏碕ちゃんは本当に、なんというか生真面目なんだろう。言葉は悪いかもしれないけど。
さっきと言ってることは違うけど、大学でやりたいこと見つかるかもしれない。俺はそう思う。
というか、同じ無目的でも俺と違って夏碕ちゃんならきっと見つける気がする。
でも学部とか学科とか、詳しくないけどそういうの決めて入学するわけだし、そう簡単にコース変更が出来るとも思えない。
夏碕ちゃんは心配性かもしれないけど、ちゃんと考えてるんだな。

俺たちは仕方なくぶらぶらと構内を歩き回って、グラウンドのフェンスに張られたサークルのポスターを眺めたり、購買部みたいなところを覗いたりして時間を潰していた。潰すも何も予定があるわけじゃないけど。
12時になると、高校と同じようなチャイムが鳴った。校舎から人がどっと流れてくるのかと思ったら、そうでもない。というか、昼休みが始まっても人の数が増えそうにない。もしかして昼休みじゃないのかな。
「今日、お休みなのかな?創立記念日みたいな」
「どうだろ……」
ぶらぶらしていた俺たちは、長いスロープのある建物の前にやってきた。『中央図書館』の大きな看板がかかった煉瓦の建物。
そのスロープのてっぺん、多分図書館のエントランスから出てきたカップルの姿を見て、夏碕ちゃんが声を上げた。
「佐伯さんと、あかりさん……」
意外な人物に遭遇してぽかんと口を開けている夏碕ちゃんに、二人も気付いて驚いているみたいだった。

「あれ?もう高校は二学期入ってるよね?どうしたの?」
あかりさん(と、俺も呼ばせてもらう)がスロープを駆け下りてきて、俺たちの顔を交互に見ながら怪訝な顔をしている。
この二人、ここの学生だったのか。
「ええと…………なんというか……」
言いよどむ夏碕ちゃんの意を汲んだのか、あかりさんは苦笑した。
「見学、かな?残念だけどまだ夏休み真っ最中だから、もぐりこめそうな講義はないと思うな……」
「……夏休み?」
曰く、大体どこの大学も8月と9月は夏休みなんだとか。
「知らなかったの?」
「恥ずかしながら……」
本当に恥ずかしそうにする夏碕ちゃんを、あかりさんは笑った。
「話をするくらいなら、私でもできるけど。どうする?」
「……もし、ご迷惑でなければ!」
迷惑なんてそんなことないよー!と、あかりさんは気持ちよく微笑み、首を振った。図書館でレポートを片付けていた二人は丁度今から昼食を摂ろうとしていたらしく、俺と夏碕ちゃんも勢い、それについていくことになる。大学の食堂まで部外者が入ってもいいんだろうか。
後からやってきたお兄さんに聞くと、「その辺にも学生じゃなさそうな人がうろついてるだろ?」と呆れるように答えてくれた。いや呆れてるっていうか、なんかとてもダルそうというかメンドくさそうな声。常日頃からこういう感じなのかな。セイちゃんみたいだ。
確かに言われてみれば、犬の散歩中のおじいちゃんやら、買い物袋を下げたおばさんやら、ちょっと学生には見えないような人がちらほら見受けられる。
「ふーん……おもしれぇ」
「いや別におもしろくはないだろ。……ま、いいか。つーかさ、こんなとこまで付いて来るって、やっぱ彼氏?」
お兄さんは俺の顔を真正面から見据える。値踏みするような視線は、ああ多分こないだ俺が殺気立ってたから警戒してるのかな。
あの時は夜の繁華街の電灯の下だったけど、日の光の下だとけっこう野性味溢れる肌色だってことがわかる。コウとどっちが黒いかな。
と、マジマジと眺めるのも失礼なので、視線をそらすついでに手も振った。
「俺が?違う違う!」
「やっぱ友達ってワケか……。ああ……ふーん……男友達ね」
なんか釈然としないような口ぶりは何故だろう。何か嫌な思い出でもあるんだろうか。あかりさんに、男友達という名の悪い虫がついてたことがあったとか、そんなとこかな。
お兄さんはしばしの間考え込むような素振りを見せる。俺がその様を見ていると、数十メートル先からあかりさんが叫んだ。「おいてくよー!」
俺たちもなんとなく歩き出すと、お兄さんは眉を寄せつつ更に尋ねる。
「じゃあ、あの子の彼氏ってあの…………。ああ、イヤ、こういうこと言うのはやめとく」
夏碕ちゃんの彼氏。
お兄さんが誰のことを言ってるのか、すぐにわかった。
なんだ、コウはお兄さんと顔を合わせたことがあるのか――ああ、それじゃ昨日の考え込むような顔は、お兄さんと会ったことを思い出していたんだろうか。ってことは……なんだ、ヤキモチじゃなかったのか。
その辺のことも聞きたくて、俺はちょっと意地悪に聞き返してみた。
「彼氏疑惑?お兄さん見たことあるの?それってどんな人?」
「客のことをペラペラ話すわけないだろ」
「へぇ、客?」
お兄さんは“しまった”って顔をした。ニッコリ笑ってみせると観念したのか、それとも本当は興味津々だったのか、渋々を装って口を開く。
「……ウチの店に一回来たことがあるんだよ。なんつーの?アレ、リーゼントで背が高くてさ、友達なら知ってんじゃないの?」
「ああ!知ってる知ってる!」
思わず笑ってしまったけれど、多分お兄さんは俺の笑いの原因に気づいていない。
「え、じゃマジで高校生なのか、アレも」
信じられないような顔をしている。“も”ということは、大方夏碕ちゃんのことも高校生って思ってなかったんだろう。
すごい高校生が多いんだなと感嘆の声を漏らすお兄さんに、
「マジだよ?ついでにそいつ、コウは俺の兄貴」
俺がそう言いながら笑うと歩みが止まった。
「………………そういうことさ、早く言えよ」
申し訳ないけどお兄さんの気まずそうな顔が面白くてしょうがなかった。
こないだ俺がドッキリさせられた分、今このくらいお返ししてもいいだろう。……まぁ、あの時のお兄さんに罪はないんだけど。
「俺気にしないよ?コウは誰から見ても強面で悪人面だしね」
でも優しくて、いいヤツなんだとは口が裂けても言わない。
「返事に困るようなこと言うなよな」
軽口のように言うお兄さんは、反面少し気にしているようだった。
なんていうか、割といい人なんだろうけどからかい甲斐があって楽しい。
まあ、そうなりゃ俺が取る行動なんて一つっきりであって。
「あ、でもお兄さん、街中でコウに殴りかかられても俺のこと恨まないでね?」
絶対にありえないことだけど、反応が見たくてそんな意地悪を言ってしまった。案の定お兄さんはギョッとして、
「……ハァ?ちょ、どういう意味だよそれ!」
走り出した俺を追いかけてくる。案外足が速い。
「そのままの意味!ハァ、お腹減っちゃった!」
「ちょ――ちょっと待てって!おいこら!」
雲間から少しだけ顔を出した太陽が、梢の影をアスファルトの地面に落としていた。

大学の食堂って、メニュー美味しいのかな。焼き魚の定食とか大盛りにできるどんぶりとか、それからデザートもあればいい。
ほんのちょっとだけ俺の脳裏に、一緒に講義を受けて、一緒にご飯を食べる俺と美奈子の姿が浮かんだ。
うん……時々コウと夏碕ちゃんも一緒にご飯を食べるんだ。今こうやって俺たちが食堂に行けるんだから、みんな別々の学校に行ったり、もう仕事をしていても、そうやって集まることも出来るんじゃないかって思った。
大学じゃなくても、例えばずっと俺とコウはWest Beachに住んで時々美奈子たちを呼んで食事なんかして。それぞれの未来に、少しだけでも繋がりが欲しかった。
そんな未来を夢見ても、夢見るだけなら許される気がした。今まではそう思ってた。
だけど俺にはもう大事にしたい思い出と、大事にしたい人たちがいる。大事にしたいんだって思ったからには、それを手放さないようにするしかない。幸せな未来っていうのは、幸せな今の積み重ねで実現できて、きっと今までの俺は今を大事にしていなくて、いつ失くしてもいいように生きてきた。だから幸せな未来なんて、描けるはずもなかったんだ。
夏碕ちゃんがあかりさんから色んな話を聞いている横顔を見ていると、今まで“イラナイ”って言いながら、本当はコッソリないものねだりをしていた自分が恥ずかしくなった。未来を描くとか、掴むとか、そういうことの難しさと尊さを教えてもらったような気がした。
日替わり定食のあったかい味噌汁をすすると、なんだか気持ちまで暖かくなる。久しぶりに家族のことを思い出した。
これから変わろうと思ってる自分がいる。
それがなんだか、ドキドキするけど嬉しかった。

20110330