虹のワルツ

67. 響く声色(夏碕)

気軽になんてとても入れない、何もかもが高い喫茶店に入って、しかもケーキとお茶を設楽先輩にご馳走になってしまって。
実際ケーキもお茶も美味しくて、一瞬全てを忘れそうになってしまったけど、奢ってもらうのは申し訳ないと食い下がる私に、
『俺が連れてきたんだから払わせろ。その分学園祭のステージに期待しておいてやる』
と、ニヤリと笑われてしまった。
なんだか奢られたことが結果的にプレッシャーになってしまって、何度目かわからないため息が口から零れてしまう。
でも、設楽先輩の話を聞けてよかったとも思う。何というか、当たり前だけど人の数だけ道があって、その道を選ぶタイミングだって人の数だけあるのかもしれない。
だからといって、先輩が言ったように『ひょっとしたらギターの天賦の才があって、将来そっちに進んだりするのかもな』とは、思えないけど。

「夏碕ちゃん、久しぶり。……あれ、髪?」
私にギターを貸してくれることになった井上さんと、ネイ楽器店のカウンター前で落ち合った。
ところで私の親友でもある彼の妹と、果たしてどちらを“イノ”と呼ぶべきなのか。
「あ、はい。イメチェンです」
最近、会う人会う人にこの一言を言っているから、さすがにそろそろこういうやり取りに飽きてきた気がする。
「そっちもかわいいね」
何の屈託もなく笑顔でそう言ってくれる人が周りにはいなくて、無性に恥ずかしくなって前髪を隠して俯いてしまった。
「あ、ありがとうございます……」
「……何口説いてんだよ井上」
呆れたようにカウンターの中から声をかけたのは、“ReD:Cro’z”のボーカルの、確かハリー、さんと呼ぶべきなのだろうか。それとも、ネイのエプロンについている名札には、【針谷】と書いてあるから、針谷さんって呼んだ方がいいんだろうか。
彼はニヤニヤしながらこう続けた。

「ソイツの彼氏にブン殴られるぞ?」

頭が真っ白になった直後に、かあっと暑さを感じた。
「か――……えっ!?」
口篭りながら目を白黒させる私を眺める針谷さんは、したり顔で満足そうに笑っている。
「あー、ライブのときに一緒に来てた?」
井上さん、までニヤニヤして私の顔を覗き込んでくる。一体誰がそういう話を触れ回っているのかというのもあるけど、それより、
「あの、そんな、かっ、彼氏とか、そういうのじゃ……」
「は?違うのかよ?」
「こっ、琥一くんはその、あの…………」
「へぇ?コウイチ君って言うんだ?で、彼氏じゃないけど?」
これじゃ誘導尋問だ。両手で口元を覆って何も言えないでいると、二人はようやく追及の手を緩めてくれた。
「あはは、ゴメンゴメン。意地悪だよねえ、のしんくんは」
「自分のこと棚に上げといて何言ってんだっつーの。あとハリーって呼べ。オマエもな?」
「は、はい…………」
「じゃあ俺のことは“おにいちゃん”って呼んでくれていいからね?」
「はい……――はい!?」
「……馬鹿じゃねーの?」
「だって不肖の妹より断然かわいいし?こういう子ならお兄ちゃん、何だって買ってあげるのにって」
「あ、あの…………」
どう答えていいのかわからなくて再びしどろもどろになっていると、二人は心底楽しそうに笑い出した。
ああ、“また”からかわれたんだと気がついたのはその時で、スカートのプリーツを調える手を見つめながら俯く私は、何故かやっぱりバンドなんて向いていないような気がし始めていた。

「ゴメンね?ほら、可愛い子にはちょっかい出したくなるから、な!」
「俺に言うなっつの」
言いながら針……ハリー、さんは、ごそごそとカウンターの中から黒い布袋のようなものを取り出した。
「ほら、試奏してみるか?」
「……えっ?」
「いや、そんないきなり言うなよのしん。――これ、夏碕ちゃんのギター。見てみるでしょ?」
なんでハリーさんから受け取ることになっているのかと聞くと、ネイが楽器のメンテナンスも請け負っているということで、ネックの部分の手入れをお願いしていたとのこと。だから受け渡しの場所もここだったのかしらと思っている横で、布袋―ケース―は開けられ、中から鮮やかな赤いギターが姿を見せた。
「俺が最初に買ったギター。ちょっとくたびれてるけど、使えると思うよ?」
井上さんは、綺麗な長い指でそっとギターに触れた。きっと大事なギターなんだろう。
ベルトのように幅の広いストラップをつけながら、二人がお店の奥に移動していくので、私もそれについていく。
大きな黒いアンプに、コードでギターをつなげて、何かを調節する“つまみ”をくるくる回して、そして井上さんはポケットから取り出したピックで弦をかき鳴らした。
「わっ!」
思っていたよりも大きな音が響いて、思わず声が出ていた。
「びっくりした?」
「はい、少し……」
ライブハウスのとは比べ物にならないくらいの大きさなのだろうけど、エレキギターに触るのが初めての私にとっては十分すぎる衝撃だった。
「なんかさ、こういう初々しい反応、いいね」
「俺は見慣れてるけどな」
そう言う店員のハリーさんは、初心者へのアドバイスも手馴れたものに違いない。
きっとこのお店で楽器を買って始めた子たちは数え切れないくらいいるんだろう。それなら確かに“見慣れている”はずなのは明らかだ。
二重の意味でその道のプロに色々教えてもらえるのを期待して、ギターを抱えたままでいると、なんとハリーさんはあっけらかんと私を突き放したのだった。
「まぁ、教則本なんかもあるけど適当に弾いて覚えんのが一番早えと思うから」
「て、適当ですか!?まだ何もできないのに!?」
「できねーから練習するんだろ?」
「そ、そうですけど……」
「習うより慣れろってことだよ」

あ、と思った。
それは私が数日前に美奈ちゃんに言った言葉だったから。
そうか。私は新しいことに挑戦するのがあまりにも久しぶりすぎて、きっと力が入りすぎてた。そういうことなのかもしれない。
『楽しめよ』
そう言っていた設楽先輩の顔も思い浮かんだ。
楽しまなくちゃ。やってる方が楽しくなくちゃ、見ている方はもっと楽しくないに違いないから。
「いいステージになるといいね」
井上さんが微笑んでいた。
琥一くんと二人で見た、あの冬のステージを思い出していた。


帰りは井上さんに車で送ってもらうことになってしまった。小さなアンプも車に積んでいるらしいので、私が“ついで”というのは変なのかもしれないけど、とにかくついで、らしい。
「色々ありがとうございました、……ハリー、さん」
「ああ、“のしん”くんって呼んでいいよ」
ケラケラ笑いながら井上さんが訂正すると、ハリーさんは心底嫌そうな顔で私を指差した。
「井上は無視しろ、ハリーって呼べ。“さん”はいらねえ。いいな?」
「えっ、だってその、私歳下ですし、あの……」
「のしんがダメならハリーくんで」
「“くん”もいらねえっつの!あー……んじゃハリー先生でいいだろ。佐伯もそう呼んで……」
はたと何かに気がついたようにハリー、先生は口をつぐんだ。佐伯って、あの佐伯さんのことかしらと私も首をかしげていると、あっとハリー先生は声を上げた。
「つーかお前!はばチャの表紙!」
髪型違うから今気付いたけど。と、言いながらハリー先生はまじまじと私の顔を見ている。それがどうにも恥ずかしくて、何故か前髪を掌で覆い隠した。
「えっ、あ、アレはその……成り行きで……」
思い出すたびに、穴があったら入りたいって気持ちになってしまう。
学校でもしばらくからかわれたし。大体あの写真が雑誌の表紙になるなんて聞かされてなかったし、場違いというかなんというか、そういう居心地の悪さしか感じない。
「いいじゃん。表紙になれるほど美人ってことなんだし」
まさに他人事を決め込んだ井上さんのセリフに、つっこむべきか謙遜すべきかわからない。
「この俺様だって一人じゃ表紙になってないしな」
何故か悔しそうなハリー先生のバンドの特集のときに、メンバー全員で表紙になったことはあるらしい。
そういうことなら、ぽっと出の私より断然すごいと思うけど。そもそも人数の問題じゃあないし。
「わ、私も一人じゃないです……」
「いやアレはオマエがメインだろ。佐伯も後ろに写ってるけどよ?」
「そそ。美人さんは堂々としてないとね?」
邪気のない笑顔で言われると反論に困ってしまう。メインは喫茶店であって私なんかじゃ、と言おうとすると、いたずらっぽい笑みのハリー先生に遮られた。
「はばちゃの表紙がバンドでリードギターやるってんなら、周りの期待も高いだろーなぁ?」
「うっ……」
「そういうことならお兄ちゃん、応援しにいかないといけないよねぇ?」
「えっ」
ボケとツッコミも、こうやっていたずらのように私をからかうのも息がぴったりで、一瞬プレッシャーをかけられていることを忘れそうになる。
肩にかけていたギターケースをきゅっと握り締めながら後ずさりすると、これまたぴったり同時に二人は噴出した。
「ごめんごめん!今からプレッシャーかけちゃ、悪いよね」
「ま、いいステージになるといいよな。彼氏候補にいいカッコしろよ?」
軽く頭を小突きながら笑うハリー先生のように、あんなに素敵なようにはできないかもしれないけど、
「ど、努力します……」
いいカッコは、今度こそ見せたいと思った。

20110606