虹のワルツ

70. 日々の欠落(夏碕)

「なんかさぁ、四人そろってご飯食べるのってすっっっっ……ごい久しぶり!」

カレンはフォークを折れんばかりに握り締めて、心の底から嬉しそうに声を上げていた。

「最近はみんな、学園祭にかかりっきりで、ご飯食べながら打ち合わせとかしてたもんね」
「そーそー!おにぎり片手にメジャーとかはさみとか持ってぇ」
「出来上がった衣装にご飯粒ついてたりして……」
「つけるわけないじゃん!」

かわいらしいタコさんウインナーを口に運ぶミヨを小さく小突きながら、カレンもサンドイッチを口に運んだ。
確かに四人でご飯を食べるのは…………何ヶ月ぶりだろう。去年までもそうだったけど、クラスが違えば“なんとなく集まる”ってのは無理で、いつも前もって決めとかないといけなかった。特に今年はみんな進路のこともあって……やめ。進路のことは今は考えたくない。とりあえず学園祭に集中するって決めたんだから。
最後の、学園祭だし。
そんな私の我侭な思考を汲んでか読んでか、四人の会話は来る学園祭のことに向かっていった。

「衣装って言えば!バンビの衣装、すっっっっ……ごくカワイーのに仕上げてるからねっ?楽しみにしてて?」
「うん!ていうか、カレンが衣装担当って聞いたときから私だってすっっっっ……ごく楽しみにしてるよ?」
「ホント!?それすっっっっ……ごい嬉しい!」

何が彼女たちの中にたまっているのか。ためにためて発する『すごい』とか『すごく』の単語を、ミヨは呆れた顔で眺めていた。例に漏れず、私も。

「ミーヨちゃんはぁ、展示の準備どう?」
「ちゃんはやめて」
「あん、つれない!」

なんだかカレンのテンションが無意味に高い気がする。何かいいことあったのかしらと首を傾げそうになるけれど、こうして久しぶりに四人でご飯を食べるってイベントを楽しんでいるのなら、それはそれでいいことじゃないかと思う。

「準備は順調。今年は大きな壁画を描くから……」
「見に行く!」
「行く!」
「私も、もちろん!」

四人、お弁当をつつく手をとめて、お互いの顔を見つめながら笑いあう。
大切な親友が丹精こめて描き上げた絵、一生懸命練習した演劇、親友の晴れ舞台のために労を惜しまず作り上げた衣装。
全部、全部が尊いもの。見に行かないなんて考えられない。
うふふ、とはにかむように笑って、私たちはなんとなく視線をはずしあった。ちょっとだけ、照れくさいのかもしれないけど、同じことを考えているようで嬉しくもあった。

「ミヨの展示、バンビの劇、それから夏碕のステージ!あーん、もう今から楽しみで眠れない!」
「あんまり期待しないでよー。そんなにプレッシャーかけられたら当日台詞とちっちゃうよ」
「台詞、長い?」
「うーん、長いって言うより多いから、こないだやっと全部覚えたの!それでも間違ったりするけど……」
「なんてったってヒロインだもんね!バンビがお姫様!アタシ、やっぱロミオに立候補すればよかったかな……」
「また増えるよ、ファン」
「うっ……それはカンベン!」

中等部のときのシンデレラを思い出したのか、カレンは大げさに頭を抱えて見せた。
そういえば、アレが原因で“ダンスの先生”役に抜擢されたんだっけ。反射的にふっと目を伏せた。
あの日のことを思い出そうとすると、どうしても一緒に、あの冷たい目を思い出してしまう。
あの子、琥一くんが好きなんだ。
さすがにそれくらいは察しがついた。私を憎んでいる理由には自信は持てないけど、そういうんじゃないよっても言えなかった。あんな、あからさまな悪意を見たのは初めてで、何も言えず、ただイノが来てくれたことにほっとして逃げることしかできなかった。それが多分、私が何も言えなかった理由。
でも、もしそのときに『そういうんじゃない』って言ってしまっていたら、多分取り返しの付かないことになっていた気がする。琥一くんが、どこかに行ってしまうような。もう、私の手の届かないところへ、私以外の誰かと。
それは、堪えられそうになかった。


「夏碕ちゃんも練習大変でしょ?」

ふいに話を振ったのは美奈ちゃんだ。彼女のお弁当は、珍しくお母さんが手を抜いたのを象徴しているように冷凍食品のカップに占められている。

「リードギター」
「リードギター」
「う……プレッシャー……」

突然現実に呼び戻すような意地の悪い台詞に、今度は私が頭を抱える。
ニヤニヤしながらそろって『リードギター』と言うカレンとミヨにいらぬ知識を植え込んだのは新名くんらしい。どっから聴いたのか知らないけど今だって目に浮かぶ。簡単に想像できる。『パネェ!夏碕さんリードギターって!マジかっけー!』ほら、言ってそう。本人は、私はそんなこと全然思ってないし、そんなかっこいいとか、なわけないのに。

「というかギターは私だけだからリードも何もないと思うけど……」

目立つギターを一人でなんてできる気がしなくて、ちょっと前に『ハリー先生飛び入りヘルプ参加してください』って言ったら怒られた。『バーカお前、なんで俺様が学園祭で演奏すんだよ。お前のステージだろ。人に頼るな』『キャッ!のしんくんかっこいい!』『兄貴キモッ!』『イノちゃんひどーい!』 以下割愛。
でもまぁ、半ば無理強いとはいえやると言ったのは私だし、はば学の部外者の、卒業生でもないハリー先生(この呼び方にも慣れてしまった)にお願いするのも筋違いだ。スタジオの利用料金を格安にしてくれてるのと、直々に指導してもらえるだけでも奇跡(ハリー先生談)ってものだろう。
練習は、がんばった。勉強時間を削って、無茶苦茶集中して。それこそ家族も友達も引くくらいの集中だった。
別に集中力に自信があるわけでもない。ただ、一生懸命に熱中していれば嫌なことも心配なことも忘れられただけ。
忘れたかっただけ。

「じゃあボーカル」
「がんばれボーカル」
「もー!歌うのは私だけじゃないってば!」
ニヤニヤを隠さない二人のほっぺたを箸のお尻でぐりぐりしたい。美奈ちゃんは片手で頬杖をついて、二人よりはまだ邪気のない顔でニコニコしている。
「でもきっとかっこいいよ〜。早く見たいなあ、夏碕ちゃんのステージ」
「さっきの美奈ちゃんじゃないけど……き、期待しないで……途中で演奏が止まる確率95%だから」
「高っ!」
カレンが勢い余ってストレートティーのパックを握りつぶしそうになってる。そうね、高いよね……わかってるけどね……。
「だって通しで練習してもいつも途中で忘れたり間違えたりするんだもん……もう本番まで時間がないのに……」
「でも100%じゃない。大丈夫、絶対成功する」
「ほら、ミヨのお墨付き」
バン!と背中を叩かれて、今度は私がウーロン茶のボトルを取り落としそうになる。そうは言われても、
「……前向きに善処いたします」
「政治家か!」
カレンはツッコミがてら私のお弁当箱から卵焼きを盗んでいった。お返しに……うーん……サンドイッチと豆乳プリンのカレンからは何も盗めない。

「でも、去年も一昨年も思ってたけど、準備してるときが一番楽しいねぇ」

美奈ちゃんは黄昏るように窓の外を見つめながらつぶやいた。薄い雲がゆっくりと流れている。何かに追われることもなく、ただその時々の風に身を任せるだけのその姿がうらやましい。
「そうだね。当日は終わっちゃうのがだんだん切なくなってくるし」
「終わったらまた現実に引き戻されるし……今年は特に……」
「期末試験、受験、それから――」
「ミヨ!せっかくアタシが言わないでいたのに!」
「言わなくってもなくなったりしないよ」

学園祭が終わったら、何か変わってるのかな。
私はきっと勉強だけに集中して、美奈ちゃんは推薦試験のためにラストスパートをかけて、カレンは今まで以上にお洋服のデザインなんかがんばるだろうし、文化部のミヨは学園祭の後に引退だから、これから受験勉強に本腰だろうな。
琉夏くんと、琥一くん、どうするんだろう。
進路のことなんて何も聞いていないから知らない。彼らはいつもどおりの生活を続けるのかもしれない。
もしそうなったら、別々の道に向けての日々が始まれば、きっともっと、接点がなくなってしまうんだろう。
でも接点なんて、そんなの今まであったかな。

「最後の学園祭が終わっても楽しいこともあるし!クリスマスパーティ!それからまたパジャマパーティもやろっ?」

陽だまりの中で、不意に明るい声が響いた。パジャマパーティは学園祭が終わった翌週にしようとか、どうせなら期末前の勉強会にしちゃおうとか、それって楽しくないとか。しゃべりながらお弁当を食べ終わるころ、話題は卒業旅行のことになっていた。

「沖縄とかどう?」
「暑いのイヤ」
「そんなに暑くないと思うよ?」

今から行き先を決めようとしている3人の会話が遠くに聞こえるような気がした。
琥一くんと出会ったのって、確かまだ一年生で、入学したてで、美奈ちゃんと一緒に帰ろうとした放課後に会って、それから教科書を貸し借りして……あれは琉夏くんだったけど、それから、そうだ、学園祭。あの時はみんなに無理矢理メイド服を着せられて、上級生に声をかけられて――琥一くんが、助けてくれた。
うちに琉夏くんと琥一が来て、3人でご飯食べて、4合炊いたお米がすぐになくなっちゃったり、バレンタインデーにドーナツを揚げて小さな火傷をしちゃったり。
それから、二年生になったら同じクラスになれた。初めて知ることが少しずつ増えていった。琥一くんの周りには男友達が多くて、いつも楽しそうに笑っていたこと。窓際の席で居眠りするときの横顔、英語の授業中に当てられても、意外なほどすらすらと音読してみせたこと。
夏休み、海水浴にも花火大会にも行って、仲良くなれたような気がした。
もっともっと、思い出せる。忘れられそうにない、私の大切な記憶。
修学旅行で一緒にオルゴール館に行ったこと。白いオーバルの宝石箱を選んでくれたこと。“虹の彼方に”を教えてくれたこと。全然、歌ってくれなかったけど。それから押入れに二人で隠れたこと。
教会とサクラソウ、クリスマスに倒れたこと、バレンタインのデート、雨の中の大喧嘩。
きっとこんな風に誰かを想うことなんて、この先絶対ないだろう。
そう、絶対。


「じゃあ夏碕は?どこが――」

全然話を聞いていなかった。何のことかと必死で思い出そうとして、それが卒業旅行の行き先のことかと思いつくよりも先に、三つの顔がずいとのぞきこんでくる。

「夏碕!?」
「どうしたの!?」

立ち上がらんばかりのカレンと美奈ちゃんに、唖然としているミヨ。

「え?みんなどうしたの?」
「ど、どうしたのって……こっちの台詞……」
「夏碕、使って。ほっぺ」
「ほっぺた?」

差し出されたハンカチに、ご飯粒でもつけてたかなと思って頬を触ると、
「……あれ?」
指先が濡れていた。
さらさらと川が流れるように両目からあふれる涙が、お弁当のクロスに一つ、また一つ、染みを作っていく。やだな、漫画みたい。
「ご、ごめん!何でもないから、ホント、大丈夫……」
見守る三人の視線から隠すように、ミヨのハンカチを使わせてもらった。
なんで泣いてんだろう、私。何が悲しいのかな。こんなにたくさん思い出があって、忘れられない出来事があって、何がイヤなのかな。
ちょっと前までさ、それでいいのにって思ってたじゃない。
報われなくたって、幸せな記憶だけでおなかいっぱいで、生きていけるって思ってたじゃない。
あんなことがあって、もう二人、元に戻れないことなんてわかってたじゃない。
「わ、たし」
だったら思い出だけ、大事にしながら生きていこう。一人だって大丈夫だよ。……ううん、一人じゃない。家族もいる、友達もいる。本当に欲しいものが手に入らなくても、もう我侭なんて言わない。だって、大人にならなきゃいけないもの。
何も悲しいことなんてないよ。つらいのはあの雨の日で終わり。
だったのに。

「やっぱり、このまま終わっちゃうなんて、やだよぉ…………」

机に肘を突いて、私は嗚咽をこらえ切れなかった。
諦めきれないんだ、どうしても。
決定的な一言をもらわない限り、ずるずると“戻れないなんて、でも可能性がないわけじゃないよね”って。
そんな中途半端な状態がある意味心地よかった。だって、何もしなきゃ何も変わることなんてなくて、幸せにならないのと同じで、不幸になることもない。
甘えだってのはわかってた。どっちつかずの状態から進もうとしないのは、臆病なだけだ。
今までだってきっと、チャンスとかそういうのはたくさんあった。でも怖かった。
そうやってずるずると先延ばしにした結果、いわゆる自然消滅しちゃいそうで、今の私はそれが、

イヤなんだ。

20120401